2015年2月4日水曜日

告知 トークセッション「ヒトのカタチ、彫刻」

 来る2月15日(日)に、静岡市美術館にてトークセッション「ヒトのカタチ、彫刻」が催され、私も登壇いたします。

 これは同美術館にて現在開催中の「ヒトのカタチ、彫刻」展のカタログ刊行記念として開催されるものです。同展覧会は、彫刻家の津田氏、藤原氏、青木氏の人体をモチーフとした彫刻が展覧されています。トークセッションでは、作家、学芸員、美術史研究者金井直氏と私で、人体と彫刻にまつわるあれこれを語るのです!楽しそう!

 私は解剖学的視点から見た人体と彫刻との接点などお話できればと考えています。我を忘れて喋りすぎないように気をつけつつ・・。

 是非、素晴らしい作品をご覧頂いて、またトークセッションにもご参加頂ければと思っております。

[日  時]
2015年2月15日(日) 
14:00-16:30 (開場13:30)

[登 壇 者]
・金井 直(信州大学人文学部 准教授)
・阿久津裕彦(美術解剖学)
・津田亜紀子(本展出品作家)欠席
・藤原彩人(本展出品作家)
・青木千絵(本展出品作家)

[参加料等]
無料・申込不要
(当日直接会場にお越しください)



2015年1月5日月曜日

対等を主張する医師

 父の股関節骨折で、2014年の大晦日に病院で医師から手術と患者対応について説明を受けた。医師はマスクをしているが年齢は30歳ほどだと思う。ぼそぼそと余りはっきりしない話し方が気になったが静かな個室で耳が慣れれば問題ない。話し方はひたすら淡々としている。何度も話した内容で自然と口を突いて出てきているといった印象。基本的に母の目を見て話していた。事務的とも思える内容にはなんら不満もないが、ひとつ聞いていて引っかかったことがあるので記しておく。

 それは、術後に起こりうる不慮の事態への対応についての説明をしているとき。望んでいた想定の結果にならず患者家族と医師との間でトラブルが起こることがあるが、その原因はまず両者のコミュニケーション不足にあると彼は断言する。それは同意するが、同時にどう見てもこの対話さえ面倒そうにしているこの若い医師の言葉に似つかわしくないとも感じた。すると次にこう続けた。とは言え、私たちは非常に忙しいのも現実だと。その後は出勤サイクルの具体的な日にちや、夜勤もあるといったような実例を出しながら、休み無く働いている自分をアピールする。土日も勤務があると。なので、患者家族が休みであろう週末に私を呼び出されても困るという主張へ進む。そして、「私は医師と患者家族とは対等で無ければならないと考えています。」と言い、患者家族が休日で自由な時間に面談を設定されるのはフェアーではないので、それは認められません。私が忙しい合間に面談時間を割くのなら、あなたがたも仕事や家事の合間を削ってその時間を作って下さいと、そういうことをしばしの時間を割いて述べた。淡々と事務的なやりとりの中にあって、この時だけが、彼の感情に基づいた主張であった。もちろん私と母はずっと聞いているだけで、この前に休日に面談したいとかは申していない。そう言われるまえに釘を刺した、そんな物言いだった。

 私はこの主張が引っかかっていた。「医者と患者家族は対等な関係であるべき」という前提。これ自体がまず矛盾している。治療する側とされる側、施す側と与えられる側、そこに対等な関係は成り立たない。我々患者は彼らに与えていない。いや、患者が居ることで彼らの生活が成り立つ事実に立てばそれは言えるだろうが、医術の信念上それを言うことはない。患者がいることであなたは医者でいられると我々が言ったとして、彼はそれを納得するのだろうか。しかし、対等とはそのことだ。だが、彼が言うところの根拠はそのことではないだろう。彼の物言いにはどこか、自分たちが患者側よりむしろ下に置かれていると感じるところからくる主張に聞こえるからだ。確かに現代は患者側の立場が尊重され、患者の処遇や対応について病院や医師側が逆境に立たされるような事例を聞くこともある。だがそれは、患者側が医者より高い立場になったからではない。むしろ、患者側がそのように医者に意見できるようになったことは対等な関係性に近づいているということだ。医者は患者を救うために高い知識と技術を要求される。助けられる患者はそれへの対価として何を医者に与えられるのか。それが社会的地位であり高い報酬である。我々は社会保障や治療費によってそれを払っている。医療という行為に対する平等性はこのようにして成り立っているはずだ。もちろん常に流動しているだろうが。だから、”医師より患者が条件が良い”と彼が感じるのは正しくない。条件は同じである。
 更に、自分が忙しいのだから患者家族が余裕のあるときに予定を組むことがアンフェアだと言う主張もおかしいのだ。なぜなら、この医師の忙しい日々は日常だが、患者家族にとって病院へ赴く日々は非日常だからである。非日常を医師に合わせて日常に変えることは不可能である。しかし、日常の隙間に非日常の予定を組むことは可能である。だから、彼が対等関係を主張するのなら、結局の所、日常を生きている彼が患者側に合わせることにならざるを得ない。

 つまり、社会的な立場においては我々は既に対等であるし、日常を過ごすことにおける対等性は医師側が歩み寄るしかない。既に非日常にある患者が医師の都合に合わせろと言うのは、全く彼の言う主張の真逆を私たちに要求している事になるのである。
 そのことこそが、彼が持論を開帳したときに私が感じた違和感の根源であった。

 2015年1月5日記す。







2014年12月10日水曜日

在宅ホスピス番組を見て(2014年12月記す)

