2008年10月22日水曜日

体験用義肢を付けて

体験用義肢を付けた。右膝を曲げて、そこからしたに装着する。義肢には膝関節があり、曲がるようになっている。といっても、ぶらぶらしているのではなく、伸ばした状態で緩くロックがかかるようになっている。実際の膝も立った状態では、ロックが掛かるような仕組みになっているので、ちゃんと考えられている。歩くときは、かかとから地面に落とすようにする。そうしないと、義肢のつま先が先に付き膝が折れてしまって、立てなくなる。手すりにつかまり、数往復してから、松葉杖をついて歩いた。普段歩くのとは全く違う筋肉を使うのでつりそうになる。

義肢を見下ろしながら、恐る恐る歩いたわけだが、その際に面白かったのは、自分が義肢を自分の脚として捉えていたことだ。曲げている膝から下の本当の脚の存在はすっかり忘れていた。目からの視覚的フィードバックはかくも強いのかと実感した。ラマチャンドランが幻肢痛の治療に、高価な医療システムや外科的アプローチなど導入せず、鏡を使って正常な左手を映して幻の右手を動かすことに成功したのは有名だが、これも視覚のフィードバックの強さを利用したものだった。今回、それを体験できたように思う。

義肢を付けてトラックを走る映像は、健常者と何の違いも無かった。彼らにとって義肢は、すでに彼らの肉体そのものとなっている。

2008年10月18日土曜日

顔面の原始運動

赤ちゃんは、全ての感情を全身をつかって表現する。大人になると、たいていのことは顔の表情だけですませるようになる。もちろん、時に体で怒りを表現してしまった者がニュースざたになったりもするわけだが。

幼児期は、「顔」と「体」の分け隔てがないようだ。表情を持たない動物も同じように分け隔てがない。いったい人間はいつの時から、感情を顔面で表すようになったのだろうか。どんな理由がそこにあったのだろうか。顔面だけのコミュニケーションが有効な状況・・・体は別な動作をしていなければならないような状況だろうか。ふと、かつて人類は水辺で生活し、頻繁に水中に浸かっていたがゆえに体毛を失ったとする「アクア説」を思い出す。水中で立ち泳ぎをしていたなら、コミュニケーションは水面から出ている顔面でおこなうより仕方ない。

きっかけは何だったのかわからないが、今では顔と体は別々の仕事を同時にこなしている。仕事をしながら笑うことも出来る。人以外の動物は全身の運動で感情を表すから、それは原始的な運動だともいえる。人間は、顔面に原始性を残している。そう思えば、顔面はいつでも裸なのも納得がいく。

くびの皮に思う

人間の下あごから頚の付け根の部分まで、皮膚のすぐ下に薄いシート状の筋肉が覆っている。筋肉と言うと、腕や足を動かすためにあるように思われるが、これはちょっと変わっていて、頚周りの皮膚をうごかすためにある。と言って「頚の皮を動かして」と聞かれてもできない。やり方としては、口を「イー」と思い切り横に広げるようにすると、頚の皮があごの方に引っ張られる感じがするだろうが、それが頚の皮膚が動いたということだ。広く頚を覆っているので、「広頚筋」という。

頚の皮膚を引っ張ってどうしようというのかよくわからない。だが、これが無くてはやっていられない動物もいる。牧場などに行って、牛や馬を間近で見るとわかるが、彼らは常に脇腹や尻あたりの皮膚をブルブルと痙攣させている。あれでハエなどの煩わしい虫を追い払っているのだ。猫も、寝ているところを毛を一本引っ張るとその周りの皮膚をブルッとさせる。この、全身の皮膚をびくつかせる筋肉と、人間の広頚筋は実は同じなのだ。ただ、人間は頚の付け根から上だけが「残った」。かつて人間が頻繁に水中に潜り、頚から上だけ水面から出していたなら、ハエや蚊などの煩わしい虫はその部分を狙いにくる。手足は水中だから、どうやってそれをはらおうか。皮膚を動かす筋肉は、人においてなぜ頚だけに残ったのか。アクア説に乗せると面白いように説明が付くように見える

2008年10月13日月曜日

Artistic anatomy≠Anatomy for artists


美術解剖学という言葉、固有名詞がある。一般的にはほぼ無名であり、美術に関わっている人でも美大でも出ていなければ知らないか、せいぜい名前程度だろう。美術解剖学は、東京芸大に講座を構えている。学会もあり、芸大が拠点である。実質的な活動はほとんどされていないと聞く。知名度が低いのもわかろうというものだ。

