2009年6月20日土曜日

解剖学=見る技術

先日見た、友人の個展での作品は人体の具象だった。等身大の木彫で、一気呵成に彫られたノミ跡が心地よかった。
それは久しぶりに制作を開始した作者の勢いと気概を表しているようだった。全体のプロポーションにそれほど破綻を来すことなく彫り上げる技量はさすがだが、それだけに、細部の造形の荒も見えてしまった。やはり気になるのが、関節部だ。
肩、肘、手首、膝、足首など、関節部は皮膚と骨の距離が近いだけにしっかりと形を表さないと、全体が締まらない。しっかり形を表すには、確かな観察と構造の知識が必要だ。
作品は、解剖学的に正確でなければならないことはない。造形のあり方は、その作品の方向性とリンクしていなければならないだろう。それでも、彼の作品の関節の追求度はそこに追いついていない印象を持った。
きっと彼は、解剖学の知識はあまり持ち合わせていないのだろう。そして、多くの日本の芸術家同様に、その重要性にも気付いていないばかりか、むしろ無用であるとさえ考えているかもしれない。

芸術教育における解剖学が、ネガティブな意味でのアカデミックの象徴となって「既成概念からのフリー」を求める近代以降の”アーティスト”によって毛嫌いされ、その流れは今でも根強く残っている。芸術家に解剖学は必要ない、とはっきり言うひともいる。

今、具象の彫刻が崩れている。若い作家が作る人体彫刻は、もはや人形だ。それは、「ヒト」を表す記号でしかない。もし、本当にそれで良いと言うのならいっそのこと、壁に「ヒト」と書くか、丸を書いてその下に「大」を書けば良いということになる。
本来の彫刻とはそういうものではない。あくまで、一義的に「形ある物質」でなければならない。それを高度に完成させようとするなら、おのずと観察は厳しくなり、その延長から解剖学を参考にすることの有効性に気がつくはずだ。
真実を知ろうとし、それを追い求めるのが芸術家なら、その探求の矛先を体内にも向けるべきなのだ。それは、自分自身なのだから。

どうも私たち人間は(恐らく全ての動物も)、自分自身の肉体性にはあまり目を向けないように出来ているようだ。化粧や洋服で着飾りはするが、それらは他者へのアピールという前提がある。肉体性に目を向けないから、病気や死も深刻になるまでは無視しようとする。私たちが常に死と隣り合わせなのは分かるのに、医者に宣告でもされない深刻には捉えられない。解剖学に興味を持とうとしない芸術家も、そういう私たち共通の感覚が助長させているのもあるだろう。
だが、解剖学の知識を身につけるというのは、あくまで技術の話であって、作家の感性の邪魔をしようとするものではないはずだ。レオナルドやミケランジェロは解剖の知識があったが、それは彼らの感性の表出を手助けこそしたがそれで作品の質が下がったであろうと誰が考えるだろう。

現代の芸術家は、感性を重視するあまり、技術をないがしろにしすぎている。高度な感性も、それを表現する技術が稚拙ではお笑いになってしまう。技術とは、ノミの切れ味や溶接の善し悪しだけではない。どのように対象を捉えられているのかも技術なのだ。それらが高度に組み合って、そこに初めて感性が入り込めるのではないだろうか。少なくとも、古典の傑作を見るとそう感じずにはおれない。

2 件のコメント:

阿久津裕彦 さんのコメント...
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