2009年11月2日月曜日

解剖学者 解剖学のちから

様々な領域にそれを専門とする人たちがいて、彼らは私たちからすれば「凄い」ことを当たり前のようにしたり、知っていたりする。日常的にある特定の事だけを追っていれば詳しくなるのは当然なのだろうが、そういう人を目の当たりにすると、単純に「凄い」と感じる。

私にとってのそういう人に、解剖学者がいる。それも肉眼解剖学だが、彼らの人体に関する広範な知識は、本当に凄い。
肉眼解剖学は、その発見の大方は出払ったなどと言われたりもするようだが、それは裏を返せば、それだけ綿密に観察されてきたという意味である。つまり、現在の解剖学者は、人体から新しいなにかを見出すために、既に発見済みの”膨大な”知見をまず知り、理解するところから始めなければならない。そういうフォースもありまた、人体の不思議にのめり込んだ結果だろう。

解剖学の知識は、人間の見方を変えるちからを持っている。漠然と知っているような気がしている「我が身」を、客観的に捉えてみることが出来るようなる。我が身の見方が変われば、他人の見え方も変わってくる。つまりは、全てが変化してしまう。それほどのちからを持っている。私などは、今更にそれに驚いているのだが、解剖学者たちはとうにそれを感じていたはずなのだ。彼らは、下手な宗教家などよりよっぽど人間について深く語れるはずなのにと思ってしまうが、知る人ほど口は重いのか、あまり積極的に外に出てこない。

生き方や、自分という存在に悩む人は多い。それに対応するものも多くある。生き方教室や、占いや、宗教などなど。占いや宗教には、「これが正しく、これは間違い」というバイアスが存在している。それは、言い換えれば、「誰かさんの意見」である。結局、私に従うか従わないかという事になる。
その一方で、科学である解剖学には「誰かさん」の恣意的なアドバイスのバイアスは存在しない。本当に自然に忠実的な目線での「私とは」を示してくれる。解剖学は、形態学の一種であるから、扱っている内容は基本的に物質なのだが、そこから心という非物質的概念の問題へと繋がってゆくダイナミズムは興味深い。

差別問題、性教育問題、死生観、宗教、脳死問題、うつ、QOL、子育て、いじめ、世代間問題・・いろいろあるが、それらにも解剖学は手を貸せるのかもしれない。
小学校や中学校で、人体解剖学を教えているのだろうか。「こころ」は大事だが、それは「肉体」から生まれるということも忘れられないだろう。
解剖学という高度に成熟した学問の力を借りることで、突破口を見いだせるものは以外と多いのではないだろうか。解剖学は、いまや医学領域だけに留まるものではないように思う。

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