表現文化についての会話の中である人が「日本人は全員が素人ですから」と言った。つまり、作る方も見る方も両方が”しろうと”だから本当に良いものがなかなか生まれないし評価されないという、歯がゆい現状をそう言い表したのだろう。その言葉を聞いたとき、先日観たばかりの芸大の卒展が思い出された。
美術館を貸し切ったような会場を回っていると、いくつかの作品の前にメモ帳や芳名帳とペンが置いてある。時には自作の名刺も。ある作品ではその横に作者の学生が立ち、来場者にぺこぺことお辞儀をしていた。作品の前に置かれるそれらは言わば”展示不純物”であって、展示の質を著しく下げている。鑑賞に空間を必要とする立体作品では尚更である。卒展は純粋な展覧会と言うよりむしろ発表会としての意味合いが強いので構わないという事なのだろう。実際これは長い伝統なのだ。私の学生時代でも、「感想ノート」を作品前に置くことの是非の話題が出た記憶はない。なんとなく置きたい学生が置くという、それだけの”些細な行為”として考えていた。そこには、作品とは作られた物だから”それだけが重要なのであって”その前に置いてあるノートは作品には無影響である、という暗黙の前提がある。
しかし、卒展を作家としての作品展示の始まりとしても意味があると言うのならば、”展示という行為”の質についても考慮する意味はあるだろう。芸術作品は作ったら終わりではなく、むしろ、展示という行為に全てが収束するのだから。
作品を世に出す行為の最後にピントがずれてしまう。しかも、それでも良いと”作る方も見る方も”思ってしまう。その現状に歯がゆさを感じたことを、冒頭の彼の言葉から思い出したのだった。
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