人を物の様に扱う、というのは失礼に値する。また、「心」や「たましい」は物質を指してはいないだろうし、心の問題を取り扱う「心理学」や「哲学」など、人間を非物質的な側面から考えることは、古くから行われてきた。思考したり、コミュニケーションでやりとりされる意思伝達は物ではないから、必然的にそこが強調されて見えてくるのは理解できる。また、人間社会では、私(あなた)が誰であるかという事よりも、何が出来るのか、もしくは何をしたのかで判断されるから、肉体的な個人はさして問題では無いかのようになっていく。肉体的な個人が売りのモデルや芸能人は別だが。
それに輪を掛けて、インターネット上では、ほとんど純粋に情報でのやりとりのみで個々の存在が成り立つようになった。それは、概念だけで成り立っている脳内ネットワークに似ている。
現実の私たちが見たり聞いたりする情報も、結局は脳内で概念化されて理解されるのだから、それを模したような現代のネット上での情報交換がすんなりと受け入れられるのは当然のことなのだ。むしろ、現実社会から情報への転換作業が無いだけ労力も掛からず、楽なのかもしれない。
情報化偏向の時代性もあってか、私たちも自己の肉体性を忘れつつあるように感じる。社会性動物としての人類という進化の方向性として、それが間違っているのかどうかは何とも言えないが、私たち個人が肉体性をもはや不必要と感じているのかと言えば決してそうではないのは事実だ。
死体を見ると、誰もがぞっとするだろう。なぜ、ぞっとするのか。勿論、身近な人の死体であれば、その理由は明らかだが、そうではない、どこかの誰かのものであっても、ぞっとする。生きていても死んでいても、死んで間もなければ人の形には大して変わりはない。それでも、何かが決定的に違っている。
私たちには、人(の形)であれば、自分と同じように意思の伝達が可能であるという前提がある。そして、それによって得られる情報にこそ、相手や自分にとって重要なものが含まれている。自分らしさ、その人らしさ、といった人格さえ、やりとりされる情報の中に宿っている。同時にそれは、自分や相手という「肉体」から発せられているのだから、両者はそこで強力に結びつけられている訳である。
ところが、死体では、その情報の部分がすっぽり抜け落ちている。もはや永遠に発せられることはない。そして、情報を発しなくなった肉体は、自らが持っている肉体の物質性を強烈に強調させる。これこそが、死体を前にして感じる強烈なる違和感の根源であろう。
次の瞬間、はっとさせられるのである。生きている私は、逆説的に言えば、情報交換が出来る死体ではないか。勿論、科学的に見て生体と死体には大きな差異がある。しかし、生体も死体も、肉体という物質において同じなのである。そこに横たわる死体は、動かない故にその物質性を強調するが、実は、その物質性をそのまま私も所有しているという事実に気付く。
心、魂、精神、霊魂・・。人間の非物質的側面は常に強調されてきた。物質的側面としての肉体に目が向くのは、怪我や病気の時などに、思い出したかのように見つめる感じだ。
普段は、全く意識しない。それでもいいように出来ているのもあるだろう。でも、そう出来ているからそのままで良し、ではおかしな事になりかねないとも思う。自己の肉体という物質性が希薄になれば、他者に対してもそのように見るだろう。結果、安易に自分も他者も傷付けてしまうかもしれない。社会としても、情報として見えてくる結果だけが尊重されるようになる。
精神面からの自分や他者は、強く意識せずとも考えられるものだ。人は皆、気付けば思考しているのだから。しかし、物としての自己、つまり自分の肉体については努力しなければ知ることが出来ない。実際、それを客観的に見つめるのに人類は長い時間を掛けた。それが解剖学だ。それでもまだ完全ではないが、自己の肉体性を感じ取るのには十分の情報を人類は既に得ていると思う。
自分という今の存在は、書物に書かれた情報ではない。肉体がなければ、思考も精神もない。ブログで自己の永遠性を刻んでも、肉体は刻々と変化し終焉へ向かっている。実は全て、肉体という物から発しているのである。
私たちは物だ。そう改めて思いつつ街行く人を見ると、一人一人の質量がずしりと感じられるようで。
2010年4月15日木曜日
解剖実習
