2018年3月10日土曜日

さいころ

 サイコロの事を「乱数を発生させる道具」と言い換えると何だか人類の凄い発明品に見えてくる。例えばサイコロを知らない人にそう説明したら随分と大げさな機械などを想像するかもしれない。サイコロの働きは1から6までの数を理論上では完全にランダムな確率で示す。サイコロがいくつの目を出すのかは1/6の確率内で予想できない。
 サイコロは、振って出た目の数によって自然のランダムさに意味を与える。その目が出る以前には、その数の概念は宇宙に提示されていなかったと思えば、その意味は大きい。どの目が出るか分からない偶然性は宇宙の全てを満たすそれを同一である。言ってみれば極小分子が見せるランダムな振動と同じなのだ。それら自然現象の偶然性は振れ幅がほとんど無限にあるため、そこに特定の意味や概念は見いだすことができない。サイコロは、その膨大な偶然の可能性を6という数に限定して区切る。サイコロを振ると、台の上で跳ねて短い時間素早く回転してから止まるが、その回転している刹那に無限から1/6にまで可能性が集約されている訳だ。

 どうして人間はサイコロを発明(発見?)したのか。それが私たちの意識と関係していないはずがない。意識によって脳裏に浮かぶ判断はいつも”決定済み”と言った顔をして現れる。それは頭の中で1から6までの好きな数字を”無作為に”1つ選び出すことができないことで分かる。自分の頭で思いついた数を「ランダムに導かれた数」とは言えない。もし、そう言い切れてしまうと、それは“心の病”だとされる。私たちは、自分の肉体(と精神)から離れた現象を使わなければランダムを手にすることはできないのである。

   無作為の決定を下そうとするとき、人類はサイコロを手にするより以前は、どのような手段を用いたのだろうか。石や動物の小骨などを用いたりしたのかもしれない。実際、ヒツジの足首の骨である距骨は古代ギリシアではサイコロとして用いられていたことは分かっている。しかしながら、骨では出る目に著しい偏りが生じるので、一度に複数を投げてその確率を散らしていたようだ。やがて、立方体のように、全て同じ長さの辺で構成される面では、出る目の確立が分散される事に気付いたわけだが、これはまず経験的に導かれたように私は思う。羊の距骨のような直方体から発展したとして、残りの2面を活かそうとするなら長さを削ればいい事は、何度も放っていれば自然と気付く。
   ところで、無作為の判断でもっとも単純なものは、表か裏か、といった1/2の決定であるから、サイコロが発明されるよりずっと以前からその方法があったのではないかと想像できる。今ではコインを放って表か裏かで判断する“コイントス(coin toss)”だが、原始の頃は平らな石や葉を落としていたのかもしれない。

   サイコロの出た目に従う事、つまり自分の意思ではない現象を受け入れるという姿勢は、抗えない自然現象を受け入れるものと近い。「そうなってしまった事実」は受け入れざるを得ない。そういう強いメッセージ性がある。それは自己決定とは異なる場所からのメッセージである。その意味でサイコロを放る行為は呪術的行為と近い。
   むしろ、放って出るサイコロの目がランダムであるという数学的事実が発見されるまでの長い時間、目の出方には、何らかの意味合いが含まれているかもしれないと考え続けられていただろう。実際、現代でもゲームでサイコロを振る時は狙いの目が出るように“念じて”しまうものだ。

   サイコロは、私たちが自らの決定は全て意識に基づいて決定していると直感しているからこそ作り得た発明品であり、人間が意識に基づく自由意志を完全に認めている動物であることを示す物でもあるのだ。

2018年3月8日木曜日

名作のポーズを女性モデルに取らせて

 先週末の3日(土)の朝日カルチャー講座では、女性ヌードモデルを使って名作のポーズを実際に取ってもらった。立ち、座り、寝ポーズの3種類で、立ちポーズはローマ彫刻『メディチのヴィーナス』とクラナッハ『ヴィーナスとキューピッド』、座りポーズはロダン『美しかりしオーミエール』と荻原碌山『女』とローマ彫刻『うずくまるヴィーナス』、寝ポーズはアングル『グランド・オダリスク』。

 ところで、ロダンの老婆をモデルとした『美しかりしオーミエール』は、個人的にこの日本語題名に抵抗がある。まず、タイトルの響きが主張しすぎているように思われる。”美しかりし”と言われると、このうなだれた姿勢と相まって、作品を感傷的にさせすぎてしまう。”オーミエール”という固有名詞的カタカナも加わって、何か具体的でドラマティックな物語が背景にあるのだろうと思わせる。ストーリー性が強くなると形態への興味が薄らいでしまい、「ああ、誰か知らないけど、かつて美しかった女性なんだろうな。オーミエールさんと言うのかな。」と納得した気分ですぐに作品から目を離してしまう。それでは日本語でなければどうなのか。
 英語のタイトル表記では、『The Old Courtesan (La Belle qui fut heaulmière)』である。カッコ抜きならば、シンプルに『老いた高級娼婦』である。カッコ内の仏語が原題なのだろう。英語直訳では ”The beautiful who was heaulmière”で、”オーミエールだった(と呼ばれた)美女”とでも言おうか。そうなるとオーミエールとは名前ではなく娼婦の意味か?。ググってみるとそうでもなかった。これは、15世紀フランスの詩人であるフランソワ・ヴィヨン(François Villon)の詩に由来するものだった。その中に『Les regrets de la belle heaulmière』がある。問題のオーミエールだが、これは”ヘルメット(武具)工房の妻”を意味するようである。つまり、美しさから”La belle heaulmière”と呼ばれた女性のことだ。『美しきオーミエール(武具工の妻)の後悔』とも呼べる詩の内容は、今は年老いた女性が、かつて若く美しかった頃を語り、全て老いてゆく人間の運命を哀しむものである。
 さて、その上で日本語題名の『美しかりしオーミエール』は、”今は美しくない”と言っているのと同じで、原題とニュアンスが異なっている。原題直訳では『オーミエールと呼ばれた美女』で、像の老婆にも敬意を感じる言い回しである。「若い=美」という単純さに異を唱えていたロダンが、老婆の姿に”今は美しくない”などと言うはずもない。そもそも美しさを感じていなければ、この像は造られなかったはずなのだから。その意味においても、単純に『オーミエールと呼ばれた美女』でいいのではないか。


