意識の起源は記憶の獲得にある。記憶は組み立てられるもの。そこに構造がある。そうして言語化される。言語は世界の見方が現れる。いや、言語的にしか世界は見えない。ただし、言語の表象の隙間が無数に生まれる。自然は本来は、恐らく、区切りがないからだ(要考察)。言語を知らない幼児が見る世界は曖昧だ。同様に、言語で区切らない芸術もその隙間を表すことができるが、それが決して確固たるものにはなり得ないのは自明のことなのだ。認識が捉える世界は形から始まるのではなく、言語からかもしれない。もちろん、それが何語かは副次的な問題で、言語的認識とでも言えるものである。そうであるなら、言語野の破壊は認識の破壊を意味する。幼児は直線と言う図形や概念を知る以前に“指差し”をするが、そこには直線の概念が既存していなければならない。
なぜ、意識を振り返ること(記憶)ができるのか。語るためだ。もちろん、他者に語るのである。他者と語ることで認識の幅を広がるのは、表現の幅か広がるからである。認識を広げるには他者との対話が不可欠なのだ。そして、それを体系立てたものを学問と言う。
用語なき解剖図は決して決定しない。解剖図は言語の図像化に他ならない。ポリュクレイトスは数値を人体に当てはめたが、そのキャノンと彫像の間に言語が介在する事は言うまでもないだろう。だからギリシア芸術を真に理解するには古代ギリシア語を知る必要がある。ギリシャ彫刻は、語れること以外は作られていないと言える。論理学や哲学、数学が発達した時代、世界の対象は言語的に構築し捕らえられていた。その厳密さは現代を凌ぐだろう。リアーチェの戦士像を見ただけで彫刻が上手になったと坂東先生が言ったが、これは含蓄ある言葉である。ギリシア彫刻に“分からないけれども作ってみた”は無いのだ。全てが論理的に組み上げられた、いわば芸術的な言語なのである。それゆえ、その言葉を読み取れる者にとっては見ることは読むこと、聞くことなのである。
このように考えると、芸術家に言葉が求められるのも理解できる。少なくともその芸術家は、語れるところまでは表現できるのだから。彼らは常に先端に立っているから、既存の言葉では足りないかも知れない。ならば新たな言葉を作れば良いのだ。いや、そうしなければ、新たな地平へは進めない。ミケランジェロがフィギュラ セルペンティナータと言わなければ、それは無かったのだ。
これは、美術解剖学とて同じで、形態認識の固定化も言語によってのみ可能なのだから、本質的には図像ではなく記述、言語なのである。言語化されていない部位や形状はあくまでも認識の隙間で流れ行く不確定なもの、動きの間に現れるブレのようなものでしかない。
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