私がお世話になっている学校では、学部生の解剖実習が始まっている。医学を志す生徒たちが初めて人体の内部に直接触れる貴重な授業である。その主要な意義としては、人体の内部構造の立体的、系統的な認識を深めるということがあるが、それと同等かそれ以上の本質的な意義として、人が人を切って勉強するという特殊な経験を通した、倫理的教育の側面がある。
我が国での、解剖実習で用いられるご遺体は、ほぼ全てが献体でまかなわれている。その字(”献血”のように)が表すように、それらは献体者(生前では篤志家と言う)の遺志に寄っているのである。つまり、生前に「私が死んだら、体を医学教育のために使って下さい」と意思表明をされていた方々の亡骸である。そのことだけでも尊いが、彼らにも親族や知人などがおられる訳だから、当人が亡くなった後では、その周囲の身近な方々の理解をも巻き込んでいるのである。また、この一連の行為が滞りなくおこなわれるようになった歴史的背景も、誰かお偉いさんが突然作り上げたものなどではなくて、篤志家主体として興ったものであり、まさに献体制度そのものが、医学と民間との間の絆として生まれた尊いものと言える。
解剖実習に先立っては、上記のような経緯も説明され、どこかから拾ってきた類のものとは全く違うということが強調される。或物事の価値とは文脈から理解されるものであるから、このような導入は非常に重要である。
そして、上記の倫理的側面の他に、学問としての解剖学の歴史も、先立つ講義で説明される。医学部の講義や実習としての解剖学は教育的側面が大きいが、それは解剖学という学問に根ざしている。そして、授業とはいえ体表から深部まで解剖し、見るという行為の方法論はその歴史の上に乗っているとも言えるのである。実際、そこまで意識は出来ない(特に学生の時分は)かもしれないが、解剖学の存在を語るならば外すことの出来ない事柄であることは間違いない。
体の構造を見るときに、その部位がどのようにして出来てきたのかという見方をすることがある。個体発生(つまり成長過程)や系統発生(進化過程)を部分的に取り込むことで完成している体では理解しにくい構造が理解しやすくなるのだ。
体のつくりも、解剖学という学問も、解剖実習という授業も、ポンとただそれを置いただけでは真意は見えにくいが、それがそこに在るまでの流れを意識することで、大切なものが明快になる。
解剖学を担当する講師陣は、普段はそれぞれに研究領域を持っているのが、この実習期間になると、一堂に会して同じ方向を向く。それは、紛れもなく「より良い解剖学実習」という方向であって、その熱意と労力に多大なものを感じる。実習期間は3ヶ月に及び、ほぼ毎日午後から夕方、遅い時は夜まで続く。その間、教授以下講師陣は生徒に付きっきりである。それでも以前はもっと時間を掛けていたものが、全体の教育内容が増えるに従って、実習期間は短くなる傾向にあるそうだ。そういった問題は、どこの大学にもあるのだという。
ご遺体に初めて触れる直前の学生たちの顔は、緊張と好奇心とで高揚して見えた。
我が国での、解剖実習で用いられるご遺体は、ほぼ全てが献体でまかなわれている。その字(”献血”のように)が表すように、それらは献体者(生前では篤志家と言う)の遺志に寄っているのである。つまり、生前に「私が死んだら、体を医学教育のために使って下さい」と意思表明をされていた方々の亡骸である。そのことだけでも尊いが、彼らにも親族や知人などがおられる訳だから、当人が亡くなった後では、その周囲の身近な方々の理解をも巻き込んでいるのである。また、この一連の行為が滞りなくおこなわれるようになった歴史的背景も、誰かお偉いさんが突然作り上げたものなどではなくて、篤志家主体として興ったものであり、まさに献体制度そのものが、医学と民間との間の絆として生まれた尊いものと言える。
解剖実習に先立っては、上記のような経緯も説明され、どこかから拾ってきた類のものとは全く違うということが強調される。或物事の価値とは文脈から理解されるものであるから、このような導入は非常に重要である。
そして、上記の倫理的側面の他に、学問としての解剖学の歴史も、先立つ講義で説明される。医学部の講義や実習としての解剖学は教育的側面が大きいが、それは解剖学という学問に根ざしている。そして、授業とはいえ体表から深部まで解剖し、見るという行為の方法論はその歴史の上に乗っているとも言えるのである。実際、そこまで意識は出来ない(特に学生の時分は)かもしれないが、解剖学の存在を語るならば外すことの出来ない事柄であることは間違いない。
