2018年5月3日木曜日

実感 言語と非言語

   私たちは、自己の経験や思考を互いに伝え合い、理解し合うことができる。しかし、それが伝えられるものは非常に限られているはずだ。例えば言葉で伝えるなら、言葉になるものしか伝えられないのだから。いや行間を読むと言うではないか・・。しかし、行間をどう読むのかは読み手に委ねられている。言語は伝えるべき内容の輪郭を、それが正確かどうかは別として、非常にはっきりと見せる。そのために、私たちは日常的な言語のやり取りで意思が伝わらないもどかしさを感じる事はほとんどない。そうとは言え、一体、どれだけ伝えたい事の本質が相手に届いているのだろう。
   言葉で他者に情報を伝える。これが実務的な内容ならば、さして難しくはない。しかし私たちのやり取りは、感情なきマシン同士がやり取りしているのではなく、そこには感情がある。では、感情をそのまま伝えることなどできるだろうか。「まだ恋を知らない子供に、それを話し伝えることはできない。」と言うが、実際それは本当のように思われる。たとえ理解はできても腑に落ちることはなかろう。つまり実感が伴わないのである。そして恋愛に限らず、それ以外のあらゆる感情もまた、それを体感し実感した者にしか分からないはずである。
   そうなると見えてくるのは、実感のスイッチを入れる役割としての言葉である。言葉は特定の状況を想起させる。その時同時に、体の中では言葉に対応した実感が沸き起こるのだろう。つまり、その実感はあくまでもそれを知っている(持っている)本人の自前である。人生経験の多い年長者が共感や包容といった感性により親密なのは、そのせいもあるに違いない。

   方や、「非言語的」伝達がある。文字通り、言葉にならない伝達のことだ。これは、言葉で示せないのだから、伝達に間違いが生じやすいのではないかと感じられなくもない。しかし、それはおそらく間違いで、より深く、相手の腑に落ちる形で伝達できるのは、むしろこの非言語的伝達であろう。人間にとっての代表的なそれは顔の表情である。表情は顔の皮膚を筋肉で引っ張って歪ませることで作られる。その筋肉をコントロールする脳の部分は感情と深く結びついているので、感情に伴ってほとんど瞬間的に表情が作られる。さらにそれは文化による影響を受けない。笑顔、泣き顔、起こり顔、困り顔といった感情に即した表情は人類共通である。つまり、言語のように決まりごとを学ぶ必要もない上に、伝達間違いも起こらない。人類は感情伝達を顔面部へと集約させたが、とは言え首から下の全身も用いられないわけではない。それは幼い子供ほど顕著である。彼らは喜んでは飛び上がり、怒っては地団駄を踏む。大人になるとだいぶ大人しくなるものの、手は今だに顔の次に表情を語っている。ただしこの伝達制度は、指差しの人差し指を除いて、顔とは比べ物にならないほど曖昧となる。
   視覚芸術としてまとめられる古典的な芸術、すなわち絵画や彫刻は、この非言語的伝達を扱っている。中でも西洋彫刻は、人体表現から表情を取り除かれる傾向があり、全身の姿勢によってそれを伝えようとする。そのため表情が描かれる絵画以上に、伝達内容が曖昧とならざるを得ない。それは言い換えれば、「何を伝えたいのか分からない」ということになる。絵画が持つ、親しみやすい物語性をそこに期待すると、何を読み取ればいいのか分からない。美術館では彫刻作品は絵画と比較して鑑賞時間が短い傾向が見られるのは、そういう理由もあるだろう。彫刻は絵画とは全く異なる性質を持つ表現だが、私たちはどうしてもそこから言語化できる物語性を欲してしまうのである。言語優位性は人間の本能とさえ言えるものだ。作品を前にしても、まずタイトルとキャプションを読まなければ不安に感じるのも同じ理由であろう。

   芸術が感情と親密だと言われるのは、それが上記のように非言語的だからで、それゆえ文化や時代を超えて訴えかける伝達媒体であることを示してもいる。しかし、同時に言語の即時有効性が身に染みてもいる私たちは、芸術にも言語的伝達を常に持ち込もうと試みている。しかし、その本質はあくまでも非言語性であり、たとえ表現が論理的側面を強めたとしてもなお、その行間にどれだけ豊かな非言語的実感を想起させ得るかが重要であることに変わりは無い。芸術にとって言語は看板文句に過ぎない。そして、芸術家(とその愛好者)は、世界は言葉にならないもので満ちていて、それこそが生きる世界に色を与えていることを知っているのである。

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