芸術における人体表現で、肖像というジャンルがある。肖像において一義的に重要なのはそれが誰かということだ。どこの誰でもない肖像というのは元来存在しえない。しかし、芸術家はそこに自身が持つ芸術的信念や技術を反映させることで、それが誰であるかは一義的には重要ではない、芸術作品として独立しうる物にしようとする。そのように、芸術的な側面を強く押し出されたものは、肖像と呼ぶよりも頭像や首像(しゅぞう)などと呼ぶ方がしっくりくる。
首と頭部という体の一部を切り取って表現しても成り立つというところに、我々にとって顔がいかに重要なのかが分かる。
首像において、頚は重要な部位である。頭と体をつなぐこの部位は、明確なランドマークがないから簡単なようで難しい。ここをないがしろにして作られた作品は頭の所在がうわついていて見るに堪えない。
生体としても、頚は重要な部位だ。頚が固定されてしまえば日常の動作が著しく阻害されるし、かといって、可動性の為に細くなっている故に弱く、様々な外傷を負いやすい。この細い幹の中には脳と体を繋ぐ重要な神経も通っているし、脳へ血液を運ぶ重要な血管も浅い部分を通らざるを得ない、言わば急所である。
頚は、私たちが水中から陸へ上がってから獲得した部位だ。だから頚がある魚はいない。頚を獲得したことで、いちいち体全てを動かさなくとも、特殊感覚器がまとまっている頭だけを動かせるようになった。
この頚が、魚で見るとどこにあたるのか。腕は胸びれと対応するから、頚は魚のエラと胸びれの間が細く伸びた感じである。この時エラは上下に分けられてしまったから、今でもエラの名残が、頚の位置と心臓の上あたりの両方にある。魚を基準にして頚と体を区分けするなら、心臓の乗っている横隔膜あたりまでが頭だから、心臓はアゴ下にあって腕は頭から生えているような感じになる。
芸術では、胸像という区分けもある。字の如く、頭から胸あたりまでを表現するのだが、上記の区分けで見れば、これはまだ頭の範囲であるから、魚から見ればこれも頭像となるのだろう。
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