2025年8月29日金曜日

見えない月を見る

 感覚器は細部と結びついている。感覚器は自らの周囲の細部、些細なこと、を見つけるためにある。いや、ためと言うより、それらと結びついていると言いたい。

微細な生き物、単細胞生物などでは、それだけで反応している。それでも絶滅しない。

なぜなら、感覚器が拾う、周囲の細部的事象は、実際はそれと地続きの全体の末端であるから。つまり、全体を捉えずとも、細部だけでも問題はない。

ただ、それは、全体に身を完全に委ねているようなものである。文字通り、完全に委ねるというのは生物ではなく、物であり、生物世界で言えばそれは死である。だから、単細胞であっても、生物である以上は、感覚器によって最小レベルで、全体から抗っているとも言えよう。


ともあれ、その発展形として我々はある。依然として、身体は細部だけを拾っていることに注意せよ。感覚器は身近のことしか知らぬ。遠隔受容器である目、鼻、耳などは少々異なる。だが、注意すべきはこれらであっても、本当に遠くを感受しているのではない、という事は気付くべきである。耳は、鼓膜の震えを拾っているだけで、震わせているのは鼓膜と接触している空気のみであり音源ではない。食べ物の匂いも、そこから出た化学物質が触れただけで、その食べ物そのものではない。目も同じである。月を見て、「月という遠方物を見た」と思っているがそうではない。目が捉えているのは、月に反射してやってきた光子のうち、網膜に当たったものだけを感受しているに過ぎない。これは初め理解しづらいだろう。月が見えているのだから。だがなぜ、私はそれを「月だ」とわかるのか?こう問い直せば分かるであろう。「月を見ている」というのは、すでに感覚の後の高度な判断の末の答えなのである。その意味において、他の感覚器と同じである。

つまり、世界を感受するという、環境との関係性において、我々は単細胞生物と基本的に変わらぬ。何が異なるのかは、すでに述べてあることだが、その感覚を素材として、何らかの高度な判断をするという点である。上の例を再度上げれば、網膜に当たった光子の刺激を元にして「月だ」と思えるということだ。単細胞生物にも月明かりは当たるが、彼らはそれを月明かりとは思わない。


我々は、感覚器からやってくる不断の細部情報を積み上げて、自らのうちに確固たる全体を編み出したのである。これを作り上げているのが、他ならぬ、脳である。

感覚器からやってくる細部だけであれば、脊髄だけで事足りることは、脊髄反射の言葉からも分かる。

それら、細部情報のうちで、常にある規則性を持ってやってくるものに対して、順応するように、そこにある不動の対象を生み出した。それがここで言う全体である。

ここでも月で例えよう。網膜に当たる光学情報には、常に激しく変化するものからほとんど変化しないものがある。この違いを感受するには、光線方向を明確に捉えるレンズが必要である。だから、目が要る。目の獲得は、雑に変わる光とそうではない光を分けた。動物が動くと、身体の近接受容器や筋受容器が拾う情報と、目が拾う情報が組み合わされる。そうして、動いても変わらない光と、激しく変わる光に、距離が与えらえる。こうして、月は(遠方の山々も)自分から遠くにあるものとして扱われるのである。

このような光の変化の感受には、だから、自らの動きが必須で、それが動物だけに目がある理由であろう。動かないのであれば、おおまかな光の有無と方向だけで事足りる。外世界という全体は要らないのである。


このような、感覚器からの不断の細部情報の獲得と、自らの運動とが重なり合って、脳内で全体が作り上げられた。全体は動物が生きる上で必須の要素である。この全体を我々人は世界とか宇宙とか空間と呼んでいる。これらは脳内で作られたものであるから、言い換えれば、実在の有無とは厳密に関係がない。いや、この言い方は危険だ。厳密に実在していると信じ切ることができなければ動物として生きていけないほどのものであるから、その意味においては実在しているのだが、ここで私が述べ立てている段においては、実在していないと言おう。ともかく、動物はこうして、自らの内に、世界を作り上げたのである。これがどれだけ重要か実感している者は少ないだろう。動物がなぜ空間内を自由に動けるのか。我々は世界があることを知っているからである。知っている、というのは、それを口に出して説明できるという意味ではない。自らが動けるだけの場が自らの周囲には存在していると“信じきれている”という意味である。