体の構造を見るときに、その部位がどのようにして出来てきたのかという見方をすることがある。個体発生(つまり成長過程)や系統発生(進化過程)を部分的に取り込むことで完成している体では理解しにくい構造が理解しやすくなるのだ。
体のつくりも、解剖学という学問も、解剖実習という授業も、ポンとただそれを置いただけでは真意は見えにくいが、それがそこに在るまでの流れを意識することで、大切なものが明快になる。
解剖学を担当する講師陣は、普段はそれぞれに研究領域を持っているのが、この実習期間になると、一堂に会して同じ方向を向く。それは、紛れもなく「より良い解剖学実習」という方向であって、その熱意と労力に多大なものを感じる。実習期間は3ヶ月に及び、ほぼ毎日午後から夕方、遅い時は夜まで続く。その間、教授以下講師陣は生徒に付きっきりである。それでも以前はもっと時間を掛けていたものが、全体の教育内容が増えるに従って、実習期間は短くなる傾向にあるそうだ。そういった問題は、どこの大学にもあるのだという。
ご遺体に初めて触れる直前の学生たちの顔は、緊張と好奇心とで高揚して見えた。
2010年4月5日月曜日
彫刻"理想"論
彫刻家は、形の意味を探ろうとする本能が無ければ嘘だ。
ただ惰性で土を捏ね、木や石を削るくらいならやらない方がまだ良い。
映画において、映し出されるシーンの全てに意味があるように、彫刻における量や面も全て意味がなければならない。
そして、それは彫刻的に正しくなければ意味がない。
記号として表すくらいならば、記号を書けば良い。
彫刻家は、彫刻を作らなければならない。
彫刻家は、形、形、形が全てだ。
形がおろそかで済ませられる彫刻家など、信じることが出来ない。
岩の形、雲の形、水流の形、そして己自身の形・・全ての形に意味がある。
石ころを見て、その生い立ちを想像することだ。
川の波の形を捉えてみることだ。
人の形が複雑なのは当然だ。35億年の形態変化の末なのだから。
ただ惰性で土を捏ね、木や石を削るくらいならやらない方がまだ良い。
映画において、映し出されるシーンの全てに意味があるように、彫刻における量や面も全て意味がなければならない。
そして、それは彫刻的に正しくなければ意味がない。
記号として表すくらいならば、記号を書けば良い。
彫刻家は、彫刻を作らなければならない。
彫刻家は、形、形、形が全てだ。
形がおろそかで済ませられる彫刻家など、信じることが出来ない。
岩の形、雲の形、水流の形、そして己自身の形・・全ての形に意味がある。
石ころを見て、その生い立ちを想像することだ。
川の波の形を捉えてみることだ。
人の形が複雑なのは当然だ。35億年の形態変化の末なのだから。
2010年3月25日木曜日
対象の見方 芸術の方法論
彫刻は形状を扱う芸術であり、それに関わる彫刻家は必然的に形状に敏感になる。しかし、その敏感の矛先がどちらを向くのかで、同じ対象であっても捉え方は変わってくる。だから、同じリンゴをモチーフとして見ても、作家によって出来てくる作品は違う物になる。その一方で、ある程度の「見方の方法論」というものもある。リンゴなら球に還元してみるとか、そういう類のもので、技術論である。短期間で効率的に技能を習得させたい美術予備校やカルチャースクールなどで好まれる。と言うより”教える”となると、そういうことを言うしかない。
自身の経験から見て、それらは時に表面的である。と言うのは、リンゴを球に見立てたり、人間を面で大まかに分割した紙人形のように見立てて捉え直すという手法は、純粋にその対象の表面しか考えておらず、その形状がなぜ(つまり必然的に)その形状を成しているのかというところまでは決して降りて行こうとしていないからだ。
興味深いことに、これらの対象の捉え方は、3次元CGの世界でも有効的に用いられている。3DCGの世界の住人は、言わば点の集まりで出来ていて(私たちが細胞という点の集まりであるように)、彼らを包括しているコンピューターは、彼らがどこにいるのかをその点全ての位置情報から割り出している。言ってみれば、私たちの細胞全てがGPSを持って常に人工衛星と通信しているようなものだ。点一つづつに計算処理時間が掛かるわけだから、点が多い(つまり、絵が細かい)と、その処理量は膨大なものになる。そういった技術的な理由もあって、3DCGの世界の住人は基本的に”皮しかない”。 もっと言えば、彼らの正面を見ている時は、実はその背中さえないのである。 目に見えない皮膚の内側や背中などあっても無駄なのだから。更に、遠方にいて点のようにしか見えない時、彼らは実際に”点になっている”。遠ざかるにつれ、体を構成する点の数を減らして行く(面が粗くなる)のである。
