人体を造形するには、モデルの観察が必要になることが多い。美術大学などの美術系教育機関では授業でモデルデッサンを行う。作家としてモデルを雇う人は全体的には少数派だろうから、モデルデッサンと聞くと学校の授業を思い起こす経験者が多いのではないだろうか。それでも社会全体で見れば経験者の方が圧倒的に少ないから、一般的にはモデルデッサンと言われてもあまりピンと来ないのではないだろうか。
どういうことが行われているかと言えば、外から見えないようにカーテンが閉められた広めの部屋の真ん中に「モデル台」という30㎝ほどの高さの直径1.5メートルほどの台があり、そこに毛布が引いてある。そこでモデルさんがポーズを取る。ポーズはこちらが指定することもあれば、モデルさんに任せることも多い。実際、ほとんどのモデルさんが「絵になるポーズ」を心得ている。時々、個性的なポーズやアクロバティックなポーズで頑張るひともいるが、そういう人はごく少数だと思う。ポーズを取る時間は15分から20分で、続いて5分などの休憩を入れる。このポーズ、休憩のサイクルを全セッションの間繰り返す。時間管理はモデルさん自身がタイマーをセットするのが普通だ。アラームがなると描く側が「お願いします」と声を掛け、終わりの時は「ありがとうございました」や「お疲れ様でした」と声がけする。ポーズは全セッションを通して固定ポーズのこともあれば、ポーズごとに変えて貰うこともある。ポーズは「立ち」、「座り」、「寝ポーズ」がある。座りは、ポーズ台に腰を下ろすものや椅子に座るものもある。ポーズにモデルさんの個性が表れると言える。
モデルさんは、個性のある人が多いように感じるのだが、多分これは、単なる思い込みだろう。誰でも個人と対峙すればそれなりに個性的だ。通常はモデルさんに話しかけることはない。指導側は挨拶がてら少し会話することがあっても、絵描きの学生がわはポーズ前後の声がけ以外でモデルさんに話しかけることは通常ない。
モデルと描き手の関係性について考えてみたい。モデルという仕事の確立には、描き手という需要がまず存在しなければ成り立たない。描き手の需要に対してモデルが供給される。一対一ならば、ここに顧客としての描き手と商品としてのモデルが成り立つ。モデルは生きた人間なのだから商品という表現は引っ掛かるが、模範や広範的な型を意味する「モデル」と呼ばれるように、その存在の概念としては、「特定の誰か」ではなく「概念的なヒト」として取り扱われる性質のものでもある。その概念に対しての言葉であるなら、モデルとは商品であると言うことも出来るだろう。さて、描き手とモデルのシンプルな関係性は理解しやすい。描き手の必要に対してモデルが応じるということだ。やがて規模が大きくなると、描き手とモデルの間にエージェントが入り込む。要するにモデル派遣会社である。そこが窓口となることで、描き手はモデルを探しやすく、モデルも仕事を得やすくなった。現在の日本での美術教育機関では、エージェントを介する形態が一般的である。このことは、便利である一方で、描き手とモデルとの距離感をより遠ざけるものになった感は否めない。描き手は「発注者」としてエージェントに希望するモデルの性別や体型などを伝え、希望に近いであろうモデルが当日、モデルセッション会場に現れる。描き手はその人物が誰なのか全く知らずに描き、そして時間で終わる。発注者は料金をエージェントに払い、モデルはエージェントから代金を受け取る。こうして、「見る・見られる」だけが純粋化し、モデル・絵描きの関係性はドライなものになった。
絵描きは今や裸体を見たい(形態を確かめたい)に過ぎず、それが「誰」なのかは知る由もない。モデルは服を脱いでポーズをするに過ぎず、見るもの(絵描き)が何を知りたいと思っているのか知る由もない。こうしてモデルは人の「模型(モデル)」になりきる。
さて、この遠ざかった両者の関係性が、時々トラブルを生む。それはモデルが「模型」であり「ひと」であることに理由がある。描き手はモデルとして認識しているために「物」のように捉えてしまう。これは、それが否定されるべきものでもない。ここまで見てきて分かるようにモデルの存在そのものがそのニーズに応えるためにあるからだ。しかし、その為に悪意なく意識せず「人としてのモデル」に対して失礼な事をしてしまうことがある。例えば、不意に部外者がドアを開けてしまうとか、絵描きが近づきすぎてしまうとか、部屋が寒すぎるとか、色々あるだろう。きっと細かいことはもっとあるのだろう。しかしながら、「人としてのモデル」が何が不快なのか、それを完全に絵描き側が知ることは残念ながらできない。
