2019年1月7日月曜日

告知 日本美術解剖学会


参加料が掛かりますが、どなたも参観できます。
どの時間からでも入室できます。硬い雰囲気ではありません。
芸術と学術の境界を楽しんでいただければと思います。

2019年1月6日日曜日

西洋人ヌードモデルを用いて

 2019年初の外仕事は朝カル。いつも参加される皆さんの顔ぶれに宿る芸術と人体への積極的な眼差しは相変わらずで、そこには年始も平日もない。

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3回セットの今回は外国人モデルの体型を見ることが主眼である。私たちが「芸術」と呼んでいる対象は大抵は西洋美術で、もちろんヌードを描いたり見たりする文化も西洋から来たものだ。西洋美術のヌード(のモデル)も西洋人なのでその体を実際に観察することで、色々と気づくこともありそうだ。そのうえ、受講される方の多くは常連なので、日本人のヌードは相当に目に馴染んでおり、西洋人の身体を見たときに東洋人との体型の差異をより敏感に感じ取れるだろう。実際、私自身もほとんど経験のない西洋人の身体で、改めて、同じパーツで構成されながらもこうも異なるのかと驚きの連続であった。
 モデルは白人の細身の女性で、よく言われる通り、脚が長い。それを担保しているのは短い胴である。頭は前後に長い長頭型なのも典型的である。このように一般的に言われている”違い”は、もちろんそれ以外の全身に渡って探し出せるもので、手足の先端までに至る輪郭線ひとつとっても見慣れた東洋人のそれとは異なっていて、身体に現れる曲線が全て引き伸ばされているように見えた。脊柱の弯曲も若干強いので、前面では肋骨弓が強く張り出し、骨盤下部は後方へ引っ込む。胸郭は垂直に立ち気味なので、そこから上へ伸び出る頚は垂直に近く立っている。
 「日本人のふくらはぎは低く、欧米人のそれは高く見える」と受講者からの意見。しばしば比較に出される部位で、実際そのような違いがある。ふくらはぎは、膝を曲げる筋とかかとを挙げる筋の複合体で、後者の筋腹がより低く位置し立位では足首を固定する姿勢維持筋でもある。収縮力を持つ筋腹は厚く重い。その重量物は脚の運動の起点である胴体に近いほど、前後に振り戻す際の力が少なくて済む。実際、高速移動型の動物は重たい筋腹を胴体側に集めていることは馬の体型を思い出せばよくわかる。反対に、東洋人のふくらはぎのように筋腹が作用点つまり足首に近い場合、脚の高速運動には明らかに不利に働く一方で、かかとを挙げた姿勢で”てこ棒”(モーメントアーム)を長くできる。なぜこのような違いがあるのか分からないが、東洋人の身体は高速で移動するデザインではない。
 また、頭部における耳の位置の違いも質問で出た。耳は頭部の目立つ部位でありながら、その表現においては二の次に扱われる。それはおそらく人の表情の構成要素ではないからであろう。耳は頭部の中を個人差で移動するものではない。耳の位置は頭部の位置と強く関係している。普段私たちは耳は音を聞く器官ほどしか思わないが、耳の本当の働きは頭部の位置、それも立体空間内での位置を同定するためにある。頭部以外の身体は、大げさに言えば頭部の位置に従っているに過ぎない。もしくは、頭部の望むべき場所と位置を叶えるために存在している。内耳と呼ばれる耳の奥深くは液体で満たされ、身体とは別のもう一つの空間が再現されており、頭部の動きや位置はこの空間との差異によって同定されている。そして、もうひとつがいわゆる外耳が拾う外世界の音だが、単に音を聞いているというより、音波の高低と大小の違いから外世界との相対的な位置を算定している。自分が止まっていれば周囲の音源を立体的に探索することができるのは、耳が左右についているからであり、目が左右にあることで視覚的距離感を得ることと理論的に大差がない。ただ音は光より遅く進むので、到達時間の差異を探索に利用することができる。どうするかというと頭部を動かすのである。犬や猫が頭をかしげることがあるが、それは音で距離を測っているのだ。ちなみに私たちのかしげる動作は「分からない」というメッセージになっているが、これも音による探索から来ているのかもしれない。話を戻すが、耳は音の差を拾うために、頭部の両側(互いの距離が最大)に置かれ、その回転中心に頭と頚の関節がくる。こうすることで、ちょうど回転レーダーの傘と軸のように機能している。人間の耳も同様で、外耳孔の真下に頚との関節が位置している。つまり、耳の位置は頭の中で決定するというより、頚椎と頭が連結する部位との関係性で決まるのである(もう少し細かく言えば、空間内における特定の動物ごとの頭部の運動軸)。
 西洋人は耳から前方までの距離が長く感じられるが、これは一言で言えば長頭だからで、ではなぜ長頭なのかと言うと”よく分からない”。ただ、長頭という一言でまとめてしまうと若干大づかみで、例えば化石人類は顎が丈夫で長いために長頭だが、西洋人のそれはもちろん異なる。むしろ、額の突出と大きな鼻がそう見せている。そのうちの鼻は中が空洞だが、額は脳の前頭葉によるものだから重さが相当ある。頭関節から遠方が重いのでそれを支えるには後頭部を下に引っ張らなければならない。より小さな力で引っ張るには”てこ棒”を長くすれば良いので後頭部も突出する。結果的に前後に長い長頭となる。頭関節を間に介して頭部の前後を比較すると、ちょうど脳の体積を前後に2分するような位置にあることがわかる。ただ前方には脳に加えて顔があり、顔は丈夫で重たい下顎やそれらを動かす筋が付着するので重さが増す。とは言え、獲物を捉えるためにできた顎はいたずらに短くできない(人類は十分に短いけれども)。短すぎると咀嚼力の低下か、それを補うための厚く重たい咀嚼筋を具えるかのジレンマが生まれる。その際どい拮抗点が人類の今の顔の前後長であろう。対して頭関節から後方には強力なうなじの筋を目一杯つけることができる。頭部をペンチ(はさみでもいいが)に例えれば、グリップが後頭部だ。大人が力任せに握れるならグリップは短くてもいいだろう。だから頭部を耳を起点として前後長を比べると必ず前方がより長い。一方で顎が小さくて筋力が弱い幼児では、後頭部が相対的に長く突出して見える。

