先日、箱根彫刻の森美術館へ久しぶりに行ってきた。雨降りだったが、それほど寒くはなかった。屋外展示を全てみることはできなかったのだが、それでも解放空間に置かれた彫刻の存在感を感じることはできた。
近代以降の彫刻は、従来の外に置かれる大きなモニュメント作品から美術館という建物内での展示へと、置かれる場所が変化していった。このことは、空間の影響と共にある彫刻作品にとって、非常に大きな要素の転換である。
屋内に展示されている時、それが大きな展示室であったとしても、鑑賞者の目には作品と共に天井や壁が映り込む。それに、その空間内に自分が踏み入っているという認識も持っている。だから、屋内に展示される作品は、必ずそれが置かれている空間、部屋との相対関係が生まれているのだ。「屋内だと作品が大きく見える」というのもその影響の一例と言える。それに、屋内展示だと私たちはより作品に近づき、時間を掛けて鑑賞する傾向があると思う。静かで、その作品の為に用意された空間だと、鑑賞にも集中するのだろう。
一方の屋外展示では、地面以外は空間を隔てる要素がない。外に置かれた作品は、室内という守りの壁を持たず、その意味において、真に自立した状態であると言えるだろう。だからだろうか、作品によってはどことなく心細く佇んでいるように感じられる。それはまさに巣立ったばかりの小鳥のようだ。そして、そんな弱々しさを図らずも露呈してしまった作品は、やはり屋内展示を暗黙の前提として作られたようにも見えるのである。近づくと細部まで意識を集中して造形した密度を感じる。しかし、風が吹き雨に濡れ、曇り空からの拡散光線に包まれてしまうと、そんな近視眼的造形密度が持つ意味は薄らいでしまい、こちらへ訴えかけては来ない。何か、風で飛ばされてきた木の枝一本を足元に見るような弱々しさがそこにはある。
だが、風雨にさらされてもなお、強い存在感を放っている彫刻たちもある。そう言うものは大抵細部などこだわってはおらず、大きな面と大きな量を大胆に動かしている作品である。それらは、白い光に包まれても負けないだけの光と影の強さを持っている。数十メートル離れたところから見ても、存在の強さを放つ。それらは、はなから室内にいることを拒絶している形なのだ。それは、大木であり巨石であり、またはゾウのようだ。屋外にあっていきいきとしている。風雨にさらされることを受け入れている。
彫刻と一言で言っても、どこに置かれ、どの距離で鑑賞されるべきかは作品毎に違う。当然ながら作家はそれを想定しつつ制作しただろう。しかし、作品が世に出て時が経てば、想定したのとは違う場所に落ち着くことも多い。彫刻の森美術館の屋外には、そうして、様々な想定のもとに作られた彫刻たちがまとめて屋外に置かれている。そのことがまるで、各彫刻が外世界の解放空間に耐えられるのかという試練を受けているようにも思える。もちろん、素材的な強さではなく、作品性の強さである。
彫刻とそれが置かれる空間との関係を様々な条件下で体験できるという意味でも、この美術館は貴重であるし、実際、楽しい。
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