モデルが「人として」不快な思いをしないように、また商品として適切に扱われるように、モデルエージェントが規定を設けているようだ。それは依頼を受けたときに規約として示されるのだろうが、私自身は直接依頼したことがないので”それを知らない”。なぜ、”知らない”を強調したか。これはおかしな事だからだ。モデルと描き手との関係性が純化し遠ざかった今、互いが互いをどのように扱ったらいいかも他者つまりエージェントに任されている。しかし、現場で対峙するのはあくまでもモデルと描き手なのだ。問題がおきるのはアトリエ内において、描き手とモデルという「人と人」との間に起こるのである。私自身、モデルセッションで何度も講義を行っているが、実際のところ「何が良くて、何がいけないのか」知らないのである。そんなのモデルの気持ちになって考えてみればいいじゃないかって?それはモデルにならなければ分からないことだと既に述べたし、それを描き手に要求するのは、エージェントを介する関係となった現在の両者ではフェアーではない。
モデルと描き手の関係が、特にここで述べてきているのは1対1ではなく、学校など多数の描き手がいるような状況(もっともよくある状況)では、ちょっとしたことで両者にとって心地よくないものになってしまうことがある。そこにはモデルを物として見るか人として見るかの「慣れない対応」を迫られる描き手による不手際と、モデルのうかがい知れない不安感が相まって起こるのだが、それを恐れて描き手が萎縮してしまうようなセッションは、もはやセッションとして成り立っていないというべきだろう。しかし、実際のところはそうならないための緊張感が常にアトリエに流れている。今や、描き手は「”脱いで頂いた”モデル」に最大限失礼の無いように留意しなければならない。これは、絵描きとモデルの関係性が本来と逆転している。「個人的に頼んでもいなければ、お金も払ってもいない(間接的に頼んでいるし払っている)どこかの誰かが私たちのために脱いでくれる。そのような献身的親切に失礼のないようにしなくてはいけない」というメンタルである。だから、モデルを見るというより「見させて頂く」というものになる。近づいて、じっと見たら失礼なんじゃないか。正面から顔を描いたらいけないんじゃないか。「・・・は失礼なんじゃないか」が蔓延する。実際、私の経験ではそのような空気感をセッションで感じることがある。こんな消極的姿勢では、まさに本末転倒である。
モデルが「裸になってくれるどこかの誰か」になった今、描き手はいつまでもモデルの扱いが分からないままで、それが問題なのだ。これを解消するために、モデルエージェントは、アトリエにおけるモデルの取り扱いを明文化し、それをモデルに持参でもさせたらどうだろうか。いまや彼らがモデルを保護する存在でもあるのだから。そうして言葉でがんじがらめにするのは、芸術活動とはなじまないという感じもするものの、これはモデルと芸術家という1対1の関係の話ではなく、学校など初級者が多数いるようなセッションでの想定である。何が良くて、何が行けないのか、その指針が示されれば、描き手たちもその中で安心してモデルと対峙できるだろう。明文化される段階において、絵描き側にニーズも当然そこに反映されなければならない。そうすることで、両者の関係性がより明らかにもなるのではないか。こういう事を言うとドライに聞こえるかもしれないが、そういう時代なのだとも思う。
2015年2月27日金曜日
2015年2月26日木曜日
ロダン 印象派彫刻
ロダンは印象派の彫刻家とも言える。いや、彼の生きた時代、場所からすれば、印象派の彫刻家と言って良い。ただ、印象派という言葉は、主に絵画芸術の運動と結びつけられるので、ピンと来ない。けれども、彼の造形を見れば、それが同時代の印象派絵画とそっくりのコンセプトが基にあることに気付く。要するにそれらは、実測に基づいた正確性というより、心に映る「らしさ」をより優先した造形である。また、彼の塑造の特徴である荒く見える粘土付けは、印象派絵画に見られる荒い筆のストロークを思い起こさせる。鑑賞者は、その整えられていない細部に、作家がまさに手を動かした証拠を目の当たりにし、そこに芸術家の心の動きを感じ取るのである。その作家の感動と同調するとき、彼の感動は私たちのものとなる。