 クロッキーを行う部屋の天井は蛍光灯が全面に取り付けられ全光源になっている。そのため、モデルの体にも反射光を含めると全体に光が回る。これは輪郭線を追うには良いが、身体の起伏を追うのには実は向いていないことに、今更ながら気付いた。モデルの肌は白く、日本人以上に光を吸うので数メートル離れると起伏がほとんど消えてしまう。そこで部屋の奥側の蛍光灯を消して見たところ、凹凸が強調され、全く見えなかった微細な起伏を目で追うことも可能になった。思えば西洋絵画の古典のほとんどが蛍光灯や室内灯などない時代の光線をもとに作られている。今後は光源のコントロールも念頭におきたい。

 セッション後に、西洋人の「動き」も観察したいという意見を頂いた。確かにそれも興味深い。今後は、人種の違い、光源、そして動きなど、要素の拡大を考慮していきたい。





















2018年12月29日土曜日

形と音

 結局形なのか、概念なのか。大切なのは。本質は。そう分けてしまうことが、そもそもの間違いの始まりなのか。なぜ分けてしまうのか。分けずに本質に近づけるのか。言葉なき言葉があるのか。言葉なくして思考はあり得るのか。
 なぜ強いのは言葉より形なのか。それは刻まれるからだ。刻まれたものは物質であり、音声言語より長く保たれる。音声言語は音であって現象である。それは発された瞬間で終わる。だから音声はアラートとして用いられた。音声言語はその瞬間を表す生の伝達だ。色や形は違う。これらは光で伝達する。これは永続性を持つ。物と光があれば継続する。動物の体色を見よ。動物の擬態を見よ。彼らは常に大きな音など発さずともその身体でメッセージを発し続ける。それを継続するためにはただ生きれば良いのだ。
 音と形は違う。犬の唸り声と蜂の警戒色は異なる。犬の唸り声は形にはできぬ。彼らはそれを頭の中で反省することなどあるだろうか。我々の黙考とその結果として発せられる言葉は、犬の唸り声とは異なる。それはすでに書き言葉を読んでいるのである。ならばどうして、どうやって我々は言語を獲得したのか。話し声からか、手で音の意味を刻み込んだからか。我々は概念を確固とするためには、それを外部に刻まなければならない。言語は概念を刻んだ傷である。岩に刻んだ影だ。そうであったなら、私たちの意識や思考は頭だけでなく手が重要である。道具を使ったから意識ができたのではない。意識ができたから道具を使ったのでもない。
 我々が持っていた動物的な音、唸りはどこへ行ったのか。そこには未だ言語は割り当てられていない。怖れや怒りや喜びという言葉は感情の看板であり、そのものではない。笑いもそうだ。ワッハッハと書かれるがこれも犬の唸りをウーっと書くのと同じオノマトペに過ぎず感情を書き記しているのではない。
 未だに手段を持たず、しかしそれに形を与え観察し共有したいという人間という動物的な振舞いが芸術活動であろう。芸術はいたずらに逡巡しているのではない。そもそもどこへ向かえば良いのか今でも分からないのである。先が分からずとも進み続けるのは、生物としての本能、いやそれ以前の本質である。言語体系はあたかも完成しているように見えるがそれとて同じである。ただ、刻み、形を与えることで、分節化し、ちょうどパズルのようにまとめて組み上げることが可能になった。しかし、繰り返すが、私たちの内的世界は全てそのようにまとめ上げられない。言語は言語化できるものだけで成り立っているのである。しかし黙考はどうか。そこは言語と非言語が渦巻いている現場である。言語という型に流される前の坩堝(つるぼ)であり、次々と流し込まれ続けている。