2018年2月5日月曜日

名作のポーズを男性モデルに取らせて

 カルチャーセンターで先週末、男性モデルに名作と同じポーズを取ってもらう試み。
 今回は、ミケランジェロ『反抗する奴隷』と『システィーナ礼拝堂天井画のアダム』、ロダン『アダム』、ダ・ヴィンチ『聖ヒエロニムス』、古代ローマ『ラオコーン』、パルテノン神殿ペディメント彫像『河の神』。バリエーションとして、立ち、座り、寝ポーズをそれぞれ2つずつという設定。

 『反抗する奴隷』は、体幹部つまり骨盤と胸郭の間での捻れがとても強いことが改めて分かる。彫像と同じ姿勢を生きたモデルで継続的に静止していることはできない。また、深く曲げた右脚の膝頭は左脚側へと向けられているが、このようにするとバランスが崩れて静止できない。安定させるには右膝頭は右側へと振り出さざるを得ない。それにしても、強い捻れに支配されているこの像は、骨盤正面から見ると身体の右側が上下に直線的に裁ち落とされていることが分かる。恐らく原石がそこまでしか無かったのだろう。つまり、この像は右膝頭を生きたモデルのように右側へと振り出すような姿勢には物理的にも不可能だったと考えられる。しかしもちろん、それが可能だったとしてもこの芸術家はそのポーズは選ばなかっただろう。像の身体を貫く捻れの動勢が乱れるからである。ところで、この像の肩から頭部までの動勢と造形は、ブルータス胸像とそっくりな事に今まで気付かなかった。

Adam ロダン『アダム』は、システィーナ礼拝堂天井画のアダムへのオマージュであることはその姿勢からも明らかだ。身体の全てが強い緊張と捻れで支配されており、生きたモデルでは厳しいだろうと思っていたが、ポーズ後にモデルに聞くと「私も厳しいと思ったが、意外と辛くなかった」との事。今回は拘れなかったが、像では足の指まで力がみなぎっている。左足の指などは全て強く曲げられ、『考える人』のそれを思い出させる。アダムの曲げられた右膝が左へと向けられているのは『反抗する奴隷』を彷彿とさせる。





 『聖ヒエロニムス』は、状態の良くない未完成画で、ヒエロニムスの体幹は影であることも重なって形態が明確では無い。左肩から地面へと続く布の襞が、光が当たったように白く、それが右脚と連動することで一見するとしゃがむように腰掛けているように見える。だが、目を凝らすと、尻の下に左足があることが分かる。つまり、彼は腰掛けているのでは無く、左膝を地面についているのだ。ヒエロニムスの頭部から、伸ばされた右腕の付け根辺りの描写は細部まで見える。そこで目立つのは、頚部から上腕の中部までの描写である。頚部には縦に走る広頚筋の襞が浮かび、口角を横に広げた表情と破綻無く連動している。また、鎖骨から上腕へピンと張った筋の束が浮き立っていて、これは大胸筋の鎖骨部である。モデルにポーズを取ってもらうと、静止した状態ではこの絵のように大胸筋鎖骨部は浮き立たなかった。そこで、この姿勢のまま、私が出した手を前へと押してもらうと、これが浮き立った。この筋束は、腕を前方へ振り出すような運動の際に強く働く。つまり、この絵の人物は右腕を強く振り出す運動をしている最中、もしくはその直前である。彼の手は何かを握っているので、それと関係しているのだろうか。そう思うと、ヒエロニムスの体は全体的に絵の右側へ傾いている。身体がその方向への運動を示唆しているのかもしれない。このポーズは一見楽に見えるが、横に伸ばした右肩の負担は相当なもので、モデルは頻繁に右腕を下に降ろして休ませなければならなかった。

 『ラオコーン』は、座って上体を反らしているだけではなく、胸郭は強く右へ旋回している。それでも、像ほどに胸部がせり出したようにはならなかった。像の胸郭左側面には小さな起伏が幾つも見える。それは縦に3列で、最も後列が前鋸筋で、残り2列は外腹斜筋とその深層の肋骨の起伏が重なったものである。とはいえ、その位置描写は誇張があって人体構造的に正確ではない。例えば、前鋸筋の肋骨付着位置は後ろ側に過ぎる。同様の違和感は膝にもあり、手足の描写も若干観点的である。一方で、肩に浮き立つ橈側皮静脈や脚に見える大伏在静脈などは確かにそのように見える位置にある。この像は、観念と写実表現が入り交じっている。像と同じように胸郭を右回旋しつつ反らせたまま固定し続けることは難しかった。像は左下から右上へと強い動勢が表されているがこれは静止ポーズではできない。像の男性は激しい動きの只中にある。