では、いったいどんなものか。解剖と言うのだから、死体を切り開いているのか。それと美術となんの関係があるのか。実際には、解剖はしていない。解剖によって得られる人体等の知識を、美術に応用しようというものだ。いわば、ハウツーものである。なのに、「学」が最後に付く。なんとも、大げさだ。実際に人体内部について「学」をしたのは医学の解剖学ではないか。そう思ってしまう。医学における解剖学の知識は膨大で、そのなかで美術の制作に応用する価値があるのは骨や筋など一部に限られる。だから、どれを借用するのかを効率的に選考しなければならないし、医学ではあまり重要視されない筋のボリュームなども考える必要はあるだろうから、そこが「学」なのかもしれない。それでも、やはりしっくりこない。「学」を付けないと体裁が悪い。本音はそんなところにあったのかもしれない。

書店の美術関係の書棚へ行くと、技法書の中にいわゆる美術解剖関係のものがある。ほとんどが西洋書の訳書だ。題名を見るとそこには「美術解剖学」を意味する「Artistic anatomy」とは書かれていない。 「Anatomy for artists」といったように書かれている。「芸術家の為の解剖学」である。そもそも、Artistic anatomyという単語、ジャンルは西洋には無いと思う。この単語から連想されるのは、「美的な」「美術の」解剖学、というニュアンスであって、芸術家の制作のための参考としての解剖学、というニュアンスはむしろ弱い。そして、この言葉に引っ張られたのか、日本では「Anatomy for artists」の授業は行われていないようだ。

厳密に言えば、教える方も教わる方も、漠然と「Anatomy for artists」をしている”つもり”でいて、実際は「Artistic anatomy」をしているのである。「Artistic anatomy」が役立つのは、批評、評論家にとってであって、実際の制作者には必要がない。制作者が必要なのは「Anatomy for artists」の情報だ。

2008年10月11日土曜日

本当の芸術



現代の芸術は、ロマンティックに過ぎる。作家の感傷を見せつけたり、個人的な孤独感のはけ口のようだ。外部との対話を断ち切り、興味のある方だけどうぞ、といった風で、その意味では「おたく」的である。作品を作るという時点で対話を望んでいるはずにも関わらず、対話に積極的ではない。誰かが見つけてくれるのをひたすら待ち続ける。この場合の発見者は、ギャラリストになろう。新しい作家は、ギャラリストによって「発見」されるものになった。作家の価値は、ギャラリストによって付けられ、位置づけも低いものになった。

こうして、現代の作家は、画廊によってのみ社会との接点を持つ、特異な存在となる。社会から遊離してしまったのだ。作家はますます孤立し、内へ籠もり、対話性のない「自分だけの世界」を作り続ける。今のアート・マーケットのトレンドして流通し、そこで金は動くだろう。だが、それだけのことだ。これは、”本質的な芸術”では、決してなく、時代に消費されていく「生もの芸術」である。週刊誌のようなもので時間がたてば(それも短い時間)ゴミと成りはてる運命にある。

もちろん、そういう「今」だけを売りにする芸術があっても良い。生演奏のライブ感も必要だ。だが、綿密に作られたクラシック音楽を忘れ、皆がそちらを向いているような現状は、どうなのかと思う。

彫刻を通して考える。クラシック芸術と言うと、古代ギリシアやミケランジェロを想像するだろう。今では、ロダンもその枠に入るかもしれない。ロダンはミケランジェロを、ミケランジェロは古代ギリシアを参考とした。参考であって、模倣ではなかった。「彫刻とは何か」というコアの部分を受け継いだのだ。それを守り、受け継ぎ、そこに時代が求める表現を載せていたのだ。結果、それらの作品は時代を超えて、人種を越えて、”人類の芸術”となり得た。