 本題に戻して、まずは『メディチのヴィーナス』。”恥じらいのヴィーナス”と呼ばれる型の1つで、オリジナル(現存せず)は古代ギリシアのプラクシテレス作である。左脚に重心を乗せて始まる典型的なコントラポスト姿勢。正面写真では胸と股に手を当てて見えるが、横から見るとそれらの部位から手は浮いている。また、若干上体を丸めている。左右の手と胴体の間には隙間が開いていて、そこに実際に布などを挟むこともしたのではないかと想像したくなる。モデルは、右足かかとに丸めた布をおいて、かかとを上げた姿勢を維持していた。破綻無く同様の姿勢を取ることが可能だが、像と同様の丸めた背を継続することはできない。つまり、この像はその場に静止しているのではなく、移動運動を暗示している。”恥じらって”、頭部は誰かを警戒しているので、この場から離れようとしているのは確かである。


 『ヴィーナスとキューピッド』は、似た絵が何枚も作られた内の1つで、ハチに刺されて困り切っているキューピッドの表情も可愛い。ところがその体は筋描写がしっかりしていて”マッチョ”である。この表現はイタリア・ルネサンスのフィレンツェ派、ミケランジェロの影響が感じられる。女性モデルにポーズしてもらったのはもちろんヴィーナスの方で、つま先を外側へ大きく回した左脚を右脚の後方に持っていく姿勢は、立体で見るのと絵で見るのとでは印象が異なる。その重心は顕著ではないものの、左脚側にあり、骨盤はわずかに右側が下がる。モデルとこの絵とで最も異なっていたのは、曲げている右腕と胴体との関係性で、絵では前腕の上に間をおいて乳房があるが、実際は曲げた前腕のすぐ上に乳房がある。まして、この絵のように、直角以上に鋭角に曲げた肘によって上へ上がっていく手が左乳房の下端にも届いていないことなどあり得ない。このヴィーナスは一見しただけでそのプロポーションが歪んでいることは明らかなのだが、具体的な位置関係の大きな違いが表されている事から、モデルの観察と言うより、型に基づく描写であろう。


 彫刻『美しかりしオーミエール』は、左膝を深く曲げて足は地面に達していない。モデルのポーズではここに台を置いてそこへ左足を置いた。この作品は腹部正面からの写真がほとんどだが、見せ場は背中にある。直角に曲げた右腕は背中へ回され、その手は大きく開いて手のひらを後ろに向けている。前腕には屈筋腱が鋭く浮かんでいる。丸められた痩せた背中には肩甲骨が浮き出ている。自分でこの右腕の姿勢を試せば分かるが、私たちの腕はこの姿勢を取るようにはデザインされていない。むしろ、少ない努力でこの姿勢が取れてしまう人類は、それだけ特異な形態へ進化しているのだと言える。上腕骨は最内旋した状態で肩関節は過伸展している。過伸展には三角筋の後部(棘部)が収縮するが、この筋は外旋筋でもあるため、この姿勢の達成にはジレンマがある。右前腕は背中に”引っかけられて”いる。前腕がこうして固定された状態になると、筋の張力が動かす骨の向きはそれまでと逆向きになる。つまり三角筋の後部は肩甲骨を体幹から引きはがすような方向に働く。そのために、肩甲骨の内側縁は持ち上がって背中に高い稜線を形成するのである。これは彫刻でもはっきりと表現されており、モデルにおいても同様であった。街でお年寄りが背中に両手を回して腰で両腕を組んでいるのをしばしば見る。それも、上記の働きを自然と応用しているのであって、つまり、丸まった背中をこうして伸ばしているのである。この姿勢が楽になったら相応の年齢になったと思うべきか。ロダンの作品のモデルの老婆も背中が丸く、この姿勢を続けるためにも片腕を背中に回す必要があったに違いない。続いて彫刻の左肩を見ると、肩甲棘から胸椎に向かって一条のすじが下りていく。これは僧帽筋の上行部(下部)の緊張を表している。この像の背中は、観察に基づく写実描写があり、それはこの像全体にも言えることだ。ポーズ終了後にモデルが、この右腕の姿勢はきついと言っていた。

 碌山の『女』は、我が国の近代彫刻の記念碑でもある。ひざまずいた姿勢で、上半身はわずかに前方へ傾いている。膝は左側が後ろへ引かれ、そこから連動するように頭部まで捻れるような動勢が続いていく。前へ倒れそうな勢いを、後ろに組んだ両手が反対方向へ引いている。ひざまずく低さと、上を向けられた顔とが反発するように対応し、拘束からの解放や、苦悩からの希望といった印象を鑑賞者に抱かせる。実際にこの姿勢で止まることはできない。重心が前方へ外れているので前のめりに倒れてしまう。モデルの上半身はずっと垂直に寄ったものになり、この作品のような劇的な視覚的印象がない。膝で立っているので、膝と足首によるバランス取りがキャンセルされ、モデルは容易にふらついた。ところで、この作を見ると、ロダンにも多くの影響を与えた彼の助手クローデルの『The Mature Age(分別盛り)』の1人を思い出すのは私だけではないだろう。
カミーユ・クローデル『The Mature Age』