 末期癌患者が自宅で最後を迎えるのをサポートする専門医の活躍を伝えるテレビ番組内で、多くの患者が担当してから1ヶ月足らずで亡くなるところを5年間生存している患者がいて、その人が亡くなるまでが映し出された。

 70代男性で頭髪もなくかなりやせ細っている。ほとんど寝たきりだが意識はある。元気な頃に姉と建てた家で、老いた姉が面倒を見ている。男性は痩せているが肌はきれいで、骨格も整っていて、変な言い方だが美しさのようなものを感じた。姉がひとりで介護してきたが、自身の老化も進み、体力的に厳しくなってきていた。「なかなか迎えが来ない」とインタビューに応じていた。今年の夏に男性は亡くなったのだが、その前日に体調が厳しくなって専門医が駆けつける。といっても、それを治そうとするわけではない。ベッドで顎をあげて虚空を見つめ荒い呼吸をしている男性にかけた言葉は「よく頑張ったね。もう頑張らなくて良いんだよ。」。うつろな目が一瞬意識を取り戻し、荒い呼吸の中で視線が医師の顔を探していた。

 この男性は5年前に”もう手の施しようがない。いつ死んでもおかしくない”というような診断が下されていた。本当ならその数ヶ月以内に死ぬと読んでいたのだろう。それが5年も持った。それで、本人も家族もこの5年間まだ死なない、いつ死ぬのかと思い続ける。この男性の最後の5年間とは何だったのか。「あなたはもう死にます」と言われたことで、その後はもはや死を待つだけの人生となる。すっかり死ぬ気になっている意識と、死んでたまるかという身体が、そこでは乖離している。死の前日、うつろな目で呼吸が乱れている男性に「頑張らなくて良い」と声がけする医師。しかし、がんばっているのは男性の意識ではなく無意識の身体なのだ。

 男性はしかし最後まで幸せではあった。家族や周囲に面倒を見て貰えた。ひとり残された老いた姉はこれからどうなるのか。テレビでは追わないそこも気になった。どう死ぬかとどう生きるかは同じ道の上にある。

2014年12月9日火曜日

「パッコロリン」の寂しさ


 NHKのEテレ幼児向け番組「おかあさんといっしょ」の最後に、「パッコロリン」というショートストーリーアニメがある。丸、三角、四角の頭の形をした幼児がキャラクターで、一番下が2歳くらい、次が3〜4歳、上が5歳くらいか。いつも一緒でほのぼの物語がごく短い時間に流れるのだが、大人が観ると何か寂しさを感じる。それは、そこに親の存在感が全く欠けているからだ。例えば、夜の就寝時でも3人だけ。ケーキを食べていても3人だけ。いつも楽しそうな3人だが、人間であれば本来そこに必ず居るであろう親が全く出てこないし、その気配さえ描かれない。親がいないのに、3人にとってはそれが当然、つまりそもそも親という存在さえ知らないかのように映る。もちろん、制作側は単純に子供向けの短編作品の要素を絞り込んだだけのことなのだろう。しかし、描かれているキャラクターとその物語は明らかに”人間界の幼児風”なので、見る側の私はどうしても親の不在に違和感を感じてしまう。

 しかし、彼らをよく見ると頭から触覚が出ている。どうやら彼らは人間ではなく虫だ。虫は親不在で卵から孵る。そうであれば描かれているとおり、彼らは親の存在を知らずその事を寂しいとも思わない。近い時間に近くで卵から孵った3匹が兄弟として一時を一緒に過ごしている。キャラクターが虫であることで、3匹だけの登場人物に説得力を持たせられる。

 彼らが虫だと仮定してもなお、哺乳類である私たちがそれを観る限り、けっきょく親不在で3人の幼児が屈託なく楽しそうにしている様には健気さと同時に寂しさを感じてしまうのだ。

2014年11月25日火曜日

歯のゾンビ

 歯科医で歯の1本を神経治療した。神経治療とはつまり「神経を抜く」というものだ。

 歯は硬くて白いので、骨が外に出ていると思われていることがあるが、もちろんそうではない。健康な状態で骨が体の外に見えることはない。歯は、そのできかたや歴史から見れば、むしろ皮膚に近い。サメのざらざらした皮膚を鮫肌と言うが、あのざらざらの1つ1つを拡大してみると表面はエナメル質でその内側に象牙質がある。その構造は私たちの歯と同じだ。だから、歯は大昔に体を保護していた硬い皮膚が口の中に入り込んでそのまま居座ったなれの果てとも言える。皮膚は盛んに新しいものができて古いものが剥がれ落ちるが、サメの歯も常に生え替わり続けている。そういえば私たちも幼少時に一度だけ生え替わる。

 そう考えたところで、歯1本の神経を抜くことの意味が軽くなるものでもない。顎の骨に刺さっていながら1本の歯は神経を切断された。神経を抜かれた歯はもはや感覚を伝えることもないし、その先に生きていた細胞たちの命も絶たれる。つまり、この歯は顎にありながらもはや生きていないのだ。死してなお、咀嚼の仕事をさせられる。言わば歯のゾンビだ。口の中のゾンビ・・おぞましい響きだが、思い返せば私たちの皮膚表面の角質層も細胞の死体たちである。死んだ細胞が何層にも重なり合うことで、皮膚は摩擦などに対抗している。そもそも死んでいるから引っかかれて多少剥がれてもさして問題ではない。

 人はみな細胞のゾンビをまとって生きている。私は口の中に1体ゾンビが増えたわけだ。