思えば、絵画は印象派によって、外世界の描写から、作家の主観性へと対象が大きく変化したのだ。そこに描かれた風景は私たちの外の物ではなく、もはや内の物である。私たちが生きているように、その風景たちは独自の生命を持って立ち現れる。
ところで、印象派が絵画運動として見られるのは、絵画は光学的表現であって、それが眼という光学的器官を通して世界を見ることから始まる現象とリンクしている。つまり、印象派絵画は、「見る」や「見える」という視覚的、光学的感覚への探求が根底にある。
ロダンの彫刻に見られる激しい粘土付けのストロークが残る表面処理は、それがある程度の距離を離れて見られるときにもっともその効果を発揮する。その細かな凹凸の陰影が寄り集まり、それを包む大きな構造の陰影に”心地よいノイズ、もしくはリズム”を与える。凹凸が陰影として捉えられるとき、彫刻は光学的に捉えられる媒体となる。「触覚の芸術」から「視覚の芸術」へと延長が果たされているのである。
ロダンは、ボリュームやマッスのようにその存在感が強く謳われるが、それだけではなく、現代彫刻的な「非触覚的」で「光学的」な表現の近代的はじまりでもあるのだ。
さらにまた、「内的生命」を宿すと形容される彼の芸術も、まさしく印象派的手法によってもたらされたと言って良いだろう。ロダン彫刻が、それ以前と違って、作品独自の生命(感覚)を獲得し得たのは、それらがロダンという芸術家の生命が捉えた「生の印象」がそこに刻まれているからにほかならない。
思えば、絵画は印象派によって、外世界の描写から、作家の主観性へと対象が大きく変化したのだ。そこに描かれた風景は私たちの外の物ではなく、もはや内の物である。私たちが生きているように、その風景たちは独自の生命を持って立ち現れる。
ところで、印象派が絵画運動として見られるのは、絵画は光学的表現であって、それが眼という光学的器官を通して世界を見ることから始まる現象とリンクしている。つまり、印象派絵画は、「見る」や「見える」という視覚的、光学的感覚への探求が根底にある。
ロダンの彫刻に見られる激しい粘土付けのストロークが残る表面処理は、それがある程度の距離を離れて見られるときにもっともその効果を発揮する。その細かな凹凸の陰影が寄り集まり、それを包む大きな構造の陰影に”心地よいノイズ、もしくはリズム”を与える。凹凸が陰影として捉えられるとき、彫刻は光学的に捉えられる媒体となる。「触覚の芸術」から「視覚の芸術」へと延長が果たされているのである。
ロダンは、ボリュームやマッスのようにその存在感が強く謳われるが、それだけではなく、現代彫刻的な「非触覚的」で「光学的」な表現の近代的はじまりでもあるのだ。
さらにまた、「内的生命」を宿すと形容される彼の芸術も、まさしく印象派的手法によってもたらされたと言って良いだろう。ロダン彫刻が、それ以前と違って、作品独自の生命(感覚)を獲得し得たのは、それらがロダンという芸術家の生命が捉えた「生の印象」がそこに刻まれているからにほかならない。
2015年2月24日火曜日
死にものぐるいの形
「しっかり生きろ」や「何となく生きる」などのように、人としての生き方についての文言は多くある。要するに、社会に対してどれだけ関わっているかが、ここで問われている”生きる”の質だ。それとは別に、と言うか、生きるということの本質である”生物学的な生”で言うなら、人はすべからく「本気で生きている」ということになる。私たちの体は、細胞が受精したときから、一時たりとも、生きることに気を抜くと言うことをしない。
私たちは、気付いたときには「生きていた」から、生きるという現象をことさら不思議に思わないものだ。それが脅かされるような状況、つまり大けがや病気などになって初めて、普通に生きるということの驚異に気付くありさまである。我々が、自分の意思など遠く及ばない領域において”生きよう”としているのを実感するのは簡単である。息を止めてみればいい。自分の意思で、道具など使わずに息を止めて、それで死ねる人間はいない。