さて、そのコアとは。それは、「形の研究」だ。彼らは、人間のかたちを研究した。そのもっとも純粋なものは、やはり古代ギリシアの彫刻群だ。カノン、コントラポスト等、人体の恒久的比率、形状が立体的に考察された。その研究結果発表が、あの彫刻群なのだ。そこには、現代の芸術にあふれている(それだけといってもよい)ロマンティックさは微塵もない。厳格なまでの形状研究の追求結果があるのみである。それを参考にしたミケランジェロも、同様であった。彼は、形を捉える天才だった。彼は人体の形状を愛した。男性裸体が多く、それは、彼の男色傾向としばしば結びつけて語られるが、それは本質的ではない。人体の形状を構造から見ていくと、おのずと男性の裸体にたどり着くものなのだ。女性の裸体は、滑らかすぎ、量感に欠けるので、純粋に彫刻的に見るとき、男性裸体に劣る。ヌードというと女性裸体を想像するのは、芸術家がクライアント(もちろん男性の)の要求に会わせてきたが故の帰結である。ロダンの時代となると、芸術家と社会の関係性も現代に近づいているが、彼もやはり、人体を通しての形体の研究者だった。そこに、時代が求めるロマンティックな要素を取り込んで大成功した。彼らの芸術を鑑賞する人間は、そこに綿密な観察と研究から作り出された絶妙なる形状を「見ない」。その上に載せられた、物語性やロマンティシズムを「見る」。それでいい。それこそが彼らの計画通りなのだ。それでは、作家たちの研究は無駄なのかと言えば、そうではない。その厳密な形状があるからこそ物語性に酔うことが出来るし、なんと言えば、物語性の奥に厳密な形状の美しさを感じ取り、そこにこそ心が動いているのだ、とさえ言える。

彫刻芸術の本質から言えば、作品の物語性やロマンティシズムなどは、刺身のツマに過ぎぬ。現代の彫刻家で、形の研究として彫刻を捉えている者がいるのだろうか。ただ単に、表現の手法に立体物を用いているから「彫刻家」と名乗っているだけではないか。

芸術家は、伝記が好む、「激情的」で「感覚的」で「人と違う」ような人間である必要などない。むしろ、冷静で、分析的な姿勢こそが現代の作家には求められると思う。本当の芸術、歴史に残る芸術を志すならば、「自分の為の自己表現」など止めて、形の探求という本筋へ戻るべきだろう。それは、人種を越え、時間を超えて、人類共通の感覚を探るということだ。

2008年10月3日金曜日

300キロで走る体


先日見たF1関係のテレビ番組で、面白い事を見た。ドライバーは走行中に特殊な体験をしている。走行中、まず音が聞こえなくなり、やがて、色彩がなくなり、そして、動きがスローモーションになるそうだ。そうなると、壁と車体との距離をミリ単位で調整ができるほどになるという。

極度の集中のために、脳が機能を絞っていく。動体視力に必要ないもの、まずは音感。次に色覚。おそらく、この際の、脳内血流量も音感、色覚を司る部位は著しく減少しているだろう。最後に残ったのが白黒映像と動き。交通事故に遭った人がよく言う、「スローモーションでゆっくりと体が飛んだ」も、極限状態で脳が機能を「動き」の解析に絞り込むということなのだろう。交通事故は、本人は望んでいないが、F1ドライバーは自らをその状態へ持って行く。それには、時速数百キロの助けが必要だが。その瞬間、ドライバーは間違いなく運転に没入している。もはや、腕はステアリングを握ってはいなく、足もアクセルを踏んでいない。自分自身が、時速300キロで走っているのだ。

人間は、チータのように走れず、鳥のようにも飛べない。その、弱いからだを補強するために、車を、飛行機を作った。それらはいわば、延長された体であり、自分自身だ。ただ、生身の肉体と脳は進化を共にしているが、付け加えられた体の機能には脳は対応していない。人間が適切に対応できる速度はせいぜい時速20キロ程度と聞いたことがある。人が走って出せる速度だ。

新しく手に入れた高速のからだ。その体に脳が対応できない限り交通事故がなくなることはないのかもしれない。

2008年8月25日月曜日

あって当然の極致


芸術には、さまざまな表現がある。
心の内面をえぐるようなものから楽しくポップな表現まで。
オーガニックなものからメカニカルなものまで。
アナログからデジタルまで。

それらすべての表現は、元へたどると「人間」へ行き着く。人間が表現しているのだから当然なのだけど、そう気づいていない作家も鑑賞者もいる。私たちは、自己を忘れるようだ。なにせ、自己はもともと与えられたもの。欲して手に入れたのではない。「あって当然」の極致といえる。
でも、自分という「人間」を忘れすぎた作品は、何か弱い。肉体という物質である人間だということを少なくとも作家は、「知っている」べきではないだろうか。

感動は、肉体から生まれる。