芸術家は流される前の溶けた鉄に目を向ける人だ。そして型にないものに流し込んで形を与え、視覚化する。その過程だけで言うなら思考と同じである。思考が言語で行われるように、芸術家は非言語で思考する。それは特別なことではないが、忘れがちな事でもある。芸術の種類にも関係する大事なことは、形が作られるには大きく2通りあるということだ。すなわち、何を作るか考えて作る事と、作りながら考えることである。単に人から物が作られるという過程と行為だけを見ると、両者は似ている。しかし、作られる現象としてみるなら両者は全く異なる。我々の身の回りにある人間の為に作られたほとんどの物は前者である。それが洗練され経済に組み込まれたものが商品である。純粋性の高い芸術作品は後者である。それはほとんど常に、人が初めて目にする物である。しかし同時に、いつか見たような気もするはずだ。もしくは、初めてなのにそれが見たかったと思うだろう。そうでなければ、強い嫌悪かも知れない。いずれにせよ、何らかの言葉にならない思いを喚起させるのである。しかしそれは、言語ではない。感情の看板でもない。もし、多く人に共通の思いを抱かせるのであればそれは言語的であり看板に近づいていると言える。そうなったなら、真の芸術家はそこに興味を失うだろう。革命的であろうとする芸術家は、いつも看板を言語化され固定したものを疑うからである。
 とは言え、芸術家が、特に視覚芸術は、現象を視覚化させて落ち着かせようとする点で文筆家に近い。音楽はどうか。音楽は音という現象を扱うが、しかしそこに音階がある。構造がある。音楽もまた言語から生まれている。音楽は現象を視覚化構造化してものを再び音化させているのだ。つまり最終的な表現様式に至る手前までは、画家も彫刻家も音楽家も同じである。鳥のさえずりと音楽はだから、本質的に異なるものである。
 芸術は、人類が未だ視覚化して固定できていないものをそうしようとする行為である。そういう人類の本能的行為のひとつである。それは人類の表現可能性を広げる事であり、意識、思考を拡大させようとする行為なのだ。つまり、芸術とは原始的どころか人類行為においてもっとも先端的行為なのである。その点において哲学とも近く、また、理論物理学などは同様のパッションに科学的根拠が付随したものであろう。
 音が発せられては消えていく性質である以上、構造なき瞬間的なアラートから脱せない。我々の内なる感情が形なく、唐突に、時に爆発的に沸き起こるのと同じである。犬の吠え、猿の叫び、人の悲鳴、爆笑、そう言う情動的に伴う発声は破裂音、爆発音、大きな軋み音と同じなのだ。それどころか、悲鳴の起源はそういった大きく遠くまで聞こえる自然音であっただろう。もちろん過去の動物たちが意識的にそれを真似たのではない。自然界のなかで進化してしてきた動物は音と物理現象との連関に包まれて来たのだからそれは至って普通のことである。
 そうした、発せられては消えていくものに、いつしか人類は形を与えた。それは純粋で大きな驚きと喜びに満ちた初めての経験だっただろう。形が与えられた概念とは、私たち自身とも、もちろん重なっていく。それは神と呼ばれる対象も、死んでいった祖先も、留まり続けるイメージとして生み出していった。何と言っても、視覚的対象は、それが維持される以上は永続的にメッセージを放つのである。土より木が、木より焼いた土が、焼いた土より石が選ばれていく。それは永続性によって選ばれる。むしろそういう選択を通して、永続性の概念がそこに転写されていったのだろう。そうして石は永遠性を手にしたと言っても良い。


