2018年5月5日土曜日

コンポジション — モノが持つルール — 展を観て

   有楽町駅からすぐの無印良品の店舗に初めて入ったが、広く、階段状に上階へ展開する店内でとても都会的。個人的には90年代のはじめの頃がなぜか思い出された。まだ日本が元気だった頃。あの頃と違うのは客に外国人が多い事だ。日本がまた元気になりつつあるのかと感じた。広い二階フロアーに上がると、ゆるやかに区切られたカフェがあり賑わっている。書店コーナーもあるが、駅前スーパーのそれとはもちろん置かれている本の種類がちがって文化的指向が強い。他にもなんらかのテーマで区切られたエリアが散在しているので、目的の展示エリアはどこだろうかと見渡すと壁に面したそこを見つけた。

   ATELIER MUJIと書かれた展示エリアに置かれた冨井大裕氏の作品は、店舗内空間とよくマッチしている。それもそのはずで、作品は全て無印良品の商品が使われている。空間が通路で区切られているからいいが、そうでなければ積み置かれた商品と思い込んだ客が手を伸ばしてしまうだろう。白い壁に白い床の展示エリアに、模様などない白い色の商品を組み合わせた作品が置かれるとモノトーンの印象になる。視覚的に静か過ぎると感じられたからか、天井から赤や黄色などの鮮やかな色の帯が垂らされ作品の背景色になっている。

画像は無印良品のサイトから

   はじめに目につくのは、逆さにした樹脂製のファイルボックスをいくつも交互に重ねたもので、商品下に開いている穴に丸棒が一本通されている。棒が全体を貫いて支えているのだが、重ねた結果、上に行くに従って左に傾いている。この傾きが作る曲線が、直線的な会場に有機的な要素を与えていて興味深い。その右奥には同様に左に傾いた金属製の棚の作品がある。組み立て式の棚の4辺をずらして組んでいる。会場内に目を配ると、同様の傾きによる斜線構造がいくつも目に入る。それは直線と直角とで構成される商品の並べ替えによるのだから当然のことなのだが、工業製品が直線を求めたところに、作家はそこに足りない要素として斜線を求めるという、両者の対比関係が明らかに見られる。なんにせよ、人は足りないものを補いたくなる。足りないと感じるものを見つけるのであろう。展示作品の他の特徴としては、同一作には同一商品が用いられている。さらに、そのいくつかは反復的な配置から構成されている。同じ物から新しい物を構成するもっとも単純な手段が反復、つまり同じ物を連続的に繰り返すことだ。つまり、これは素材を元にした最小限の改変のバリエーションが提示されているのだと言える。
   マス目のルーズリーフの1ページにカッターで何本も切り込みを入れた作品が壁に掛けられている。金具を通す丸穴に向かって切り込みが走っている。切り込みは何度も繰り返され、鋭い影を作っている。指示書を見ると、タイトルが『大降り』とあり、切り込みは丸穴に向かうように書かれているから、それらを雨粒とその軌跡に例えているのだろう。
   “同一品で最小の改変繰り返しといったルールだと分節性が際立った形になりがちである。またその素材の性質からも縦より横に広がる向きが強い。その中にあって際立っていたのが、壁掛け式の金属製スタンドを縦に複数繋げた作品だ。それもただ上方へ繰り返すのでは無く、向きを変えるだけで斜め上方向へと視線を誘導し、一見すると単純な構造の繰り返しに見えない。さらに金属板が後ろの壁に落とす影は幅広で、それが実物と相まって何かソリッドな存在にさえ見えるのである。組み方をわずかに変えた2つが横並びに置かれた様はモニュメンタルで、これが10メートルの高さでも良いように思われた。
   
   全ての作品の近くにはA4サイズほどの紙が貼られており、作家の手書きで各作品の展示方法が記されている(正確にはそのコピーである)。ちょうど組み立て式家具について来る指示書のようだ。字が小さいので全てに目を通す人は多くないかも知れない。撮影可だと言うのでケータイで撮ってから目を通した。するとこれが面白い。一見、厳密に記されているようでいて力が抜けている。それも、力を抜いていいところがそのように記されている。例えば「グッ」、「ガバッ」、「フワッ」、「クシャッ!」、「ギューッ」、「ヒョイッ」という擬音語が当てられていたり、指示も「できる限り」や、「ほぼ」のように曖昧。更には「後は成り行き」と書かれていたりするのだ。完成を成り行きに任せる工業製品はあまり聞いたことがないから、やはりこれはアートのための指示書である。

   作家はこう言っている。「私は作品をつくった後に必ず指示書(組み立て説明書)を残します。作品をつくる時に私が大事にしていることは、目の前にある「もの」ではありません。ものに込められた人間の創意工夫―――「こと」です。」
   
  “ものつまり物は物質だから目で見える。一方のことは現象であり、それだけで存在することはない。ことがそれだけで存在できるように感じられるのは人間が現象を概念化することができるからだ。そのことから、富井氏はここで自らをコンセプチュアル・アーティストだと明示していると言える。だから、情報としてのことが残されていれば、その作品は再現可能なのだ。今回の展示は、ものの素材として無印良品の商品が用いられたが、それによって作家の独自性が失われることはない。重要なのはものではなくことなのだから。

   通常、展覧会では、最も重要な展示品はケースに入れられたり複製品が用いられる。この展覧会場で貼られていたのは指示書はコピーつまり複製品だった。つまり、鑑賞者のほとんどが組み合わされた商品が作品だと信じるのとは裏腹に、本展覧会で最重要な展示品は壁に貼られた小さな指示書なのである。
   
   本展に置かれている作品の素材は工業製品で、全てが複製された物である。また、作家の手書きに見える指示書も複製だ。だから芸術作品を貴重なものにする要素としての物質的な希少性はここには存在しない。しかし、これらは消費される商品とも異なる。そういう存在に変容している。一体、その変換の境界はあるのか。商品から作品への物質的転換(変換ではなく)の過程は指示書に余すことなく記されている。
   アーティストは答えを提示していない。作品の答えのように丁寧に書かれ記されているものは、私たちの認識の再確認を促す世界への入り口を示す、標識なのだろう。
   
   

コンポジション — モノが持つルール — 展

  • 期間 : 2018年4月20日(金)〜2018年6月24日(日)

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