「しっかり生きろ」や「何となく生きる」などのように、人としての生き方についての文言は多くある。要するに、社会に対してどれだけ関わっているかが、ここで問われている”生きる”の質だ。それとは別に、と言うか、生きるということの本質である”生物学的な生”で言うなら、人はすべからく「本気で生きている」ということになる。私たちの体は、細胞が受精したときから、一時たりとも、生きることに気を抜くと言うことをしない。
私たちは、気付いたときには「生きていた」から、生きるという現象をことさら不思議に思わないものだ。それが脅かされるような状況、つまり大けがや病気などになって初めて、普通に生きるということの驚異に気付くありさまである。我々が、自分の意思など遠く及ばない領域において”生きよう”としているのを実感するのは簡単である。息を止めてみればいい。自分の意思で、道具など使わずに息を止めて、それで死ねる人間はいない。
私たちは、35億年の長きに渡って、一度も途切れることなく継続できた、ほとんど奇跡的な現象の末裔である。それは、”生きよう”とするあまたの生命現象同士の篩いの掛け合いでもあった。地球上に登場してきた生物のほとんどがそこで通過できず、消えていった。だが、私たちは違った。残ったのだ。そこには、さまざまな過酷な状況を突破できた運と、何とかして乗り越えようとする生命現象的な意思とが見事に功を奏した幸運な成功者の姿がある。
そもそも「生まれた」という事実が、「生きよう」という現象の事実を物語っている。生きようとしない誕生など成り立たない。私たちを構成する60兆の細胞の全てが全身全霊で生きようとしていて、それによって構成された「私」という個体もまた全身全霊で生きようとしているひとつの体系なのだ。
だから現象としての生には、私たちの意識の入り込む隙間などない。私たちの存在は、何とか生き抜こうとするためにデザインされている。
「死にたい」なんて言葉をつい言いたくなるときもあるかもしれぬが、そんな言葉は体には関係がない。体が物言えるならこう言うだろう。
「そう思わなくたって、いずれそうなるさ」
多細胞生物としての個体死は必要だから用意されたものだ。私たちが35億年にわたり途絶えなかった成功の秘訣の1つが個体死の適応である。変わりゆく世界において変化に柔軟に、かつ常に刷新された形であるためには、そこに個の交代が必須である。だから、私たちの生には元から死もセットで組まれている。むしろ意味なく死なないことは害悪でしかない。それは、あたかも増殖を続けることで個体死をもたらす癌細胞を思い出させる。私たちの体は死ぬときを知っている。生きる意味が無くなったと判断されれば、速やかに生の継続を止める。
とにかく、私たちは皆、死にものぐるいで生きているのだ。自分の手を、鏡に映る顔を見て欲しい。無駄なお飾りでくっつけたような部分が1つでもあるだろうか。「死にものぐるいの生」に形を与えたら、人の形にたどり着いたのである。死にものぐるいの形である。
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