私たちは、35億年の長きに渡って、一度も途切れることなく継続できた、ほとんど奇跡的な現象の末裔である。それは、”生きよう”とするあまたの生命現象同士の篩いの掛け合いでもあった。地球上に登場してきた生物のほとんどがそこで通過できず、消えていった。だが、私たちは違った。残ったのだ。そこには、さまざまな過酷な状況を突破できた運と、何とかして乗り越えようとする生命現象的な意思とが見事に功を奏した幸運な成功者の姿がある。
そもそも「生まれた」という事実が、「生きよう」という現象の事実を物語っている。生きようとしない誕生など成り立たない。私たちを構成する60兆の細胞の全てが全身全霊で生きようとしていて、それによって構成された「私」という個体もまた全身全霊で生きようとしているひとつの体系なのだ。
だから現象としての生には、私たちの意識の入り込む隙間などない。私たちの存在は、何とか生き抜こうとするためにデザインされている。
「死にたい」なんて言葉をつい言いたくなるときもあるかもしれぬが、そんな言葉は体には関係がない。体が物言えるならこう言うだろう。
「そう思わなくたって、いずれそうなるさ」
多細胞生物としての個体死は必要だから用意されたものだ。私たちが35億年にわたり途絶えなかった成功の秘訣の1つが個体死の適応である。変わりゆく世界において変化に柔軟に、かつ常に刷新された形であるためには、そこに個の交代が必須である。だから、私たちの生には元から死もセットで組まれている。むしろ意味なく死なないことは害悪でしかない。それは、あたかも増殖を続けることで個体死をもたらす癌細胞を思い出させる。私たちの体は死ぬときを知っている。生きる意味が無くなったと判断されれば、速やかに生の継続を止める。
とにかく、私たちは皆、死にものぐるいで生きているのだ。自分の手を、鏡に映る顔を見て欲しい。無駄なお飾りでくっつけたような部分が1つでもあるだろうか。「死にものぐるいの生」に形を与えたら、人の形にたどり着いたのである。死にものぐるいの形である。
私たちは、気付いたときには「生きていた」から、生きるという現象をことさら不思議に思わないものだ。それが脅かされるような状況、つまり大けがや病気などになって初めて、普通に生きるということの驚異に気付くありさまである。我々が、自分の意思など遠く及ばない領域において”生きよう”としているのを実感するのは簡単である。息を止めてみればいい。自分の意思で、道具など使わずに息を止めて、それで死ねる人間はいない。
私たちは、35億年の長きに渡って、一度も途切れることなく継続できた、ほとんど奇跡的な現象の末裔である。それは、”生きよう”とするあまたの生命現象同士の篩いの掛け合いでもあった。地球上に登場してきた生物のほとんどがそこで通過できず、消えていった。だが、私たちは違った。残ったのだ。そこには、さまざまな過酷な状況を突破できた運と、何とかして乗り越えようとする生命現象的な意思とが見事に功を奏した幸運な成功者の姿がある。
そもそも「生まれた」という事実が、「生きよう」という現象の事実を物語っている。生きようとしない誕生など成り立たない。私たちを構成する60兆の細胞の全てが全身全霊で生きようとしていて、それによって構成された「私」という個体もまた全身全霊で生きようとしているひとつの体系なのだ。
だから現象としての生には、私たちの意識の入り込む隙間などない。私たちの存在は、何とか生き抜こうとするためにデザインされている。
「死にたい」なんて言葉をつい言いたくなるときもあるかもしれぬが、そんな言葉は体には関係がない。体が物言えるならこう言うだろう。
「そう思わなくたって、いずれそうなるさ」
多細胞生物としての個体死は必要だから用意されたものだ。私たちが35億年にわたり途絶えなかった成功の秘訣の1つが個体死の適応である。変わりゆく世界において変化に柔軟に、かつ常に刷新された形であるためには、そこに個の交代が必須である。だから、私たちの生には元から死もセットで組まれている。むしろ意味なく死なないことは害悪でしかない。それは、あたかも増殖を続けることで個体死をもたらす癌細胞を思い出させる。私たちの体は死ぬときを知っている。生きる意味が無くなったと判断されれば、速やかに生の継続を止める。