 システィーナ礼拝堂天井画の『アダム』は、寝ポーズのひとつとして取り上げたが、斜面に横たわっているので、モデルポーズの際にはビーチチェアーを用いた。折り曲げた左脚の膝と、そのすぐ上に来る左腕の位置関係は実際には不可能である。このフレスコ画の腹部は二次元的な歪みを持って曲げられており、構造的に見ようとすると不安を覚える描写である。ここが実際のモデルの姿勢とどれほど異なるのかが興味深いところであったが、実際には、全く異なるというものではなかった。ただ、自然にこの姿勢を取ってもらうと、画中の男性ほど胴体が横に曲がらない。意識して胸郭を左へ曲げてもらうと絵のような強い側方弯曲になった。伸ばした左腕は、膝との位置関係を合わせようとすると、画中のようなわずかな上向きにはならず、ほぼ水平位になる。その腕は膝に休ませるような姿勢を取ったが、画中のアダムはそうではないので、左腕と左膝との間には奥行き方向のずれがあると考えられる。なお男性器が右大腿部に乗っかっているが、実際にもこのようになった。

 パルテノン神殿彫像の『河の神』は素晴らしい像だが損壊しているので、復元像の姿勢をモデルには取ってもらった。左腕を地面について、頭部も左を向いている。この像はかつては神殿の屋根の下の横に伸びた三角形(ペディメント)の端の角に位置していたので、上下に窮屈な姿勢である。不思議なもので、復元姿勢よりトルソと化している現状の方がより彫刻的な魅力を増している。システィーナ礼拝堂天井画のアダムと同様に、モデルの自然なポーズではこの像のように胴体が横に曲がらない。あえて曲げてもらうと、右の肋骨弓の外側部が側腹部に食い込むようになり、そこの肉は溜まって深い溝が2条現れた。大理石像では、そのような溝は表されていない。正面性の強いポーズに見えるが、足側から見ても、十分空間的な豊かさを保持していた。ギリシア彫刻には、この胸郭に見られるように、「曲がるところ」と「歪むところ」が明確に区分されている。この時代は人体の解剖の記録が無いというが、その身体の捉え方は、現在とほとんど同様である。それはこの時代が先進的だったとも言えるし、芸術から分かる身体の捉え方は既にこの時代の見方で十分に満たされているのだとも言えるだろう。


 筋肉質の男性モデルでは、皮下の運動器の起伏を直接的に外見から追うことができる。それにしても、皮膚に覆われた内側で躍動する構造を、冷静に捉え、正確に破綻を来さないようにするだけでなく、芸術的な調和に中に再構築するところまで高めた古代ギリシアの表現には感嘆を新たにする。まったく、現代においては、そこに至る道筋を想像することも難しいほどだ。ただ1つ言えることは、知識と技術だけでは決してそこへたどり着かないと言うことである。それらが素晴らしい二頭の馬とするなら、それらを操る巧みな御者こそが必要なのだ。

2018年2月4日日曜日

作為の辺縁

 完全に真なる言葉など無いように、完全なる芸術も無い。

 仮にそれが完全であったとしても、受け取る側がそのように受け取れるとも限らない。
 完全であるか否かは主観であるなら、受け取る側の我々が完全で無い限り、完全などそもそも”感受しようが無い”。
 これが何を意味しているか。私たちがどれだけ自己を信じ切り、絶対的に正しいと思われる判断を下し、それが実現するように行動できたとしてもなお、それは他者によって批判されるという事である。
 私たちは須く不完全であり、同時に、自分の判断に自信を持っている。自信など持っていないと言ったとして、その言葉に自信があるではないか。そのような、不完全な者同士が互いを開示し合い意見を交わして、統一の見解に至ろうとするのは、波打つ海面に浮かびながら互いに差し出した棒の尖端を継ぎあわせて真っ直ぐな1本棒にしようと試みているかのようだ。

