2018年2月4日日曜日

作為の辺縁

 完全に真なる言葉など無いように、完全なる芸術も無い。

 仮にそれが完全であったとしても、受け取る側がそのように受け取れるとも限らない。
 完全であるか否かは主観であるなら、受け取る側の我々が完全で無い限り、完全などそもそも”感受しようが無い”。
 これが何を意味しているか。私たちがどれだけ自己を信じ切り、絶対的に正しいと思われる判断を下し、それが実現するように行動できたとしてもなお、それは他者によって批判されるという事である。
 私たちは須く不完全であり、同時に、自分の判断に自信を持っている。自信など持っていないと言ったとして、その言葉に自信があるではないか。そのような、不完全な者同士が互いを開示し合い意見を交わして、統一の見解に至ろうとするのは、波打つ海面に浮かびながら互いに差し出した棒の尖端を継ぎあわせて真っ直ぐな1本棒にしようと試みているかのようだ。

 不完全であっても、行動には自信の後押しがあり、その自信は私たちの日々の中で蓄積されたものである。だから、彼の言葉や行動の主題から外れる隅に、後押しの正体が姿を現す。それは、実に些細な瞬間や、小さな一言に過ぎない。しかしそれこそが、私たちの本性により近い。

 焦点の合う部位が真実とは限らない。むしろその周囲のぼやけて見えるところにそれは置かれている。

 つかみ所の無い心象は、言語によって合焦を得た。話し言葉はまだ良い。記述された言語となると、これはもはや高度に抽象化されているから、そこには相応の読み取り能力が要求される。しかし、それでもなお齟齬は免れないだろう。
 書き言葉と比べるなら、視覚芸術すなわち絵画や彫刻の方が時はより多くの情報を保持していると言える。つまり、言語よりはるかに正直である。

 さて、このように正直な芸術でさえも、いや正直であるからこそ、作家の見栄が表現の中に紛れ込む。見栄と言うと言葉が悪いが、つまりは人間性の素直な部分である。そして、全く作家にとっては皮肉であろうが、そう言った、彼が見つけて欲しくは無かったであろうところほど反って際だって見えるものだ。そして実は、このような言わば作為の辺縁こそがその作品を作り出す基盤を表しており、技術からこぼれ落ちた彼の感性の真実に近いものである。だから、作品が放つ作家の感性技量は作為の辺縁で判断されるのである。これが芸術が技術だけでは語ることができず、また、芸術家が職業たり得ない所以である。

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