お面。私たちにとても身近な物。古今東西、面のない文化など存在した試しがないだろう。私たちが、面と聞いて思い出すのは、縁日の子供用のお面や、能面、天狗や鬼など各地の祭りで用いられる面だ。子供から大人まで、人は面を付けたがる。
面の働きとは、何か。それは、変身に他ならない。ゴレンジャー系列の正義の味方は、変身後は必ず面被りである。能や祭りの鬼などは、”演じる”という意味での変身をしている。演じるための変身として自己の顔を覆うのを面と定義できるならば、歌舞伎の隈取りなども広義での面である。これには、女性の化粧も含まれてくるだろうか。外出時は、化粧顔という面を被らなければならないのだとすると、それは、イスラムの女性が顔をベールで覆っているのと実は本質的に同じではなかろうか・・。
人は常に、自分とは違う何かへの変身願望がある。しかし、もしその何かに変身できたとしたら、そこにはその何かとしての自己があるのだから、結局、堂々巡りになる。自分を変えたくて旅に出ても、結局自分からは逃げられないのと似ている。話がそれるが、美容整形はクセになるというのも、こんな心理から来ているのかもしれない。
それに対して、面による変身は、自己は不動の存在として残されている。面を付けている間だけが違う何かであって、面を外しさえすれば、いつでも元の自己に戻れる。これならば、変身による変化を、変身前の自己と客観的に比較することが出来るので、その差異を十分に堪能することが出来るのだ。
昔話で、「肉付きの面」というのがある。姑が嫁を威そうと鬼の面を付けたところ顔に付いてしまう。姑は困って改心して読経すると面は取れる。これは、外見だけが変身したが、本人の人格は変わっていない。これに対して、「マスク」というコメディ映画では、拾ったマスクを付けると人格まで変わってしまう。変身した後は言わば「他人」であり、元の自己はそれを制御できない。
インターネットでのコミュニケーションが盛んになると、オンライン上の自己表現の要求から、仮想の自己(アバター)が作られるようになった。これは、完全にオリジナルの自己を自由に設定出来ることにより、男女や年齢などの実世界とのギャップも生まれて、一時はトピックともなった。アバターは、本人は変化せずに変身するという点で、面と同様の働きをしている。
つまり、肉付きの面やアバターは変身が自分の外に向いているのに対して、映画「マスク」の変身は自分自身に向いている。
ヒトもかつては、全身を長い毛で覆われた動物だったが、いつしか、それを衣服に代替させるようになった。そして、全身で行っていた感情表現は、表情だけで行えるようになり、首から下の体はそれから解放された。私たちは今や、座ったままで笑い、泣き、怒れる。
そうして、人にとって顔は、その人の人格を表す「看板」となった。何よりもまず「顔」である。裸の女性がいて、男性がまず体のどこを見るかと言うと、顔だそうである。
このような「顔至上主義」故に、変身もまた顔だけを変えれば良く、そうして面が出来た。
顔の皮の下には、表情を作るのに必要な細かな筋が縦横に走っているが、これは、その他の体の筋と違う所がある。体の筋(骨格筋)は、骨と骨の間にあり、縮むことでその運動を引き起こすが、顔の筋は、骨から始まり顔の皮膚に終わっているのである。この筋の収縮による皮膚の引っ張りの組み合わせが表情を作っている。顔面筋と呼ばれるこの一群は、そもそもは顔に開いている穴(眼、鼻、口)をふさぐ働きとして登場した。それを人はコミュニケーションの道具としても利用しているので、これを表情筋とも呼ぶ。
この筋は、進化上ほ乳類になって発達したもので、それを示すようにあごを動かす筋とは別の神経で制御されている。この筋がない顔があるならそれは、目を閉じることも出来ず、裂けた口には歯が覗き、無表情で、ちょうど魚の様であろう。
つまり、私たちは太古のおもかげが宿る原始的な頭部に、「人間の顔」という肉付きの面「顔面」を付けているのである。
これは、映画「マスク」の面と同様に付けるとその面の人格になってしまうようで、私たちは人間である前に動物であることを忘れがちである。それでも時折、この新しく手に入れた「顔面」の裏から、古き動物的表情が垣間見えることがある。
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