とにかく、私たちは皆、死にものぐるいで生きているのだ。自分の手を、鏡に映る顔を見て欲しい。無駄なお飾りでくっつけたような部分が1つでもあるだろうか。「死にものぐるいの生」に形を与えたら、人の形にたどり着いたのである。死にものぐるいの形である。
人をまとう魚
人体は、初めからこの形で地球上に現れたのではない。少なくとも科学的にはそう断言しても良いほどに条件が揃っているということだ。だから、遠い過去に遡るとその地球上にはどこにも人間の形は存在しなくなる。例えば7千万年前の恐竜時代には、まだ人間の形は存在していない。その頃の「やがて人間へと続く動物」はネズミや猫ほどの小さな4つ脚の哺乳類だったそうだ。このようにしてどんどんと過去へ遡れば、やがて体毛も消え、体温を作ることもせず、徐々に水辺へ近づき、仕舞いには水中へと入っていく。つまり、私たちはかつては魚の形だったのだ。進化の順で言い直せば、「魚の形が、人の形になった」のである。このように、進化的な長い時間を経てある生物の形が形成されることを系統発生とも言う。一方で、私たち個人は、あたりまえだが、母親から生まれる。それも魚の形で生まれてくることはない。だれでも、初めから人の形で世に出てくるわけである。だれでも生まれたときから人の形だから、私たちは生物史的にもずっと人間の形をしていただろうと漠然と思いやすい。だから、神話や宗教で語られる人類は初めから人間の形をしている。けれども、よくよく考えれば、生まれ出る前から母親の胎内ではすでに存在していた。その期間(およそ10ヶ月)の初めの2ヶ月は胚子期と呼ばれ、このころに体の器官が形成される。つまり、人の形がゼロから(いや、1個の細胞から)作り出されるのはこの2ヶ月間のお話ということである。この間の胚子の形の変化を見ると、細胞分裂からそのままスムーズに人の形ができて”いかない”ことに驚く。初めは尻尾が長く、顔の脇にはいくつもの溝がある。それはまるで数条のエラの切れ目を持つサメのようだ。やがて、腕と脚ははえ出てくる。その先にはヒレがある。そう、魚のヒレ。このヒレの水かき膜が消えていき、残された骨周りが指となる。このように、人の形の出来方はまるで魚から人への進化のようだ。このような人の形が形成されることを個体発生と言う。私たちひとりひとりも、はじめから人の形としてできるのではなく、まず魚をつくって、そこから人の形へと変形させているのだ。つまり、系統発生的に見ても、個体発生的に見ても私たちの体は「魚の変形体」というようなものだ。もしくは、「乾いた陸上生活に適応した魚のなれの果て」とでも言おうか。
魚の変形体である私たち。自らの形に魚の形の断片でも見出すことができるだろうか。そう思って見回してみれば、共通する構造はいくつか見出せる。目がふたつに口がある頭部。背骨や肋骨も共通している。しかし共通しない部分も多い。魚に耳は?まぶたがないぞ。首がないな。等々。もちろん、両者で最大の違いは呼吸器(エラと肺)だろうが、構造的に見えてくる違いが多い。そしてそのほとんどが、魚が上陸したことで身に付けざるを得なかった機能である。つまり、「後から加えた」ものだ。ここで、非常に興味深いのは、生物はどうやら初めから持っているものでなんとかやりくりしたいと思うものらしく、新しいものが必要となるとそれをゼロから作り上げることはせずに、もともと体にあるものを改変していく傾向があるということだ。だから上にも書いたように、私たちの腕や脚は上陸してお役ご免になったヒレの再利用であるし、空気の通り道である気管周りも、使わなくなったエラをリサイクルして作り上げている。
この時、ヒレから作り出された腕と脚は、水中時代とは比べものにならないほど大きな役割を担わされることになった。すなわち、重力に逆らって体を運ぶ、ということだ。その為に、この4本の突起の根本には筋が広く発達することになる。しかしそれらの筋は、もともとの体の中へ侵入することはない。体の表面に広くその場を求めた。それはまるで、地中に根を張ることができない大木が、その根を地中浅くしかし広く張るかの如くである。その結果、私たちの体の形を作り上げている筋肉は、層構造をなすことになる。それもだから、深層に魚時代の筋層を、浅層に上陸してからの筋層を重ねたかたちとなっている。