 不完全であっても、行動には自信の後押しがあり、その自信は私たちの日々の中で蓄積されたものである。だから、彼の言葉や行動の主題から外れる隅に、後押しの正体が姿を現す。それは、実に些細な瞬間や、小さな一言に過ぎない。しかしそれこそが、私たちの本性により近い。

 焦点の合う部位が真実とは限らない。むしろその周囲のぼやけて見えるところにそれは置かれている。

 つかみ所の無い心象は、言語によって合焦を得た。話し言葉はまだ良い。記述された言語となると、これはもはや高度に抽象化されているから、そこには相応の読み取り能力が要求される。しかし、それでもなお齟齬は免れないだろう。
 書き言葉と比べるなら、視覚芸術すなわち絵画や彫刻の方が時はより多くの情報を保持していると言える。つまり、言語よりはるかに正直である。

 さて、このように正直な芸術でさえも、いや正直であるからこそ、作家の見栄が表現の中に紛れ込む。見栄と言うと言葉が悪いが、つまりは人間性の素直な部分である。そして、全く作家にとっては皮肉であろうが、そう言った、彼が見つけて欲しくは無かったであろうところほど反って際だって見えるものだ。そして実は、このような言わば作為の辺縁こそがその作品を作り出す基盤を表しており、技術からこぼれ落ちた彼の感性の真実に近いものである。だから、作品が放つ作家の感性技量は作為の辺縁で判断されるのである。これが芸術が技術だけでは語ることができず、また、芸術家が職業たり得ない所以である。

2018年2月2日金曜日

展示と作品 卒展において

 表現文化についての会話の中である人が「日本人は全員が素人ですから」と言った。つまり、作る方も見る方も両方が”しろうと”だから本当に良いものがなかなか生まれないし評価されないという、歯がゆい現状をそう言い表したのだろう。その言葉を聞いたとき、先日観たばかりの芸大の卒展が思い出された。

 美術館を貸し切ったような会場を回っていると、いくつかの作品の前にメモ帳や芳名帳とペンが置いてある。時には自作の名刺も。ある作品ではその横に作者の学生が立ち、来場者にぺこぺことお辞儀をしていた。作品の前に置かれるそれらは言わば”展示不純物”であって、展示の質を著しく下げている。鑑賞に空間を必要とする立体作品では尚更である。卒展は純粋な展覧会と言うよりむしろ発表会としての意味合いが強いので構わないという事なのだろう。実際これは長い伝統なのだ。私の学生時代でも、「感想ノート」を作品前に置くことの是非の話題が出た記憶はない。なんとなく置きたい学生が置くという、それだけの”些細な行為”として考えていた。そこには、作品とは作られた物だから”それだけが重要なのであって”その前に置いてあるノートは作品には無影響である、という暗黙の前提がある。
 しかし、卒展を作家としての作品展示の始まりとしても意味があると言うのならば、”展示という行為”の質についても考慮する意味はあるだろう。芸術作品は作ったら終わりではなく、むしろ、展示という行為に全てが収束するのだから。
 
 作品を世に出す行為の最後にピントがずれてしまう。しかも、それでも良いと”作る方も見る方も”思ってしまう。その現状に歯がゆさを感じたことを、冒頭の彼の言葉から思い出したのだった。

2018年1月29日月曜日

今しかない存在

   私たちは時間が流れるものと信じているから、そして、大人は自分がかつて子供で、そこから成長して今があると感じているから、さらに、今朝目覚めて今日が始まったことを知っているから、明日も来ると決めつける。私たちは皆、自分は人生という流れの途中に位置していると感じている。加えて、いわゆる社会は大人たちが作ったと決めつけているから、子供たちは未完成の人間だと信じきっているので、子供たちにもそう接する。子ども達は、大人にはできない全てを受け入れるという能力によって、自らを未完成だと信じる。人間世界は大人、つまり「物理的に大きさが固定された人間」に合わせて大きさがあつらえてあるから、子供たちは行動のいちいちに大変な思いをさせられ、それは自分が小さいからしょうがないと諦める。こんな事は、かつて人類が自然界の中で生きていた頃はなかったはずである。なぜなら自然界は人間の大人だけに合わせて作られてなどいないのだから。しかし、実際の人間界の子供は大人が作った社会で窮屈に生き、大人の足に合わせた階段を一生懸命に膝を上げて登り、大人の都合で走る抜けるトラックの脇を危なっかしく歩く。その挙句に、大人の都合で作られた自動車に巻き込まれ、大人の都合の洗濯機に閉じ込められ、大人の都合で怒鳴られ、終いには殺されるのだ。