 『うずくまるヴィーナス』も、古代ローマのヒット作で、幾つも発見されている。ポーズのバリエーションが幾つかあるが、どれも片膝を立てるようにしゃがんでいる。今回参考にしたものは大英博物館にあるものだが、その造形は観念的なヘレニズム様式を取っている。折りたたまれた四肢で構成される込み入った空間がひとつの見せ場だが、狭い空間を見事に彫り上げたローマの石彫家の高い技術には驚きしかない。この姿勢の見事さは、モデルに実際にポーズを取ってもらうとより強調される。体幹と曲げた四肢の間には、幾つもの三角形が現れる。このトラス構造は、視覚的な安定性ばかりでなく、実際の彫刻作品にも安定した強度を与えているだろう。彫刻の背中には正中に溝が殿裂まで走っているが、実際の人体では殿裂まで追うことはできない。殿裂の上方には左右に窪みがあるが、その窪みよりさらに上方でその溝は消えてしまうからである。


 今回の寝ポーズはアングル『グランド・オダリスク』のみ。寝ポーズは意外と参考に向くものが見つけられなかった。この作品は、背骨の数が多いと、発表されたときから言い続けられている。確かに細長く見える。それはこの画家がそう見せようとしたからである。絵で見ると、背骨のラインが大きく横にカーブしていて、とてもそのようにモデルが曲がるようには思えなかったが、実際には、かなり近い姿勢を再現することができた。絵の左側が高いので、ビーチチェアーを用いた。絵の女性の背中は左右幅がなく見えるが、これは斜めの視点によるものである。胸郭部の背骨の曲線は右への側弯ではなく胸椎の生理的後弯によるもので、これが腰椎の側弯と融合することで絵のような一連の長い曲線に見えるのである。また、この絵の女性の腰は左側の多くがクッションに沈んで描かれていない。これも幅を狭く見せる視覚効果をになっている。この女性が立ち上がったなら、思いの外量感のある身体で驚くはずだ。一瞬どうなっているのか目が迷う両脚は、下にある左足を組むようにして右脚に乗せている。右腕は腰に乗せているように見える。モデルのポーズもそのようにした。すると、右の指先は絵のようにふくらはぎには届かない。絵では右手指先が左脚ふくらはぎの上に乗せられているが、これこそ現実界では厳しい姿勢である。この絵が、細かったり長かったりするような歪みを見せながらもそれらしく見えてしまう理由のひとつに、希薄な奥行き感があるかもしれない。まるで望遠レンズで見たような圧縮された遠近感。右の脇の下から覗く乳房も、実際より手前に飛び出ているように見えるが、これも前後に圧縮した遠近感によるものだ。

2018年2月26日月曜日

パパとケン 肉体の有無

    日本人なら誰でも知っているリカちゃん人形。アメリカのバービーも有名だ。それぞれ成人男性の人形もあって、リカちゃんでは「パパ」、バービーでは「ケン」である。
   この日米の両者を並べてみると興味深い差異が見られた。


 まず、両者の身長。人形の大きさは購買対象の女児が扱いやすいものになっているはずだ。両者を並べるとケンが頭半分ほど大きい。下に引いたグリッドは1センチなので、ケンが31センチ、パパが28センチほどである。仮にパパが身長170センチならば、ケンの身長は188センチとなる。なかなか現実味のある身長差だ。ところが、衣服を外して見ると興味深い真実が現れる。

   裸にした2つの人形で共通しているのは、胸部つまり大胸筋の強調である。鍛えられた“厚い胸”がたくましい男性のイメージとしていかに重要なのかが見て取れる。面白いのは、ケンでは頚まで太く、それは腕も同様であるのに対して、パパでは頚も腕も細い。似た傾向は脚でも見られる。ケンのシリーズは幅広く、スーツ姿から海パン一丁のものまであるので、腕や脚の肉体描写も重要なのだろうが、それ以上に日米における身体性の捉え方の違いが根底にはあるように思える。
   下半身では、どちらも外性器の描写は一切ない。つまり、その位置にわずかな膨らみさえ表現していない。外性器に独立した意識があったなら、この歴史的な無視に対してどのような声を挙げるのだろうか。ともあれ、そこで面白いのがケンのウエスト周りに造形されているベルトのようなレリーフだ。なぜ裸にベルトが?と思ったが、これはベルトと言うより“パンツのゴム”であろう。そう見ると確かに脚と胴体の関節部にも布の折り返しのような造形表現が見られる。人形を後ろから見ると、お尻の割れ目がケンでは表現されていないことも彼がパンツを履いている事を示している。つまり脱着可能な衣服を取り除いても、ケンはパンツだけは手放さなずに履いているのである。そうすれば、男性器が造形されていないことへの言い訳になる。つまり、男性器の存在を無かったことにしているのは日本のパパの方だけであった。