外から見ただけでは、見慣れた「人の形」だけが目につくが、その形は長い歴史の基にたどりついたものだ。そしてそれは、この形を目指してたどり着いたものではない。環境の変化に対峙したとき、その場その場で、手元にあった体を改変して何とか乗り越えてきた”結果のかたち”である。生物の形はだから、それが続く限り、いつでもが「暫定的完成形」ということなろう。
ところで、人体において、表層にまとっている「人の形」を取り去ると、そこには古い「魚の形」が立ち現れる。それは、3億5千万年前から隠してきた太古の姿、私たちのひとつの起源的な姿にも見えて興味深いのである。
魚の変形体である私たち。自らの形に魚の形の断片でも見出すことができるだろうか。そう思って見回してみれば、共通する構造はいくつか見出せる。目がふたつに口がある頭部。背骨や肋骨も共通している。しかし共通しない部分も多い。魚に耳は?まぶたがないぞ。首がないな。等々。もちろん、両者で最大の違いは呼吸器(エラと肺)だろうが、構造的に見えてくる違いが多い。そしてそのほとんどが、魚が上陸したことで身に付けざるを得なかった機能である。つまり、「後から加えた」ものだ。ここで、非常に興味深いのは、生物はどうやら初めから持っているものでなんとかやりくりしたいと思うものらしく、新しいものが必要となるとそれをゼロから作り上げることはせずに、もともと体にあるものを改変していく傾向があるということだ。だから上にも書いたように、私たちの腕や脚は上陸してお役ご免になったヒレの再利用であるし、空気の通り道である気管周りも、使わなくなったエラをリサイクルして作り上げている。
この時、ヒレから作り出された腕と脚は、水中時代とは比べものにならないほど大きな役割を担わされることになった。すなわち、重力に逆らって体を運ぶ、ということだ。その為に、この4本の突起の根本には筋が広く発達することになる。しかしそれらの筋は、もともとの体の中へ侵入することはない。体の表面に広くその場を求めた。それはまるで、地中に根を張ることができない大木が、その根を地中浅くしかし広く張るかの如くである。その結果、私たちの体の形を作り上げている筋肉は、層構造をなすことになる。それもだから、深層に魚時代の筋層を、浅層に上陸してからの筋層を重ねたかたちとなっている。
外から見ただけでは、見慣れた「人の形」だけが目につくが、その形は長い歴史の基にたどりついたものだ。そしてそれは、この形を目指してたどり着いたものではない。環境の変化に対峙したとき、その場その場で、手元にあった体を改変して何とか乗り越えてきた”結果のかたち”である。生物の形はだから、それが続く限り、いつでもが「暫定的完成形」ということなろう。
ところで、人体において、表層にまとっている「人の形」を取り去ると、そこには古い「魚の形」が立ち現れる。それは、3億5千万年前から隠してきた太古の姿、私たちのひとつの起源的な姿にも見えて興味深いのである。
2015年2月23日月曜日
解剖学に見る人間味 脊髄神経番号へのアイデア
解剖学は、自然物である人体を人間が理解できるように部位に分けてグループ化し名称を与えたものだ。だから、色々なところに人間の都合や癖のようなものが見え隠れして、ある意味、とても人間味溢れている。もっとも分かりやすいのは、解剖学名だろう。基本的には「分かりやすいように」という配慮のもとに命名されているのが分かるが、その基準が安定していない。例えば、「三角筋」や「方形筋」のように、見た目がそのまま名前になっているものがあると思えば、「胸鎖乳突筋」のように筋の着く場所を名前にしているものがあったりする。胸鎖乳突筋などは、骨の名前を知っていれば直ぐに分かるが、知らなければ何のことか想像も出来ない名称だろう。ちなみにこれは、「胸骨と鎖骨から始まって、(側頭骨の)乳様突起まで行く筋」という意味である。解剖学を学ぶ時はまず初めに骨学から入るものだが、それには上記のような理由があるわけだ。他に、構造の形状を示す名称には、よく使われる言葉が決まっている。それらは「溝」や「孔」など、一般的にもイメージしやすい言葉が多い。ただ、興味深いのがポチっと出っ張ったものには「乳頭」という言葉が与えられ、より大きな突起部は「乳様」と呼ばれることだ。どちらも女性の乳房をイメージして命名されている。歴史に登場する解剖学者はほぼ全て男性と言って良い。それが影響しているのかどうかは分からないけれど。
