美とは何か。漠然と言葉にされ、分かっているようにも感じるが、それを明確に規定することは出来ない。美術館に陳列している「美術作品」と呼ばれる物たちが美ではないかと思われるひともいるかもしれない。確かにそれらの多くは美を目指して作られたのだが、かといってそれらが美であるとは限らない。別に言うなら、美術作品とは、それらを作ったひとが感じた美を、それぞれに再現を試みられた物たちである。
美は、美しいと感じられる対象のことである。「美しい」は感覚であり、喜びや悲しみといった感情と同様に、何らかの刺激によって心象に”勝手に”湧き起こってくる情動反応である。従って、喜びや悲しみの状況が多くの人が共有できるのと同様に、美しいという感覚は大枠では他人と共有されるものだ。
美しいと表現される対象は視覚的なものと聴覚的なものが主で、その他の感覚である嗅覚や味覚、触覚で感受されるものには用いられないことは興味深い。
またさらに、それら特殊感覚的なものの他に、対象の動きに対しても用いられる。ここでの動きとは、主に動物の能動的行為を指すので、「美しい動き」と言うときには、その動きを生み出す判断や身体能力、さらには心の動きまでもがその判断に含まれていると言っていいだろう。
忙しすぎると笑いを忘れるとも言うが、それは美にも言えることで、精神的な余裕が少ない日々では何かを美しいと感じることも少ない。しかし、「うつくしい」と言語化されないだけで、その感情は常に湧き起こっているに違いない。それは、ふと視界にはいった木々の緑や、空の雲や、すれ違った人の顔、ある人の所作、耳に飛び込むラジオの音楽など様々な刺激から感じ取っている。だから、私たちは常に美に取り囲まれていると言っても良い。
この、気付かずにいた美がある時から意識下に現れることがある。気にしていなかった対象が美しいことに気付く。その時に自分の心を探ると、きっと以前からそこに美しさを感じ続けていたことが思い返される。何故なのかは分からないが、何かのきっかけで感覚の蓋が開き、美しさが強く意識されるようになるのだ。喜びや悲しみの発端がどこからやってくるのか、つかみ所がないように、湧き起こる美しいという感覚も自身ではどうしようもないのだろう。ある感情もやがて落ち着くように、それも時間と共に変化していく。
”美しさ”は主観であり、それを見出す対象に”美”を置く。だから、美はいつも感じる者によって見出される。ただし、美の対象が人間か、それ以外かで大きく違いがある。すなわち、人間以外の美は常に見出されるしかないが、人間は見出されることで”自らが美しい”と自覚することができるということだ。それどころか、人間は自分自身で自己の美を発見すらするだろう。
勝手に湧き起こる「美しい」に該当する感情は、意識下に上ることで「うつくしい」と言語化される。言語化されることで他者にその感覚、感情を伝えることができる。美しい空を見たら、隣のひとに「美しいですね」と言うし、美しい彫像であってもそれは同じだ。ただ、美しいと感じる対象そのものにはその言葉を向けることは出来ない。もしくは、言っても意味を成さない。ここには、自己の感情を相手に伝えるという本来の言語の使命上、それが果たすことができないことへの無念を感じざるを得ない。自作の彫像に愛の言葉を投げかけ続けたピュグマリオン。神話ではそれを哀れんだ女神アフロディーテにより、彫像はやがて命を宿す。「美しい」はそれを放つ対象にこそ投げかけたいと欲求するのが言語を使う私たちの本能であろう。美の対象がひとであるなら、それは叶えられる。アフロディーテの祝福を待つまでもない。美しいひとには「美しい」と言うべきなのだ。それが「美しい」という言葉の本義に沿った使い方だと思う。
ピュグマリオンとガラテア バーン・ジョーンズ作 |
ここでピュグマリオンは、彫像の外見的な美しさだけを見ていたのではないことに注意すべきだ。彼は、彫像に服を着せ食事を用意した。それは、単なる外見への愛ではなく、そこにひとつのパーソナリティを作り上げていたことを示唆する。彼の中ではガラテアの内面性までもがすでに想定済みであった。もはや動くのを待つばかりであったのだ。
美しさの意味合いは彫像と人では違う。人の美しさは内面性を伴う。内面性は、その人の所作によって伝達される。所作をどう読み取るのか、そこに言語外のコミュニケーションが存在している。だから、人が持つ美しさはいつも揺らいでいるし、移ろっていくとも言えるだろう。変化し移ろう一時の美の連続とは生命と同義ではなかろうか。人の美しさは、その生命の美しさを反映している。
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