ものごとには、一見では見えないような、様々な方向性もしくは階層性が隠されている。始めに見えるのは最もコントラストの強い外郭だけなので、その内側の細かい区分けには気がつかないものだ。しかし、外郭の内側にはいるときには既に、その中の細分化された領域のどこかに自分の本当の興味どころがあるのである。ただ始めは自分もそのことに気付いていない。だから、似ているが違う領域に足を踏み入れてしまうことが往々にしてある。そうすると、やがて自分の周囲にいる人間の興味どころや研究の方向性が自分の求めていることと違うことに気がつき始める。しかし、我々は当初の自己判断を訂正することが難しい生き物なので、それを自分ではなく、周囲の人間が本来の方向性を見誤っているのだと解釈するのである。そうして、自己肯定に基づいた他者否定が始まる。しかし、否定したところで環境に変化は起こりはしないだろう。それは、全く文化の違う国にひとり入って、その文化を自分好みに変えてしまおうと試みるようなものだ。
よくよく見極める必要がある。似ているコミュニティほど、そうだ。隣人は同じ方向を向いているようで実は違う遠方を見ていることがままある。他者の判断は本当に間違っているのか。それは実際には隣のコミュニティの住人ではないだろうか。彼らを熱心に否定することは生産的ではないし、自分の方向へ向けさせようという努力も徒労に終わるだろう。むしろ文化の多様性のひとつだと捉えればよい。私たちは自分こそが最も正しいと思うものだから、きっと彼らを見下してしまうだろうが、それを表現しなければそれで良いのである。
結局のところ、私たちが出来ることは、自分の信じる活動を継続することだ。信念は活動を通して外部に表現される。そうして、入る部屋と時々間違えながら、自分の居るべき場所に近づく以外に方法はないだろう。そうするうちに、同様に迷いながら同じ部屋へやってくる者と出会うかも知れない。
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