初めにも書いたように、解剖学は「人が勝手に決めた」ものだから、それに対する見直しや再発見は現在でも行われている。解剖学関係の論文では常に批判的視点から従来の記述に見直しが図られている。そういった中で概ね妥当だろうと判断されたものは、徐々に受け入れられ、やがて解剖学の成書に反映されるようになる。だから、解剖学の教科書に書かれている内容は「ほぼ信じて良いけれど、もしかしたら今は(今後は)見方が変わっているかも」というところである。
また、解剖学的な分類や名称は、機能よりも構造を重視しているようだ。脳神経は12対あるが、それを機能で見れば違う分け方ができるのだが、とりあえず「頭蓋に開いた孔から出る神経」という程度で12対としたのだろう。それがそのまま継承されている。「分かりやすいから、それでいいんだよ」という”ゆるさ”が感じられるのである。
神経で、背骨から出てくるものを脊髄神経という。それはひとつひとつの脊椎の間から左右に出てくる。それを上から数字が振って脊柱の部位毎にグループ分けされている。人間の脊椎の数は決まっていて、頸椎が7つ、胸椎が12、腰椎が5、仙骨1つに尾骨となる。ただ、仙骨は5個の椎骨のくっついたものである。さて、ここから出てくる脊髄神経の数だが、椎骨の間から出てくるのだから、椎骨の数と同じで良いと思いたいところだ。ところが実際は頚神経が8、胸神経が12、腰神経が5、仙骨神経が5、尾骨神経が1である。お気づきのように、頚神経だけが椎骨の数より1つ多い。頸椎の一番上には頭蓋が乗っかっている。この頭蓋と第1頸椎との間からも脊髄神経は出てくる。これを「1」とカウントして始まる。すると、肋骨が始まる第1胸椎の上の隙間までが「8」になるのである。それで、第1胸椎の下の隙間から「胸神経1」が始まるのだ。そのように教科書にはしらぁ〜と書かれるので、こちらも「ふんふん」とそのまま受け取ってしまう。けれども、これがちょっとくせ者なのだ。まず、頸部だけ椎骨の数と数が違うのがそもそもすっきりしない。それに、頚神経だけが頸椎の「上」と神経の数が同じになり、そのせいで第1胸椎の上が第8頚神経とややこしく、更に、胸神経以下では、椎骨の「下」と神経の数が同じになるという”直感的わかりにくさ”を生んでいる。大体この解説を読んでも全くピンと来ないだろう。それは、この頚神経を8つとしたことが原因なのだ。
単純に一番上から、椎骨の分類と同じ数でグループ分けすればそれでよいのに、と思う。つまり、頸7、胸12、腰5、仙骨5、である。で、最後の尾骨神経を従来の1から2にすれば良い。仮にこうすると、胸神経以下のナンバリングが全て1繰り上がることになる。このほうがそこから出てくる神経の種類もよりスッキリするように思われる。例えば、上肢への神経は腕神経叢という神経の「絡まり」を作るが、それは頸5、6、7、8、胸1から始まる。(これ以下より頚をC、胸をT、腰をL、仙骨をSと表記)。このうちC8とT1が合わさって下神経幹を構成するが、繰り上げればよりシンプルに「下神経幹はT1、T2」となる。つまり尺骨神経は胸神経由来と言い切ってしまう(!)。これは脊髄神経の皮膚支配域を示すデルマトーム図を見ても、その方がすっきりと見える。
ナンバリングを1つずらすことですっきりするのは、下肢の支配神経群である腰仙骨神経叢でも同様である。通常、腰神経叢はL1からL4までで構成されるが、細い線維が1つ上のT12からもやってきている。1つ繰り上げてT12をL1とすれば問題ない。腰神経叢から出る神経の支配域は下腹部から陰部の前面と大腿部前面である。そして、L5から始まる仙骨神経叢は臀部から下肢の後面と下腿部、そして陰部に及ぶ。つまり、大まかに言えば、腰神経叢が下半身の前面を、仙骨神経叢が下半身の後面を担っている。そして、その境界つまり2つの神経叢の境界がL4とL5の間という事になる。これも1つ繰り上げれば、腰神経叢はL1からL5、仙骨神経叢はS1からの始まりとなって、明解になる。要するに腰椎部から出る神経は前面、仙骨部からは後面と言い切れるのだ。両の神経叢を跨ぐ腰仙骨神経幹がL5になるわけで、これも現状のL4という”途中感”から抜け出られるではないか・・。
とまあこんな風に、既存の記載内容にケチを付けつつ見るのも、たまには楽しいかもしれない。500年の知識の積層の上で遊んでみるわけである。