私はなぜ動けるのか。自らの周囲に空間がある、部屋がある、野原がある、と信じきれているからである。信じ切れる理由は、自らの感覚器が不断に与える情報が元となって作られている、空間感である。

見回してみれば良い。自分の周囲に空間があり、さまざまな物が自分からどれほどの距離にあり、それが置いてあるのか動いているのか、はたまた、自分が動いているのか、それこそ全身感覚として分かる。それは常に安定している。その安定が自らの運動の基礎となっている。

世界が安定していなければ、我々はそこに自らを定位できない。


さて、ここで考えを先に進める。ここまで述べた全体と細部は、主に物質感や空間感と、それに基づいた反射としての自己存在、それも物質的存在と関連づいていた。

この事について考えたい。自己存在、物質的存在である。

感覚器が細部を拾い、そこから全体が作られ、世界が作られた。そう、“作られた”のである。作り上げたものは、我々の内において作られたのである。それを今では“概念“とまとめて呼ぶ。空間や存在とはつまり、概念である。概念とは本来存在していないのであるから、さまざまに作り変えることができる。それこそ、何にでもして良い。本来なかったのであるから。

この事が、私たちの抽象観念の説明であり、ほとんどすべてに当てはめる事ができる説明でもある。

イデアであろうが、神であろうが、どのような宇宙論であろうが、何でもそうである。つまるところ、こちらが作っている物語なのだから、「うまく語れているか否か」の問題に過ぎない。

この感覚は、私たちの意識と不断に結びついているのは間違いのないことである。自らの思考を見渡してみよ。先ず、この言い回しがすでに、概念と空間性とを同一視していることを証明している。自らの内を「見渡せ」と、あたかも景色のように言っているのであるから。さあ、見渡してみよう。形のないはずの思考を、まるで存在し、掴み取ることができるように扱っていることに気付くであろう。思考は、目に見る事ができない。それは感覚器を刺激していないからである。それは我々の脳内においてのみ感じられるのに過ぎない。だが、この内なる感覚は、かつては感覚器の不断の情報から紡がれた脳内における外世界の”概念構造“をそのまま利用しているのである。それゆえに、我々の思考は形を持つのである。いや、そのように感じられるのである。この感覚を、逆向的に外部へ取り出す行為が、人間の工作行為である。もちろん、芸術行為もこの内に入る。

だから芸術作品は、脳内の概念に形が与えられたものである。よく言われている事である。だが、それを、我々は具象と抽象とに分けてきたがこれが本質的には無意味であることが今や分かっただろう。どちらも根本的には同質である。具象抽象の言い分けは、単にそれが、感覚器が拾ってくる情報に近いのかそうでないのか、とも言い換えられる。どちらにしても脳内で再合成されていることに違いはない。


今や、哲学や科学は、自らの感覚器に基づいて作っている世界に自分が生きていることを忘れ(厳密に言えば忘れていてよい、知らなくて当然、そのように進化したのだから)、世界が本当に外にあって、自らとは別物だと思い切ろうと努力している。その傾向が顕著なのはもちろん科学である。科学の主観・客観問題はしばしば議論される(主に哲学・科学哲学領域であろう)が、科学的な真実の探究には人間の不要性を追い求めているようにすら見える事がある。だが、ここまで述べてきたことからも分かるであろうが、我々が思うところの世界、宇宙は、あくまでも”我々が思うところの“が前提であって、それを外すことはできない。我々自身の存在、この肉体が、その宇宙を生み出した張本人なのであるから。これは、どこまで行っても抜け出ることはできない。我々である以上、我々の限界は越えられない。

別な言い方をしよう。どのような科学であれ、分析しているのは、実際のところは”自分自身“である。

例えば、量子力学のパウリが心理学のユングと親しかったことなどは、この流れで見てみれば全くもって意外な話でもないのだ。


8月23日(土)