CGの世界では、計算処理を軽くするという、効率化のために対象の表面しか考えないのである。ここでは、見えないものは実際に無くなるのだ。
美術予備校で教わる、対象の単純化という技法も同じことだ。実際、それらのやり方は効果的で、闇雲に眺めていたのでは見つけられない構造の規則性などを見つけることも出来る。
リンゴでも、球に還元したり、面で分けたり、立方体に押し込んだり、色や光沢で分けたりと、様々に単純化して見直すことが出来る。しかしながら、ふと疑問に思うのは、それらが全て表面性しか追っていないということだ。まるでCGのように。
芸術の目的は技術の向上ではない。しかしながら、技術がなければ表現の質も下がる。そういう理由から、初歩段階である予備校などではまず技術を習得させることになる。事実、美大の受験で見るのも技術力である。だから、そこに合格するのは単に技術力があるに過ぎず、芸術家に必須の感性云々は実は全く問われていない。”芸術”大学の矛盾をここに見る。それでも、日本では「写真のように描く=絵が上手=芸術的才能がある」というセオリーが根強いので、全体が無難に回っている。
上記したような、対象を表面でしか見ないで満足してしまう癖も、そういう背景があるからなのかもしれない。
想像して欲しいのだが、もし、リンゴを生まれて初めて見てそれを描くのと、味も重さも切った感じも、木になるということも知っているリンゴを描くのとで、同じリンゴが描かれるだろうか?
私たちは、コンピューターのようにメモリーを節約しなければリンゴや人体を描けないほど貧弱な脳を持っているのではない。入力から出力までの経路もPCのように単純ではないのだ。そして、芸術の旨味とは、正にこの単純ではない部分から生み出されるのだろう。
美術を習おうとすると用意される「表面的に捉える技法」の数々。それらは、一見甘い蜜である。それに従えば技術は速やかに向上するのだから。それを否定は出来ない。疑問なのは、”それしかない”ことだ。そうやって形が捉えられればそれで終わりでは、CGと同じであり、その正確さで競うならCGに敵うはずもない。勿論、それが目的であるはずもない。
人を対象とする時、人の形について問う。そのような姿勢もまた必要なのではないだろうか。目の前に見えている物だけを機械的に移すのでなく、その存在理由や、隠されている構造まで思いを巡らすことで、確実に見え方も変化し、出来てくる作品にも影響を与えるだろう。また、それこそが、機械には出来ない、人間的行為なのだから。
そう考えるとき、解剖学や発生学など、一見、芸術と関係の無いように見える領域が、にわかに芸術を向上させうる強力な知的支えとして見えてくる。
日本では、美術解剖学という独立した概念があるが、多くの人にとってそれは、単に骨や筋の位置や名称を指し示してくれる地図のようにしか思われていない。故にアカデミックの象徴のように揶揄され、自由な表現の妨げにさえなるとして敬遠される節もあった。
しかし、解剖学の醍醐味は名称や構造を暗記するというような安易なものでは決して無く、それらの情報が指し示す私たち自身の存在に対する様々な投げかけこそにあるのだ。
そういった、知識による咀嚼は、あたかもリンゴを囓ってみることに似ている。眺めていただけでは決して分からない味わいが、次からそれを眺めるときには思い出されるのである。
かつて、レオナルドが一枚の絵を描くために、なぜ解剖をし、物理の研究をしたのか。単に、分離した興味が並列的にあったというはずがない。そもそも、彼にとって絵は答えではなかったろう。それは、確認に過ぎなかったのではないか。自分と、それを包括している世界の存在という問題に対しての。
だとするなら、それは芸術に対峙する正しい方法論であって、現代の私たちもそれを参考にすることができるはずだ。
自身の経験から見て、それらは時に表面的である。と言うのは、リンゴを球に見立てたり、人間を面で大まかに分割した紙人形のように見立てて捉え直すという手法は、純粋にその対象の表面しか考えておらず、その形状がなぜ(つまり必然的に)その形状を成しているのかというところまでは決して降りて行こうとしていないからだ。