パンツの表現
 全身から見た股の高さは、両者ともにほとんど同じである。パパは脚の長さが身長の半分を超えており、現実味よりも理想がはるかに重視されている。その脚が胴体と連結している部分の構造が両者では大きく異なる。ケンでは胴体の股関節部が大きくえぐり取られていて、そこに大腿部がそれなりの幅を持ったままはまり込んでいる。対してパパでは、胴体が腰からほんのわずかに収束するだけで、その両側から脚が差し込まれているような形だ。そのためにパパでは脚の最上部が左右に張り出さざるを得ず、人体の輪郭はほとんど破綻している。後ろから見ると、ケンの殿部は前面より幅広く、これもパンツ造形と関連している。パパでは殿裂が表現されているがその両側の脚の関節が同じく体のラインを乱している。
 
 ケンは裸体での体のラインを重視した脚の連結のために、股関節の可動範囲はパパほどではない。例えば、股関節屈曲は90度に達さない。そのため、床に脚を伸ばして座らせようとすると、若干後ろへ仰け反ったような姿勢になる。逆方向、つまり股関節の過伸展はケンでは35度ほどであるが、パパは90度でも曲がる。この場合、より実際の人間の股関節可動域に近いのはケンだと言える。
ケンの脚は直角まで曲がらない
   肩関節の可動域はどうであろうか。これは、ケンとパパはどちらも似ている。人形の肩関節で単純なものは、股関節と同様の構造で、体の両側に差し込むだけである。これで可能な動きは体の両側で腕をぐるぐると回すだけで、まさしくリカちゃんの肩はこの作りである。しかし、パパは違って、腕を左右に開くこともできる。
腕は肩関節から外転する
この、腕の開閉、解剖学で言う外転と内転、ができることで可能な姿勢のバリエーションが幅広くなる。これがパパの構造の最大のウリであろう。ケンも同様の肩構造である。この3次元的な運動を可能にするために腕の付け根は内側が球状をしている。腕を前へ挙上してそのまま外転させると、その球構造が露出する。この時ケンでは、球の中心部に固定軸が見える。前方へ腕を挙上すると、いわゆる“前へならえ”の姿勢になるが、この時にパパでは、両腕の上腕部を外側から内側へと指で押さえ込むと腕がしなって両手が合わさる。これで、軽い物ならばそこに挟ませることで、何かを持たせたり受け取ったりするようなしぐさを模することが可能である。一方のケンの腕は、使用されているプラスチックが硬いのできない。
   頭部は、ケンもパパも中空の柔軟性のある樹脂でできていて、それを頚の上端にはめ込んでいる。可能な運動はどちらの人形も左右の回旋のみである。

   ここで、シリーズの主人公であるリカちゃんも比較してみたい。リカちゃんをグリッドに置くと、およそ23センチで、パパよりも頭ひとつ分以上小さい。パパが170センチならばリカちゃんはおよそ140センチで、これは10歳から11歳の平均身長である。
   前面からの裸のリカちゃんでは、年齢に合わない誇張された乳房が目立つ。これは人形で遊ぶ女児の憧れ、つまり“綺麗なお姉さん”としての役割が人形に与えられていると言うことだろう。リカちゃんの胴体は上下が別体で、そこから回旋が可能である。これはパパやケンにもない可動部である。一方の肩関節は、すでに述べたが、体の側面で回転するだけの単純なものだ。股関節も同様である。腕と脚は使われている樹脂が柔軟でよく曲げることができる。指先で押しつぶすとわかるが、上腕部は中空になっていて特に柔軟である。そのためパパと同様に、腕を両側から内側へと押すことで、両手で物を持つ動作が可能である。脚も柔軟性を活かして脚を組んだり開かせることが多少は可能である。いずれも、中に針金を入れて曲げた姿勢を維持できる“ベンダブル(Bendable)”ではない。
首をかしげる
   リカちゃんの頭部は、パパやケンと異なり、首をかしげることができる。素材はパパ同様の柔軟な樹脂だが、ジョイントの仕組みが異なるようだ。首をかしげるだけで、人形がより多くの表情のニュアンスを模することができる。このように、リカちゃんはパパと比べて頚部と腰部の可動が多いのが特徴である。

体型がわずかに異なる
   リカちゃんシリーズには、より現代的な表情を持ったつばさちゃんがある。身長はリカちゃんと同じなので、頭部だけを取り替えているように見える。しかし、両者を比較すると異なり、全く別に設計されたものだと分かる。腕はリカちゃんより大きく長く、脚も太い。特に股関節部の曲線に注意が払われており、骨盤から大腿へと流れる造形に拘りが感じ取れる。結果的にリカちゃんより幅広の腰となり、これはより大人の女性の体型に近づけていると言える。胸部の乳房はリカちゃんよりわずかに高く、小ぶりである。ウエストの連結部の幅は両者でほとんど同じだがごくわずかにつばさちゃんが大きい。つばさちゃんの頚が立ち上がる部位、すなわち頚根部にはネックレスが印刷されている。腕や脚の柔軟性はリカちゃんと同様である。手の大きさはつばさちゃんが1.6センチで、対するリカちゃんは1.2センチしかなくその小ささが際立つ。頭部はリカちゃんと同様、柔軟性のある樹脂製のものに頚部が差し込まれるような構造だが、リカちゃんよりタイトにはまっていて、あまりかしげることができない。
 両人形の脚は、前後に開いた状態の腰部に挟みこむ構造で連結されており、それは殿部の下を見れば分かる。足はどちらの人形も軽い爪先立ちの姿勢で、足の裏には長方形の溝が開いている。これは靴を固定するためのものである。