 形なのか、概念なのか。両者は同じであった。私たちはどうしても形を信じる。言語という形を信じる。その永続性を信じる。しかしそこに、構造的永続性の起源たる構造なき瞬間性の再生を見なければならない。
 そして、むしろ考えるべきは、形と音であった。

2018年12月24日月曜日

パウル・クレーの墓碑




なお掴み難し

我は死の中に生き

未だ生まれぬ者の中にある故

創造に僅か近づくも

捉えるには未だ遠し












2018年11月24日土曜日

スマートウォッチ

   Apple watchは、かつて多くの人が描いていた「夢」の商品化である。腕時計ほど常時身につけられてきた道具はない。これまで発売されてきた多くの多機能腕時計を見れば、そこに多くの機能を盛り込むことが一つの夢だったことがわかる。中でも叶わぬ夢の機能としてたびたびSF作品や漫画などに描かれたのは通信機能とテレビであろう。そのうち、通信機能はApple watchが実現した。テレビ機能は未だ付いていない。ただこれは、テレビが動画媒体の唯一の代表からその座をネット動画へ明け渡したこともある。とは言え、YouTubeのような動画もまだApple watchでは再生できない。Apple watchはスマートウォッチという新たな領域を広げつつあるが、それと同時に、誰もが欲するような夢の道具とはなり得なかった事実も示している。その原因はスマートフォンに他ならない。腕時計型電話が実現するより前に可能だった携帯電話が、一足先にかつての夢の多くを叶える場となったからだ。今や“電話”機能はサブに回り、メインはネット通信や電子決済の端末である。電子決済はまさに拡大の真っ最中だが、その読み取り機のデザインは、駅の改札やコンビニのレジを見ればわかるように、携帯電話をかざすことを前提としている。Apple watchを電子決済に使用することもできるのだが、手首にはめているので膝を曲げて読み取り機へ近づけなければならず、かえって使いづらい。また、腕時計で時間を見る時は、肘をわずかに曲げて見れば済むが、スマートウォッチで画面操作をする際は、それをかなり上方まで上げる必要がある。手首と肘を同じ高さほどまで上げなければならず、ほとんど肩関節は90度前方へ屈曲させることになり、その姿勢をしてみればわかるが、決して楽ではない。

   そういった理想と現実の差異は当然シミュレーション済みのはずで、だからこそ一時の流行りで廃れないような機能(心臓モニターなど)を市場がそれを求めるより前に持たせているのであろう。

   腕時計は、それをつけることで、公共の時間と常に接続されることになる。腕時計が流行という言葉さえ追いつかないほどに浸透していることから分かるように、私たちは繋がっていたい欲求を持っている。Apple watchは腕に巻くことで携帯よりさらに持続的接続を実現させている。今後は、Apple watchやスマートウォッチが進化するというより、IoT(物とインターネットとの接続)の進歩によって、それらと常時接続する媒体として人々に浸透していくように思われる。やがて、出生と同時にその腕にスマートウォッチを巻かれる、そんな時代が来るのだろうか。