興味深いことに、これらの対象の捉え方は、3次元CGの世界でも有効的に用いられている。3DCGの世界の住人は、言わば点の集まりで出来ていて(私たちが細胞という点の集まりであるように)、彼らを包括しているコンピューターは、彼らがどこにいるのかをその点全ての位置情報から割り出している。言ってみれば、私たちの細胞全てがGPSを持って常に人工衛星と通信しているようなものだ。点一つづつに計算処理時間が掛かるわけだから、点が多い(つまり、絵が細かい)と、その処理量は膨大なものになる。そういった技術的な理由もあって、3DCGの世界の住人は基本的に”皮しかない”。 もっと言えば、彼らの正面を見ている時は、実はその背中さえないのである。 目に見えない皮膚の内側や背中などあっても無駄なのだから。更に、遠方にいて点のようにしか見えない時、彼らは実際に”点になっている”。遠ざかるにつれ、体を構成する点の数を減らして行く(面が粗くなる)のである。
CGの世界では、計算処理を軽くするという、効率化のために対象の表面しか考えないのである。ここでは、見えないものは実際に無くなるのだ。
美術予備校で教わる、対象の単純化という技法も同じことだ。実際、それらのやり方は効果的で、闇雲に眺めていたのでは見つけられない構造の規則性などを見つけることも出来る。
リンゴでも、球に還元したり、面で分けたり、立方体に押し込んだり、色や光沢で分けたりと、様々に単純化して見直すことが出来る。しかしながら、ふと疑問に思うのは、それらが全て表面性しか追っていないということだ。まるでCGのように。
芸術の目的は技術の向上ではない。しかしながら、技術がなければ表現の質も下がる。そういう理由から、初歩段階である予備校などではまず技術を習得させることになる。事実、美大の受験で見るのも技術力である。だから、そこに合格するのは単に技術力があるに過ぎず、芸術家に必須の感性云々は実は全く問われていない。”芸術”大学の矛盾をここに見る。それでも、日本では「写真のように描く=絵が上手=芸術的才能がある」というセオリーが根強いので、全体が無難に回っている。
上記したような、対象を表面でしか見ないで満足してしまう癖も、そういう背景があるからなのかもしれない。
想像して欲しいのだが、もし、リンゴを生まれて初めて見てそれを描くのと、味も重さも切った感じも、木になるということも知っているリンゴを描くのとで、同じリンゴが描かれるだろうか?
私たちは、コンピューターのようにメモリーを節約しなければリンゴや人体を描けないほど貧弱な脳を持っているのではない。入力から出力までの経路もPCのように単純ではないのだ。そして、芸術の旨味とは、正にこの単純ではない部分から生み出されるのだろう。
美術を習おうとすると用意される「表面的に捉える技法」の数々。それらは、一見甘い蜜である。それに従えば技術は速やかに向上するのだから。それを否定は出来ない。疑問なのは、”それしかない”ことだ。そうやって形が捉えられればそれで終わりでは、CGと同じであり、その正確さで競うならCGに敵うはずもない。勿論、それが目的であるはずもない。
人を対象とする時、人の形について問う。そのような姿勢もまた必要なのではないだろうか。目の前に見えている物だけを機械的に移すのでなく、その存在理由や、隠されている構造まで思いを巡らすことで、確実に見え方も変化し、出来てくる作品にも影響を与えるだろう。また、それこそが、機械には出来ない、人間的行為なのだから。
そう考えるとき、解剖学や発生学など、一見、芸術と関係の無いように見える領域が、にわかに芸術を向上させうる強力な知的支えとして見えてくる。
日本では、美術解剖学という独立した概念があるが、多くの人にとってそれは、単に骨や筋の位置や名称を指し示してくれる地図のようにしか思われていない。故にアカデミックの象徴のように揶揄され、自由な表現の妨げにさえなるとして敬遠される節もあった。
しかし、解剖学の醍醐味は名称や構造を暗記するというような安易なものでは決して無く、それらの情報が指し示す私たち自身の存在に対する様々な投げかけこそにあるのだ。
そういった、知識による咀嚼は、あたかもリンゴを囓ってみることに似ている。眺めていただけでは決して分からない味わいが、次からそれを眺めるときには思い出されるのである。