平面的で正面性の強い顔面
立体的で構造的な顔面
   ここからは再び目をケンとパパに戻し、その体表面の造形を比べながら見て行こう。まず頭部では頭髪の表現は明らかに異なって、パパでは植毛がされている。なお、ここで比較に用いているパパは持ち主によって“散髪”がなされており髪型は市販品と異なる。一方のケンの頭
髪は一体成型で、着色によって分けているのみだ。顔面では、眉と目と口が着色され、特に目のまぶたは造形されず色分けのみなのはどちらも同様である。しかし、顔面を含む頭部の構造的な造形はケンのみに見られる。そのために、光による陰影はケンは写実的であり、パパはそうではない。決定的なのは目の周囲の造形で、パパの目は正面からの“平面画”で、側面から見るとその平坦な様がよくわかる。側面から見たパパの顎から耳にかけてのラインと耳の後ろから後頭部へのラインも全く造形されていない。これらは、作れなかったと言うより、作る必要性が考慮されていないと見なせるものだ。これらから言えることは、この頭部はほとんど正面性だけで作られているという事実である。この点でケンは全く異なり、下顎のラインは耳介の前下方へ向かっていて、それが頭部領域と頚部領域とを明確に分けている。この部分の胴体側の頚部は単なる円柱だが、そこから下へおりて首の付け根に至ると主要な筋構造、胸鎖乳突筋と僧帽筋の起伏が表現されている。また、僧帽筋と鎖骨の間の窪んだ大鎖骨上窩がよく目立つ。一方のパパでは、頚部は終始円柱に過ぎず、僧帽筋の表現も皆無である。鎖骨の下にある大胸筋は両者ともに表現されているが、現実味のあるのはやはりケンで、外側が胸郭へと切り込んだ造形は鍛えられた大胸筋の見え方に真実味を与えている。その下に続くアーチ状の起伏(肋骨弓)と、その下の腹直筋のレリーフも調和を持ち、わずかに正中の溝を押し下げてヘソを表し、その下にはもはや溝が見られないが、これは実際の人体の見え方と同様である。また、胸郭の両側面には縦に走る起伏が造形されており、正面から見た時に上半身の逆三角形型を強調している。これは広背筋だが、実際よりも垂直に落ち過ぎている。しかし、胸郭の下部にある別の前鋸筋の下部筋尖が盛り上がっていると、それが広背筋の起伏と合わさることでケンの様に見える事もある。
西洋彫刻的なケンの体幹

   背部を見ると、パパでは肩甲骨の起伏が目に入る。しかし、それと胴体下部の殿裂以外には現実味のあるレリーフ表現はない。一方でケンは、背部にも多くの現実的な要素を造形している。ケンの背中で肩甲骨の起伏は見られない。しかし、それを無視しているのではなく、肩甲骨周囲の筋が発達した状態が造形されているのである。例えば、肩甲骨下角に当たる部位に膨らみがあるがこれは大円筋である。また、それより内側に上下方向の起伏が見えるがこれは僧帽筋の上行部である。しかし、両筋ともに実際よりも若干位置が高い。それより下には、背骨の両側に脊柱起立筋の力強い膨らみが見られる。腰部でちょうどメーカーのロゴが入っている部位が筋が皮下で胸腰筋膜に包まれている部位である。
背面の筋も造形されている

上がケン、下がパパ
   腕の造形も、パパではほとんど“先細りの棒”に過ぎないが、ケンでは主要な起伏が表現されており、特筆すべきは手である。ケンの上腕部では、上方の三角筋と前方の上腕二頭筋そして後方の上腕三頭筋が明確に区分し造形されている。上腕二頭筋の直線的な筋腹や三頭筋の上方ほど大きく膨らむ様は実際の筋の見え方に即している。また肘の内側では前腕との繋がりとして上腕筋が表されている。同じく外側では腕橈骨筋などによる起伏と、それらによって作られる外側上顆のくぼみが正しく表されている。肘の前面には肘窩があるが強調がやや強い。手のひらは非常に現実味が強く、内側の骨格の存在を感じるような力強さがある。手の甲には中手骨のみならず伸筋腱まであるようにも見え、手のひらも肉の膨らみが詳細に追われている。何よりこの手のひらにリアリティを与えているのは、手の全体が持つ曲線が追われているからである。それは手を指先側から見ると親指から小指にかけて中指を頂点とするカーブを描いている。また側面から見ると、指の付け根を頂点とするような縦方向のカーブも見られる。さらに、並んだ人差し指から小指までの4本は中指の先端へと収束するような方向性を持っている。
写実的なケンの脚
   脚の造形も、パパは“先細りの棒”状に過ぎないが、ケンでは大きく捉えた主要な筋が美しくまとめて造形されている。大腿部は下腿部と比較して実際よりも細身に造形している。鼠径部は股関節の可動部に入っているため表現されていない。大腿部は、内側に内転筋の塊があり、膝のすぐ上の内側には内側広筋の膨らみが表されている。また外側の上方は中殿筋と外側広筋(と大腿筋膜張筋)の境の起伏差が表され、この部位の現実味のある輪郭に寄与している。膝下は、前面では直線的な脛骨とそれに対する前脛骨筋の丸さがしっかり表され、後面では下腿三頭筋の筋腹とアキレス腱が造形されている。また、腕における手と同様に、ここでも足の造形が一際目を惹く。内外のくるぶしによって下腿の上下方向の流れが止められ、そこから足が始まるが、内側にある骨格で作られる足の構造が明快に単純化されている。
写実的なケンの足
   足を外側から見ると、外くるぶしのすぐ前に膨らみがあり、その下には浅い溝がある。この膨らみは足の甲の骨格(踵骨の前外側部)と筋肉(短趾伸筋)で構成されるもので、それが若干強調されている。これより下では足底の“パッド”がせり出て、その結果としてここにくぼみが生じる。このくぼみによって甲と底の構造が分けられ、視覚的にもアクセントとなるので重要である。また足底の外側を指でなぞると小指の付け根から踵までの中間部にごくわずかだが起伏がある。これは小指の中足骨の結節で、わずかとは言え足の形態表現において外すべきではないが、実際は多くの造形で見逃されているものだ。足の指も、母指は外側に正しく反るだけでなく先端の爪部を上方へ反らせて造形し、小指は他の指よりわずかに上方にするなど、明確な理解の元に作られている。

