2019年7月21日日曜日

思考の時系列

 記述言語はほとんどが時系列を内在している。つまり、読み始めと読み終わりが存在する。わたし達は文章を読むことに慣れているので、思考もそうであるように感じる。実際、頭の中で文章を“語る”こともある。しかし、普段の思考は本当に記述言語のように文章化されているだろうか。おそらく、そうではない。非言語的な思考の立ち上がりがあり、次にそれを言語的に置き換えている。もし口述や記述するなら、それは完全に言語化された証である。
 つまり、非言語的な思考が言語化される過程において、そこに時系列が組み込まれた可能性がある。読んでしまう前はそうではなかった。なぜそう言えるか。非言語的な伝達手段があるからである。つまり、芸術だ。私たちの世界認識は言語だけではない。周囲を見回しても言語以外のものが多く目に入るが、私たちはそれをいちいち言語化せずに認識している。本棚が“本棚”になるのは、そう言おうと(書こうと)した時である。
 だから、記述言語は自由な思考を制限するものでもある。文法を知らなければ、その言語で考えることはできない。言語は階段に似ている。そこを通る人は皆歩幅を強制的に合わせられてしまう。しかし、階段を作る原因は高低差で、本質はその高低差をクリアすることにある。坂道でも構わないのだ。しかし、坂道では歩みの遅い人、歩幅の小さい人など個人の特性に進度を委ねているので、進み方にブレが大きい。階段にすれば、皆同じ歩幅となり、使う筋肉も合わせられ、より効率的となる。
 しかし、記述言語は始まりと終わりがあるので、絵画を一瞥するような、瞬間的な全体理解ができないという致命的な欠陥がある。それでも巻物から書籍となり、ページ数と目次が加わったことは大きな飛躍だったろう。しかし、文章である以上、そこに時系列は常に存在する。文章を構成する単語にはそれがない。「文章」「構成」「単語」「それ」「ない」などには時系列がない。それが組み合うとそこに時系列が現れる。「文章を構成する」は「文章を構成」までは結果が分からず、最後の「する」を読んで意味が決定する。決定する最後までは「しない」かも知れない。ならばそれも単語化すればよいか。「構成文章」「非構成文章」とすればどうか。これは結局、英語や中国語の文法体系である。つまりこれが長くなり、複雑化すればそれを初めから読まざるを得ないので、時系列が組み込まれる。既存の言語は時系列がある前提だから、これに乗っている限りは、時系列に従わざるを得ない。
 しかし、生物が今ある身体を基盤としながら進化してきたように、言語も今ある形から進化することができる。新しい言語へと、よりわたし達の思考に近い、つまり自由自在に飛翔できる思考に寄り添った記述言語へと進化することは不可能ではない。

 わたし達は言語によって自らの思考に形を与え、他者との認識共有を果たし、文化を構成してきた。とは言え、その形式が固まったわけでもない。もしその思考に限界を感じるなら、窮屈さを覚えるなら、それはこの思考の体系の限界が透けて見えているのだ。
 芸術は非言語的思考体系の一つだと言える。しかし、それはあえて原初的段階で常に止められる傾向があるので、意思疎通の道具としては機能していない。少なくとも厳密性に欠ける。言語としての厳密性があり、かつ、時系列の呪縛からも逃れた体系が構築されれば、その時はわたし達の知性は次の領域へと飛躍するかもしれない。

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