ポリュクレイトスのキャノンは比例だと言う。しかし、何かを区切って計測してみればすぐに気付くことだが、比例計測には終わりがない。どこまでも細かくなって行き、その極限は結局、その無限の数によって、計測する前と同じようなものになってしまう。
神の形である完璧な人体像を作ろうとするとき、指と手のひらの比率などという大雑把な捉え方だけで作るだろうか。その間の無限の曲げ率の変化は芸術家の感性に任せたのだと言い切っていいのか。彼らはそのように、現代人のように、都合主義の適当さを持っていただろうか。彼らは気になったはずだ。無限に比率を細かくすることは無意味であり、特定の領域間の曲げ率を支配する法則があるのではないか。そういった法則に宇宙の形は従っているのではないかと。同時代は実際にも、ピュタゴラス学派など、数学に基づく真理探究も行われていた。三角関数は相似の重要性を示すが、それは彼らにとっては単なる“便利な考え方“ではなく、真理と繋がっていたはずだ。何となれば、数によるなら、完全なる神の形を示すことが可能なばかりか、その相似形と神とは真理において同一であるとも言える。さらに、真理は形をかえて偏在する事実をも、そこに内在している。今は失われたポリュクレイトスのキャノンも関数だったのではないか。
事物の理解が言語化によるものとしても、結局全てを語り尽くすことは、ある1つの側面しか見ていないなら、不可能である。人体の理解もそうで、ある細かさから先は、同じ見方が通用しなくなる。そのような見方は、実はより大きな法則の一部に過ぎないのかも知れない。
さらに、「アキレスと亀」や「飛ぶ矢」で知られるゼノンのパラドクスからも分かるように、宇宙の事物の理解には時間の概念が必要である。空間内で永遠に静止している存在などあり得なのだから。彫刻を作るという行為はこの大きなパラドクスを超えなければならない。しかしそれは、嘘であってもならない。真実が数式にしか表せないイデアならそれを基にした彫刻は常にその影であり、この限界は全てに同一であるという点で、彫刻は決して嘘ではない。
古代ギリシアの彫刻家は、それ以前もそうだったように、装飾的な人形として彫刻と対峙していたのではない。彼らは真理を探求し、それに同調し、それを理論的世界から現実的世界へと引き出す役割を担っていたのだ。2019/07/02
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