   ここまで見てきて、リカちゃんのパパとバービーのケンの身体表現が全くと言っていいほど異なっていることがわかった。ケンの身体表現は意識的で、身体の解剖学的な構造と美術における身体表現の一通りが理解された上で作られている。引き伸ばされた四肢などは16世紀のマニエリスム彫刻を思わせるようなところさえある。頭身数はケンが7強で、パパはほぼ7である。
   ケンの造形理念とは真逆を向いているようなリカちゃんパパの体を見ると、そもそも服の下の肉体が存在しないかのように思える。パパの肘や膝がわずかに曲がっているのは、着衣時に直線的になりすぎるのを防ぐためだろう。手と足は衣服から出るので、指まで作ってあるが、それでも現実味のあるものではなく、あくまでも素早く描いた少女漫画のペン画を立体化したような概念的なものだ。パパやリカちゃんの乳房の造形も着衣時の衣服に現れる起伏を目的とした“当て物”としての造形に見える。リカちゃんやパパの手を見ていて思い出したのが、雛人形の手だ。雛人形の着物の下には肉体は無い。胴体は藁や樹脂の塊で、腕は左右に通した針金に藁を詰めた和紙の円錐を差しはめてあるに過ぎない。その針金の両端に手だけが差し込まれる。そのノッペリとした手はリカちゃんやパパの手とそっくりである。

裸を想定していない造形
 身体は見える部分だけで、衣服の内側ではそれがない。パパの体は、その存在を生かす本体ではなく、衣服の見栄えを裏で支える黒子である。つばさちゃん人形のネックレスの印刷も着衣だけを考えているからであろう。かつて、日本人は他者の裸を“無いもの”として無視する、という記述を読んだ記憶があるが、それに近いものをパパの造形に感じた。遊ぶ目的としても、リカちゃんやパパは、裸体の状態は想定外なのだ。彼らの身体は衣服をまとわせるマネキンやハンガーにより近い。日本人にとって肉体とは着衣時のそれを言うのだろうか。衣服が外皮として機能するなら、その下層の裸体はもはや内臓であり、そこに他者の視線を意識する必要はなくなるだろう。
   一方でケンの体には骨格があり、それを厚い筋肉が覆っている。彼は間違いなくその肉体で生きていて、薄い衣服は容易にその機能的肉体のシルエットを浮かび上がらせる。彼を動かす主体はあくまでも肉体である。衣服は機能的な纏わせ物に過ぎず、必要ならばいつでもそれを脱ぐ準備はできている。パンツを除いては。

   着せ替え人形と言っても、そこには身体の捉え方の文化的差異が見えるようでなかなか興味深い。

2018年2月12日月曜日

システィーナのアダム いつから人か

   先日の朝カルで受講生の方から、システィーナ礼拝堂の天井画のアダムについて洞察に満ちた意見を聞いた。

   当日のモデルポーズでは、左腕を左脚の膝に預けるように置いてもらった。そうしないと、長時間の静止は難しいと考えたからである。実際、天井画のアダムも腕と膝とは重なって描かれ、置いているように見えなくもない。しかし、膝に腕を置いたモデルポーズでは腕がアダムのように上昇して行かず水平位に近いものになる。

   その方は、モデルポーズとアダムの姿勢を比べて、手を伸ばしている腕の角度こそ重要であると気付いた。そして、アダムの左肩から上腕にかけての筋の強い収縮とそれに相対する左手の力の抜けた表現から、生き始めたアダムの体が大きい筋から徐々に動かせるようになるさまを見て取った。たしかに実際の成長過程でも、手指の細かな制御は遅れて可能になる。この「アダムの創造」の天井画は、互いの人差し指が触れ合う印象が強いが、実際は指を伸ばしているのは神だけで、アダムの手首から先は力が入っていないのである。
   
   その指摘を受けてから改めてアダムを見ると、それまで姿勢と構図だけを見ていたこの人物の中に、確かに“力”つまり生命感の抑揚が表現されている事に気付く。アダムの全身を左右に分けるなら、地面に近い右半身は伸ばされ、対側の神に近い左半身は縮むか力が込められている。命を与える、もしくは与えた神の方に筋収縮という生命の証を割り当てているかのようだ。

 芸術作品は何かを雄弁に語りかけてくるように見えて、その実、読み取る側に全て任されているものだと感じさせられた。メッセージはそれを聞く用意のある者にだけ届けられる。


   ところで、この天井画の元になっている創世記では、神はアダムに命を与える方法として、鼻に息を吹き入れる。聖書に従うなら、この天井画は命を与えている場面ではない。それでは、このアダムはどの状況が描かれているのか。そもそもミケランジェロは聖書の単なる説明画としてなど描くつもりはなかったのかもしれないが、それでも実はこれは命が与えられた瞬間ではないのかもしれない。私には次に述べるストーリーが見えるような気がする。