かつて、レオナルドが一枚の絵を描くために、なぜ解剖をし、物理の研究をしたのか。単に、分離した興味が並列的にあったというはずがない。そもそも、彼にとって絵は答えではなかったろう。それは、確認に過ぎなかったのではないか。自分と、それを包括している世界の存在という問題に対しての。
だとするなら、それは芸術に対峙する正しい方法論であって、現代の私たちもそれを参考にすることができるはずだ。
2010年3月4日木曜日
肉付きの面
お面。私たちにとても身近な物。古今東西、面のない文化など存在した試しがないだろう。私たちが、面と聞いて思い出すのは、縁日の子供用のお面や、能面、天狗や鬼など各地の祭りで用いられる面だ。子供から大人まで、人は面を付けたがる。
面の働きとは、何か。それは、変身に他ならない。ゴレンジャー系列の正義の味方は、変身後は必ず面被りである。能や祭りの鬼などは、”演じる”という意味での変身をしている。演じるための変身として自己の顔を覆うのを面と定義できるならば、歌舞伎の隈取りなども広義での面である。これには、女性の化粧も含まれてくるだろうか。外出時は、化粧顔という面を被らなければならないのだとすると、それは、イスラムの女性が顔をベールで覆っているのと実は本質的に同じではなかろうか・・。
人は常に、自分とは違う何かへの変身願望がある。しかし、もしその何かに変身できたとしたら、そこにはその何かとしての自己があるのだから、結局、堂々巡りになる。自分を変えたくて旅に出ても、結局自分からは逃げられないのと似ている。話がそれるが、美容整形はクセになるというのも、こんな心理から来ているのかもしれない。
それに対して、面による変身は、自己は不動の存在として残されている。面を付けている間だけが違う何かであって、面を外しさえすれば、いつでも元の自己に戻れる。これならば、変身による変化を、変身前の自己と客観的に比較することが出来るので、その差異を十分に堪能することが出来るのだ。
昔話で、「肉付きの面」というのがある。姑が嫁を威そうと鬼の面を付けたところ顔に付いてしまう。姑は困って改心して読経すると面は取れる。これは、外見だけが変身したが、本人の人格は変わっていない。これに対して、「マスク」というコメディ映画では、拾ったマスクを付けると人格まで変わってしまう。変身した後は言わば「他人」であり、元の自己はそれを制御できない。
インターネットでのコミュニケーションが盛んになると、オンライン上の自己表現の要求から、仮想の自己(アバター)が作られるようになった。これは、完全にオリジナルの自己を自由に設定出来ることにより、男女や年齢などの実世界とのギャップも生まれて、一時はトピックともなった。アバターは、本人は変化せずに変身するという点で、面と同様の働きをしている。
つまり、肉付きの面やアバターは変身が自分の外に向いているのに対して、映画「マスク」の変身は自分自身に向いている。
ヒトもかつては、全身を長い毛で覆われた動物だったが、いつしか、それを衣服に代替させるようになった。そして、全身で行っていた感情表現は、表情だけで行えるようになり、首から下の体はそれから解放された。私たちは今や、座ったままで笑い、泣き、怒れる。
そうして、人にとって顔は、その人の人格を表す「看板」となった。何よりもまず「顔」である。裸の女性がいて、男性がまず体のどこを見るかと言うと、顔だそうである。
このような「顔至上主義」故に、変身もまた顔だけを変えれば良く、そうして面が出来た。
顔の皮の下には、表情を作るのに必要な細かな筋が縦横に走っているが、これは、その他の体の筋と違う所がある。体の筋(骨格筋)は、骨と骨の間にあり、縮むことでその運動を引き起こすが、顔の筋は、骨から始まり顔の皮膚に終わっているのである。この筋の収縮による皮膚の引っ張りの組み合わせが表情を作っている。顔面筋と呼ばれるこの一群は、そもそもは顔に開いている穴(眼、鼻、口)をふさぐ働きとして登場した。それを人はコミュニケーションの道具としても利用しているので、これを表情筋とも呼ぶ。
この筋は、進化上ほ乳類になって発達したもので、それを示すようにあごを動かす筋とは別の神経で制御されている。この筋がない顔があるならそれは、目を閉じることも出来ず、裂けた口には歯が覗き、無表情で、ちょうど魚の様であろう。
つまり、私たちは太古のおもかげが宿る原始的な頭部に、「人間の顔」という肉付きの面「顔面」を付けているのである。