初めにも書いたように、解剖学は「人が勝手に決めた」ものだから、それに対する見直しや再発見は現在でも行われている。解剖学関係の論文では常に批判的視点から従来の記述に見直しが図られている。そういった中で概ね妥当だろうと判断されたものは、徐々に受け入れられ、やがて解剖学の成書に反映されるようになる。だから、解剖学の教科書に書かれている内容は「ほぼ信じて良いけれど、もしかしたら今は(今後は)見方が変わっているかも」というところである。
また、解剖学的な分類や名称は、機能よりも構造を重視しているようだ。脳神経は12対あるが、それを機能で見れば違う分け方ができるのだが、とりあえず「頭蓋に開いた孔から出る神経」という程度で12対としたのだろう。それがそのまま継承されている。「分かりやすいから、それでいいんだよ」という”ゆるさ”が感じられるのである。
神経で、背骨から出てくるものを脊髄神経という。それはひとつひとつの脊椎の間から左右に出てくる。それを上から数字が振って脊柱の部位毎にグループ分けされている。人間の脊椎の数は決まっていて、頸椎が7つ、胸椎が12、腰椎が5、仙骨1つに尾骨となる。ただ、仙骨は5個の椎骨のくっついたものである。さて、ここから出てくる脊髄神経の数だが、椎骨の間から出てくるのだから、椎骨の数と同じで良いと思いたいところだ。ところが実際は頚神経が8、胸神経が12、腰神経が5、仙骨神経が5、尾骨神経が1である。お気づきのように、頚神経だけが椎骨の数より1つ多い。頸椎の一番上には頭蓋が乗っかっている。この頭蓋と第1頸椎との間からも脊髄神経は出てくる。これを「1」とカウントして始まる。すると、肋骨が始まる第1胸椎の上の隙間までが「8」になるのである。それで、第1胸椎の下の隙間から「胸神経1」が始まるのだ。そのように教科書にはしらぁ〜と書かれるので、こちらも「ふんふん」とそのまま受け取ってしまう。けれども、これがちょっとくせ者なのだ。まず、頸部だけ椎骨の数と数が違うのがそもそもすっきりしない。それに、頚神経だけが頸椎の「上」と神経の数が同じになり、そのせいで第1胸椎の上が第8頚神経とややこしく、更に、胸神経以下では、椎骨の「下」と神経の数が同じになるという”直感的わかりにくさ”を生んでいる。大体この解説を読んでも全くピンと来ないだろう。それは、この頚神経を8つとしたことが原因なのだ。
単純に一番上から、椎骨の分類と同じ数でグループ分けすればそれでよいのに、と思う。つまり、頸7、胸12、腰5、仙骨5、である。で、最後の尾骨神経を従来の1から2にすれば良い。仮にこうすると、胸神経以下のナンバリングが全て1繰り上がることになる。このほうがそこから出てくる神経の種類もよりスッキリするように思われる。例えば、上肢への神経は腕神経叢という神経の「絡まり」を作るが、それは頸5、6、7、8、胸1から始まる。(これ以下より頚をC、胸をT、腰をL、仙骨をSと表記)。このうちC8とT1が合わさって下神経幹を構成するが、繰り上げればよりシンプルに「下神経幹はT1、T2」となる。つまり尺骨神経は胸神経由来と言い切ってしまう(!)。これは脊髄神経の皮膚支配域を示すデルマトーム図を見ても、その方がすっきりと見える。
ナンバリングを1つずらすことですっきりするのは、下肢の支配神経群である腰仙骨神経叢でも同様である。通常、腰神経叢はL1からL4までで構成されるが、細い線維が1つ上のT12からもやってきている。1つ繰り上げてT12をL1とすれば問題ない。腰神経叢から出る神経の支配域は下腹部から陰部の前面と大腿部前面である。そして、L5から始まる仙骨神経叢は臀部から下肢の後面と下腿部、そして陰部に及ぶ。つまり、大まかに言えば、腰神経叢が下半身の前面を、仙骨神経叢が下半身の後面を担っている。そして、その境界つまり2つの神経叢の境界がL4とL5の間という事になる。これも1つ繰り上げれば、腰神経叢はL1からL5、仙骨神経叢はS1からの始まりとなって、明解になる。要するに腰椎部から出る神経は前面、仙骨部からは後面と言い切れるのだ。両の神経叢を跨ぐ腰仙骨神経幹がL5になるわけで、これも現状のL4という”途中感”から抜け出られるではないか・・。
とまあこんな風に、既存の記載内容にケチを付けつつ見るのも、たまには楽しいかもしれない。500年の知識の積層の上で遊んでみるわけである。
登録:
投稿 (Atom)