   時間が流れるというのは真実ではない。それは、理解しやすい概念に当てはめているだけであり、言うならそのようにも見えるという事である。今は常に「今」しかない。認識できる真実はそれだけだ。だから、私たちは人生という川に流されている存在なのではなく、「いつか老いる私」でもない。同様に、子供たちは「大人になる過程」ではないし、老人は「死に近い人」ではない。そうは言っても、心のうちにありありと浮かぶ思い出とも呼ぶ記憶によって私たちは現在を規定してきたから、どうしても、その過去だけに構築できる思い出の順序に今を当てはめる。それはきっとこれからもそうだろうと、起きてもいないこの先にまで割り振る事で、見事に現在までもが過去として振る舞う。それらは幻想である事を時には思い起こした方が良い。
   時間という概念によって、現代人は「今」を捨てた。しかし、人生の全ての過程がそうではない。子供の頃を思い返せばわかる。今を生きていた頃は時計を気にしてなどいなかったのは、当たり前のことだ。社会に組み込まれた大人にとって、時計を気にせず生きることはもはや不可能である。しかし、子供たちは違う。

   子供を見よ。日々、今を生きる子供を。彼らの存在は過程ではない。何か答えのために、成長するために、日々生きているのではない。その逆である。日々を生きた結果が成長であり、答えにつながるのである。今日の子供は、明日はもういない。


   もし、いつか、子供がいずれ大人になる未完成の人と見なされなくなった時は、大人も老後のためになど生きていないだろう。

2017年12月29日金曜日

言葉

 常々思うが、言葉は強いが虚しい。

 真実も嘘も、多くは言葉で語られる。いや、正確に言えば、その始まりは言葉である。放たれた言葉が真実か嘘かは、別の形で証明される。つまり、本来言葉そのものは何らの価値を持っていないとも言える。仮のすがたであり担保であり象徴、幻だ。

 そんな頼りないもので人間界は概ね成り立っている。それは、言葉をまずは信じるという前提が成り立っているからである。私たちは、言葉は真実を示すと感じる。そうでなければ言葉が成立しない。言葉がそもそも持っている”信じさせる力”を逆手にとって嘘が生まれる。嘘をつこうと意識せずとも、言葉の持つ強さを使って、さまざまなレベルで私たちは互いに欺き合っているとも言える。

 言葉は本質的に虚しい。そのもの自体には何らの価値もない。私たちにとって真に価値があるのは、事象の変化であり、すなわち「何をしたか」である。

 「私は石を動かすことができる」と言われれば、ああそうだろうと取りあえず信じる。そのまま何もせずに命が果てるまで言い続けることもできるが、そのまま彼が死ねば、何一つ事象に変化をもたらさない。
 何も言わずとも、石を手で押し動かせば、事象は変わる。それを繰り返してピラミッドさえ組み上がるのだ。古代の王たちは言葉の虚しさを知っていたからこそ、物を動かしたに違いない。

 言葉でしか判断できないものは、その程度の価値しか置くことはできない。放たれた言葉は証明されなければならない。科学がしていることはそれだ。証明しようのない言葉を放つ人は”語り部”であり、それが自らの利のためだけに使われると嘘となる。

 中身の無い、殻のようになった言葉もある。挨拶もそうかもしれない。こんにちは、お疲れ様、よろしく、すみません・・・。そう思えば年末だが、年賀状に綴られる言葉はどうだろうか。

 あるビジネスの現場で、がんばりますと言った人が、「がんばらなくてもいい。結果を見せて下さい」と言い返されていた。
 言葉は現実の事象と連携しない限り、本質的に何の意味も持たない。

 人間の脳の前頭葉は社会性を司るとされる。いわゆる「TPOをわきまえる」能力である。この機能の成熟度合いをもって”大人”であるかが判断される。そこには、もう1つ、「言葉と行動の連携の重視」も含まれるのかもしれない。それを私たちは責任と呼んでいるのだろう。