これは、映画「マスク」の面と同様に付けるとその面の人格になってしまうようで、私たちは人間である前に動物であることを忘れがちである。それでも時折、この新しく手に入れた「顔面」の裏から、古き動物的表情が垣間見えることがある。
面の働きとは、何か。それは、変身に他ならない。ゴレンジャー系列の正義の味方は、変身後は必ず面被りである。能や祭りの鬼などは、”演じる”という意味での変身をしている。演じるための変身として自己の顔を覆うのを面と定義できるならば、歌舞伎の隈取りなども広義での面である。これには、女性の化粧も含まれてくるだろうか。外出時は、化粧顔という面を被らなければならないのだとすると、それは、イスラムの女性が顔をベールで覆っているのと実は本質的に同じではなかろうか・・。
人は常に、自分とは違う何かへの変身願望がある。しかし、もしその何かに変身できたとしたら、そこにはその何かとしての自己があるのだから、結局、堂々巡りになる。自分を変えたくて旅に出ても、結局自分からは逃げられないのと似ている。話がそれるが、美容整形はクセになるというのも、こんな心理から来ているのかもしれない。
それに対して、面による変身は、自己は不動の存在として残されている。面を付けている間だけが違う何かであって、面を外しさえすれば、いつでも元の自己に戻れる。これならば、変身による変化を、変身前の自己と客観的に比較することが出来るので、その差異を十分に堪能することが出来るのだ。
昔話で、「肉付きの面」というのがある。姑が嫁を威そうと鬼の面を付けたところ顔に付いてしまう。姑は困って改心して読経すると面は取れる。これは、外見だけが変身したが、本人の人格は変わっていない。これに対して、「マスク」というコメディ映画では、拾ったマスクを付けると人格まで変わってしまう。変身した後は言わば「他人」であり、元の自己はそれを制御できない。
インターネットでのコミュニケーションが盛んになると、オンライン上の自己表現の要求から、仮想の自己(アバター)が作られるようになった。これは、完全にオリジナルの自己を自由に設定出来ることにより、男女や年齢などの実世界とのギャップも生まれて、一時はトピックともなった。アバターは、本人は変化せずに変身するという点で、面と同様の働きをしている。
つまり、肉付きの面やアバターは変身が自分の外に向いているのに対して、映画「マスク」の変身は自分自身に向いている。
ヒトもかつては、全身を長い毛で覆われた動物だったが、いつしか、それを衣服に代替させるようになった。そして、全身で行っていた感情表現は、表情だけで行えるようになり、首から下の体はそれから解放された。私たちは今や、座ったままで笑い、泣き、怒れる。
そうして、人にとって顔は、その人の人格を表す「看板」となった。何よりもまず「顔」である。裸の女性がいて、男性がまず体のどこを見るかと言うと、顔だそうである。
このような「顔至上主義」故に、変身もまた顔だけを変えれば良く、そうして面が出来た。
顔の皮の下には、表情を作るのに必要な細かな筋が縦横に走っているが、これは、その他の体の筋と違う所がある。体の筋(骨格筋)は、骨と骨の間にあり、縮むことでその運動を引き起こすが、顔の筋は、骨から始まり顔の皮膚に終わっているのである。この筋の収縮による皮膚の引っ張りの組み合わせが表情を作っている。顔面筋と呼ばれるこの一群は、そもそもは顔に開いている穴(眼、鼻、口)をふさぐ働きとして登場した。それを人はコミュニケーションの道具としても利用しているので、これを表情筋とも呼ぶ。
この筋は、進化上ほ乳類になって発達したもので、それを示すようにあごを動かす筋とは別の神経で制御されている。この筋がない顔があるならそれは、目を閉じることも出来ず、裂けた口には歯が覗き、無表情で、ちょうど魚の様であろう。
つまり、私たちは太古のおもかげが宿る原始的な頭部に、「人間の顔」という肉付きの面「顔面」を付けているのである。
これは、映画「マスク」の面と同様に付けるとその面の人格になってしまうようで、私たちは人間である前に動物であることを忘れがちである。それでも時折、この新しく手に入れた「顔面」の裏から、古き動物的表情が垣間見えることがある。
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