彫刻は形状を扱う芸術であり、それに関わる彫刻家は必然的に形状に敏感になる。しかし、その敏感の矛先がどちらを向くのかで、同じ対象であっても捉え方は変わってくる。だから、同じリンゴをモチーフとして見ても、作家によって出来てくる作品は違う物になる。その一方で、ある程度の「見方の方法論」というものもある。リンゴなら球に還元してみるとか、そういう類のもので、技術論である。短期間で効率的に技能を習得させたい美術予備校やカルチャースクールなどで好まれる。と言うより”教える”となると、そういうことを言うしかない。
自身の経験から見て、それらは時に表面的である。と言うのは、リンゴを球に見立てたり、人間を面で大まかに分割した紙人形のように見立てて捉え直すという手法は、純粋にその対象の表面しか考えておらず、その形状がなぜ(つまり必然的に)その形状を成しているのかというところまでは決して降りて行こうとしていないからだ。
興味深いことに、これらの対象の捉え方は、3次元CGの世界でも有効的に用いられている。3DCGの世界の住人は、言わば点の集まりで出来ていて(私たちが細胞という点の集まりであるように)、彼らを包括しているコンピューターは、彼らがどこにいるのかをその点全ての位置情報から割り出している。言ってみれば、私たちの細胞全てがGPSを持って常に人工衛星と通信しているようなものだ。点一つづつに計算処理時間が掛かるわけだから、点が多い(つまり、絵が細かい)と、その処理量は膨大なものになる。そういった技術的な理由もあって、3DCGの世界の住人は基本的に”皮しかない”。 もっと言えば、彼らの正面を見ている時は、実はその背中さえないのである。 目に見えない皮膚の内側や背中などあっても無駄なのだから。更に、遠方にいて点のようにしか見えない時、彼らは実際に”点になっている”。遠ざかるにつれ、体を構成する点の数を減らして行く(面が粗くなる)のである。
CGの世界では、計算処理を軽くするという、効率化のために対象の表面しか考えないのである。ここでは、見えないものは実際に無くなるのだ。
美術予備校で教わる、対象の単純化という技法も同じことだ。実際、それらのやり方は効果的で、闇雲に眺めていたのでは見つけられない構造の規則性などを見つけることも出来る。
リンゴでも、球に還元したり、面で分けたり、立方体に押し込んだり、色や光沢で分けたりと、様々に単純化して見直すことが出来る。しかしながら、ふと疑問に思うのは、それらが全て表面性しか追っていないということだ。まるでCGのように。
芸術の目的は技術の向上ではない。しかしながら、技術がなければ表現の質も下がる。そういう理由から、初歩段階である予備校などではまず技術を習得させることになる。事実、美大の受験で見るのも技術力である。だから、そこに合格するのは単に技術力があるに過ぎず、芸術家に必須の感性云々は実は全く問われていない。”芸術”大学の矛盾をここに見る。それでも、日本では「写真のように描く=絵が上手=芸術的才能がある」というセオリーが根強いので、全体が無難に回っている。
上記したような、対象を表面でしか見ないで満足してしまう癖も、そういう背景があるからなのかもしれない。
想像して欲しいのだが、もし、リンゴを生まれて初めて見てそれを描くのと、味も重さも切った感じも、木になるということも知っているリンゴを描くのとで、同じリンゴが描かれるだろうか?
私たちは、コンピューターのようにメモリーを節約しなければリンゴや人体を描けないほど貧弱な脳を持っているのではない。入力から出力までの経路もPCのように単純ではないのだ。そして、芸術の旨味とは、正にこの単純ではない部分から生み出されるのだろう。
美術を習おうとすると用意される「表面的に捉える技法」の数々。それらは、一見甘い蜜である。それに従えば技術は速やかに向上するのだから。それを否定は出来ない。疑問なのは、”それしかない”ことだ。そうやって形が捉えられればそれで終わりでは、CGと同じであり、その正確さで競うならCGに敵うはずもない。勿論、それが目的であるはずもない。
人を対象とする時、人の形について問う。そのような姿勢もまた必要なのではないだろうか。目の前に見えている物だけを機械的に移すのでなく、その存在理由や、隠されている構造まで思いを巡らすことで、確実に見え方も変化し、出来てくる作品にも影響を与えるだろう。また、それこそが、機械には出来ない、人間的行為なのだから。
そう考えるとき、解剖学や発生学など、一見、芸術と関係の無いように見える領域が、にわかに芸術を向上させうる強力な知的支えとして見えてくる。
日本では、美術解剖学という独立した概念があるが、多くの人にとってそれは、単に骨や筋の位置や名称を指し示してくれる地図のようにしか思われていない。故にアカデミックの象徴のように揶揄され、自由な表現の妨げにさえなるとして敬遠される節もあった。
しかし、解剖学の醍醐味は名称や構造を暗記するというような安易なものでは決して無く、それらの情報が指し示す私たち自身の存在に対する様々な投げかけこそにあるのだ。
そういった、知識による咀嚼は、あたかもリンゴを囓ってみることに似ている。眺めていただけでは決して分からない味わいが、次からそれを眺めるときには思い出されるのである。
かつて、レオナルドが一枚の絵を描くために、なぜ解剖をし、物理の研究をしたのか。単に、分離した興味が並列的にあったというはずがない。そもそも、彼にとって絵は答えではなかったろう。それは、確認に過ぎなかったのではないか。自分と、それを包括している世界の存在という問題に対しての。
だとするなら、それは芸術に対峙する正しい方法論であって、現代の私たちもそれを参考にすることができるはずだ。
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