   両者の目線を追うと、アダムは神の顔を見ているのに対して、神はアダムの左手を見ている。指先にまで力が入り、かつ意識がそこまで行き届いているのは神の方だ。つまり、神はアダムの手を掴もうと意識を集中しているのである。アダムは地面に横たわっているのだから止まっているが、神は宙に浮いている。それもどうやら彼自身で浮かんでいるというより、周りに群がっている若い人物たちに支えられている。彼らを見ると、神の左手を肩に担いでいる者は体を神と反対側に向けて顔だけ振り返っている。さらに神の脚の上方にいて画面外へ視線を送る少年は、神の左腕を担ぐ若者の膝に手を回し、神とは反対側へと引っ張っている。つまり、神を浮かばせているとおぼしき若者たちのうち少なくとも2人は、神をアダムから引き離そうとしているようなのだ。これは、宙に浮かぶ神が、あたかも水面に浮かぶ船のようにゆらゆらと安定しない様を表しているのだろう。神の周りの人物たちはそれぞれの方向に神を引っ張って、ちょうどオールで舟の向きを調節するように、アダムの手に神の手が“接岸”するように調節しているのである。神の肩周りにいる少年たちは「今まさに届くぞ」と言わんばかりにその瞬間を凝視している。神と反対を向いてその左腕を担いでいる若者もそうだ。彼(彼女にも見える)は、次の瞬間に訪れる自らの仕事に神経を集中している。それは、神がアダムの右手を掴んだ時に、その腕を引っ張って力の向きを変える事である。そうすることで、神はアダムを立たせようとしているのだ。
   土から作られたアダムはすでに命を与えられている。だが、命を与えられてもその肉体をどう使えばいいのかまだ分からない。両脚が立つためにあることさえも。命を得ても立てないアダムを見かねた神が、その手を取り引き上げて立たせようとする、まさしくその直前が描かれた光景である。そうして、二本の脚で立ち上がる事で初めて彼は“立ち上がった者”となるのである(adam erectus)。

   このように見ていくと、そこに”人は人の形をしているから人であるわけではない”という示唆が読み取れる。それがどういう事なのか、聖書の記述と共に見ていきたい。
   創世記(新共同訳)では「土の塵で人を形づくり」とある。“人を形づくり”の部分は英語標準訳では“formed the man”である。もちろん、形作られる元は神自身の姿である。しかし、この段階ではあくまでも人の形の土像、神自身の塑像であって、そこに命は無い。そこで神は像の鼻に息を吹き込むことで、「生きる者(living creature)」となる。これはまだ人ではない。次に神は、この“生きる者”の環境を作り、そこに彼を置くのである。さらに彼にそこを維持する事を命じる。システィーナのアダムはこの直前の時系列に位置する。

   神によって形作られ、命が与えられ、立たされ、環境に置かれ、そして生きる理由(園を守る)が与えられる。次に神は、動物たちを彼の周りに放ち、その命名を彼に任せる。アダムは動物たちに名前を付けた。この時、アダムは“立ち上がった生きる者”から“人”になったのである。なぜなら命名とは分離であり、その行為は自分は彼ら動物“ではない”という認識が先だってなければならないのだから。彼は動物に名を付ける事で自己との違いを言葉で刻印していったのだ。明確に違いが明らかとなった今、それらは彼を助ける存在とはなり得ないことを知る。そうして、それ故、アダム自身からイヴが作られることとなる。

 なるほど人は、その形故にそう存在するものでは無く、精神的活動を伴って、自らを環境から分ける自意識を持つことで人となったのだ。


2018年2月5日月曜日

名作のポーズを男性モデルに取らせて

 カルチャーセンターで先週末、男性モデルに名作と同じポーズを取ってもらう試み。
 今回は、ミケランジェロ『反抗する奴隷』と『システィーナ礼拝堂天井画のアダム』、ロダン『アダム』、ダ・ヴィンチ『聖ヒエロニムス』、古代ローマ『ラオコーン』、パルテノン神殿ペディメント彫像『河の神』。バリエーションとして、立ち、座り、寝ポーズをそれぞれ2つずつという設定。

 『反抗する奴隷』は、体幹部つまり骨盤と胸郭の間での捻れがとても強いことが改めて分かる。彫像と同じ姿勢を生きたモデルで継続的に静止していることはできない。また、深く曲げた右脚の膝頭は左脚側へと向けられているが、このようにするとバランスが崩れて静止できない。安定させるには右膝頭は右側へと振り出さざるを得ない。それにしても、強い捻れに支配されているこの像は、骨盤正面から見ると身体の右側が上下に直線的に裁ち落とされていることが分かる。恐らく原石がそこまでしか無かったのだろう。つまり、この像は右膝頭を生きたモデルのように右側へと振り出すような姿勢には物理的にも不可能だったと考えられる。しかしもちろん、それが可能だったとしてもこの芸術家はそのポーズは選ばなかっただろう。像の身体を貫く捻れの動勢が乱れるからである。ところで、この像の肩から頭部までの動勢と造形は、ブルータス胸像とそっくりな事に今まで気付かなかった。

Adam ロダン『アダム』は、システィーナ礼拝堂天井画のアダムへのオマージュであることはその姿勢からも明らかだ。身体の全てが強い緊張と捻れで支配されており、生きたモデルでは厳しいだろうと思っていたが、ポーズ後にモデルに聞くと「私も厳しいと思ったが、意外と辛くなかった」との事。今回は拘れなかったが、像では足の指まで力がみなぎっている。左足の指などは全て強く曲げられ、『考える人』のそれを思い出させる。アダムの曲げられた右膝が左へと向けられているのは『反抗する奴隷』を彷彿とさせる。





