面白い彫刻作品を見つけた。ピーター・ヤンセンの作品で、ご覧の通り、運動のある一時期を切り取って、ちょうど高速フラッシュ撮影で見たような状態を立体で表している。CGで作成したものをプロッタで出力しているらしい。同じ形状や動作を何度も繰り返すような仕事はCGの得意分野−正確に言えば、人間には苦痛−で、技術と価格が現実的になりつつあるのか、ここ数年でこの「技法」が目立ってきたように思う。日本では、小谷元彦さんがこの技法を用いている。
この作品は私たちの目では、時の流れに過ぎない一連の動作を、一定期間ごとに静止させることで、動きと量を混在させている。
彫刻は、物質として実空間に存在するために、モノ感が強く、その結果、時間性に乏しいものとなりがちである。だが、それが表現としてのデメリットとなるものではない。とは言え、各時代の彫刻家は、その作品に時間性を取り込む工夫をそれぞれにしていた。もっとも簡単なのは、特徴ある姿勢を取らせることだ。歩く、走る、弓を射る等々。
カメラは、視覚を延長させる大発明だった。それは、今まで見ることの出来なかった「静止した運動」を目の当たりにさせたからだ。きっと、それは人々を興奮させただろう。
その新しい視点を、作品制作に応用した作家もいただろうが、ロダンはむしろ、写真では運動そのものは捉えられないことを見抜いていた。彼は、アトリエでヌードモデルを自由にさせて、それを目で追ってデッサンを繰り返していた。ロダンは、運動における躍動感は、肉眼で捉えたものの中で生きるものであり、切り取られた一瞬に同様に宿るものではないと感じていたのだろう。
ロダンの「歩く人」とその前身の「聖ジョン」には、ロダンなりの時間表現がなされていることで有名である。それは、現在進行中の時間が一つの形の中に取り込まれている。つまり、歩行中の人物を写真で撮っても、決してこの姿勢は得られない。
もう一つ、時間を意識した有名な作品として、ボッチオーニの「Unique Form of Continuity in Space」がある。箱根彫刻の森で見ることが出来る。斬新な造形と論文表題のような作品タイトルから、非常に実験的な趣が感じられるが、その反面、ロダン作品が持つような有機的生命感が希薄であるように思われる。
ともあれ、この作品にはすでに連続フラッシュ撮影のようなカメラ的視点が反映されている。まぎれもなく、カメラという新しく延長された視覚を通しており、そこがロダンとの決定的な違いであろう。
20世紀のこの作家はそれを拒絶せずに取り入れたが、やはり、今見るとそこはかとない古くささを感じざるを得ない。連続フラッシュどころか、超高速度撮影や赤外線、さらにはMRIやCTからの立体画像などのいわゆる可視化技術の映像に慣れ親しんでいる私たちには、もさったさと言うか不必要な重さが反ってリアリティを無くさせているようにも感じはしないだろうか。
テクノロジーに依存せず、自らの肉眼感覚を重視した19世紀のロダンと、テクノロジー的視点を表現に取り入れた20世紀のボッチオーニ。そして、今世紀のヤンセンの表現がその流れに引っかかる。
ボッチオーニまでの写真は2次元情報だ。3次元の世界の光の反射をネガに投影することでそれは平面化される。
しかし、現在では、レーザーの反射を利用した非接触型立体スキャナが存在する。これは同時に写真のような色情報も取り込むことで、まるで立体カメラのように立体物を立体情報として扱うことが出来る。また、物の運動を映像から抽出することも出来るし、人間や動物の体に反射マーカーを取り付けてその位置情報を取り込むことで運動を情報として取り扱うことも出来る(モーション・キャプチャー)。
ヤンセンの作品は、もともとがCGであることや、運動が全方向性を持っていること(ロダン、ボッチオーニが共に「歩く」という一方向性であり、特にボッチオーニの作品は明らかに側面からの鑑賞を考えられているところに写真と同様の平面性を宿しているところが興味深い)などに、従来の写真という平面性を越えた「現代的視点」を宿している。
しかし、ヤンセンの作品には、「手業」が全くない。この形状が生み出される過程は、多分すべてパソコン上で行われた。体の各部分は機械的に繰り返されたに過ぎない。そこには、空間における形の見え方に対する作家の主観というものは排除され、単に運動のある一過程を立体的に追いかけたらこの形が見えてきたと報告しているに過ぎないものだ。
手業の排除も、現代美術の特徴のひとつなのかもしれない。
技術は、私たちの身体を延長させる。それが手に入るようになると、新しいおもちゃを買ってもらったばかりの子供のようにはしゃいでしまって、まるで世界が新しくなったかのような感じを覚える。だが、技術は必ず古くなる。古くなるものはやがて忘れられる。
だが、私たちの感覚は古くならない。100万年以上昔から変わらず、これからもそうだろう。生の視覚に映る感覚を大事にしたロダンの作品は、今でも古くささをまとっていない。今、真新しく映るヤンセンの作品は100年後に残るだろうか。
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