 『聖ヒエロニムス』は、状態の良くない未完成画で、ヒエロニムスの体幹は影であることも重なって形態が明確では無い。左肩から地面へと続く布の襞が、光が当たったように白く、それが右脚と連動することで一見するとしゃがむように腰掛けているように見える。だが、目を凝らすと、尻の下に左足があることが分かる。つまり、彼は腰掛けているのでは無く、左膝を地面についているのだ。ヒエロニムスの頭部から、伸ばされた右腕の付け根辺りの描写は細部まで見える。そこで目立つのは、頚部から上腕の中部までの描写である。頚部には縦に走る広頚筋の襞が浮かび、口角を横に広げた表情と破綻無く連動している。また、鎖骨から上腕へピンと張った筋の束が浮き立っていて、これは大胸筋の鎖骨部である。モデルにポーズを取ってもらうと、静止した状態ではこの絵のように大胸筋鎖骨部は浮き立たなかった。そこで、この姿勢のまま、私が出した手を前へと押してもらうと、これが浮き立った。この筋束は、腕を前方へ振り出すような運動の際に強く働く。つまり、この絵の人物は右腕を強く振り出す運動をしている最中、もしくはその直前である。彼の手は何かを握っているので、それと関係しているのだろうか。そう思うと、ヒエロニムスの体は全体的に絵の右側へ傾いている。身体がその方向への運動を示唆しているのかもしれない。このポーズは一見楽に見えるが、横に伸ばした右肩の負担は相当なもので、モデルは頻繁に右腕を下に降ろして休ませなければならなかった。

 『ラオコーン』は、座って上体を反らしているだけではなく、胸郭は強く右へ旋回している。それでも、像ほどに胸部がせり出したようにはならなかった。像の胸郭左側面には小さな起伏が幾つも見える。それは縦に3列で、最も後列が前鋸筋で、残り2列は外腹斜筋とその深層の肋骨の起伏が重なったものである。とはいえ、その位置描写は誇張があって人体構造的に正確ではない。例えば、前鋸筋の肋骨付着位置は後ろ側に過ぎる。同様の違和感は膝にもあり、手足の描写も若干観点的である。一方で、肩に浮き立つ橈側皮静脈や脚に見える大伏在静脈などは確かにそのように見える位置にある。この像は、観念と写実表現が入り交じっている。像と同じように胸郭を右回旋しつつ反らせたまま固定し続けることは難しかった。像は左下から右上へと強い動勢が表されているがこれは静止ポーズではできない。像の男性は激しい動きの只中にある。

 システィーナ礼拝堂天井画の『アダム』は、寝ポーズのひとつとして取り上げたが、斜面に横たわっているので、モデルポーズの際にはビーチチェアーを用いた。折り曲げた左脚の膝と、そのすぐ上に来る左腕の位置関係は実際には不可能である。このフレスコ画の腹部は二次元的な歪みを持って曲げられており、構造的に見ようとすると不安を覚える描写である。ここが実際のモデルの姿勢とどれほど異なるのかが興味深いところであったが、実際には、全く異なるというものではなかった。ただ、自然にこの姿勢を取ってもらうと、画中の男性ほど胴体が横に曲がらない。意識して胸郭を左へ曲げてもらうと絵のような強い側方弯曲になった。伸ばした左腕は、膝との位置関係を合わせようとすると、画中のようなわずかな上向きにはならず、ほぼ水平位になる。その腕は膝に休ませるような姿勢を取ったが、画中のアダムはそうではないので、左腕と左膝との間には奥行き方向のずれがあると考えられる。なお男性器が右大腿部に乗っかっているが、実際にもこのようになった。

 パルテノン神殿彫像の『河の神』は素晴らしい像だが損壊しているので、復元像の姿勢をモデルには取ってもらった。左腕を地面について、頭部も左を向いている。この像はかつては神殿の屋根の下の横に伸びた三角形(ペディメント)の端の角に位置していたので、上下に窮屈な姿勢である。不思議なもので、復元姿勢よりトルソと化している現状の方がより彫刻的な魅力を増している。システィーナ礼拝堂天井画のアダムと同様に、モデルの自然なポーズではこの像のように胴体が横に曲がらない。あえて曲げてもらうと、右の肋骨弓の外側部が側腹部に食い込むようになり、そこの肉は溜まって深い溝が2条現れた。大理石像では、そのような溝は表されていない。正面性の強いポーズに見えるが、足側から見ても、十分空間的な豊かさを保持していた。ギリシア彫刻には、この胸郭に見られるように、「曲がるところ」と「歪むところ」が明確に区分されている。この時代は人体の解剖の記録が無いというが、その身体の捉え方は、現在とほとんど同様である。それはこの時代が先進的だったとも言えるし、芸術から分かる身体の捉え方は既にこの時代の見方で十分に満たされているのだとも言えるだろう。


 筋肉質の男性モデルでは、皮下の運動器の起伏を直接的に外見から追うことができる。それにしても、皮膚に覆われた内側で躍動する構造を、冷静に捉え、正確に破綻を来さないようにするだけでなく、芸術的な調和に中に再構築するところまで高めた古代ギリシアの表現には感嘆を新たにする。まったく、現代においては、そこに至る道筋を想像することも難しいほどだ。ただ1つ言えることは、知識と技術だけでは決してそこへたどり着かないと言うことである。それらが素晴らしい二頭の馬とするなら、それらを操る巧みな御者こそが必要なのだ。