2009年11月1日日曜日

美術+解剖学

美術解剖学というものがある。「学」が付くのだから、学問の一領域なのだが、具体的にまとまった1つの学問領域と呼べるのかは、よく分からない。その源泉は、16世紀のイタリアとされ、当時発展した医学の解剖学と、リアリティを求める芸術表現の欲求とが必然的に出会うことで起きた。当時、解剖学は科学の最先端と呼べるものだったが、具体的な何かの発見というよりも、むしろ「新しい人体の見方」そのものの発見だった。それは、新しいもの好きな芸術家達によって、その表現にも速やかに反映された。
それ以降、人体を表現する芸術家は、説得力のある造形の為に、解剖学からの情報を参考にするのは当然のことのようになり、同時に医学書における解剖図譜にも、画家や版画家が解剖学者の監修の元に精緻な図を提供するのが当然となった。医学と芸術は、やがて独自の道へと明確に分かれていったが、両者は現在でも「人体表現」においては結びついている。
解剖学における人体についての知見は今や膨大である。現在では、新たな発見の多くは、肉眼では見えないような微細な構造や機能へと移っている。しかしながら、芸術において要求される人体に関する知識は、あくまでも目で見える、それも外見に影響を与える部位である。すなわち、骨格と筋肉がほとんどだと言える。膨大に増え続ける医学的解剖学の情報から、芸術家が必要な部分だけを抜き取ってまとめたものが、美術解剖学である。

さて、書店では、美術解剖学の本が数多く売られている。その内容のほとんどは実は同じようなもので、骨格図と筋肉図で構成されている。同様の図は、医学の解剖学の本にもあるが、美術技法書では鉛筆画のような手描きタッチが多い。情報量は、当然ながら医学書のほうが圧倒的に多いので、何冊も技法書を揃えるなら、一冊医学書を手に入れたほうが良いのではないかとも思う。造形家は、絵のタッチも重要視するだろうから、鉛筆画タッチのほうが好まれるのだろうか。

実は、美術解剖学を学んでも人体が作れるようになる訳ではない。それは、あくまでも造形の手助けとなる人体構造の情報を与えてくれるだけだ。
説得力のある人体を造形するには、実際のモデルの観察は必須である。モデルの観察による造形に、補助として解剖の知識が多いに役立つのである。日本では、造形家がモデルを入れることは多々あるだろうが、その観察だけで造形をしている例がほとんどではないだろうか。日本人は、もともと鋭い観察力を持っていることは、日本画における描写を見れば分かるが、もし西洋美術を指向しているなら、西洋的な観察の仕方をしなければならない。解剖学的な観察視点というのが、まさにそれであろう。主観だけを信じない。解剖学という客観を取り入れることで、普遍的な形の公正性をそこに取り込もうとするのである。現在、医学の臨床ではさかんにEBM(Evidence Based Medicine:根拠に基づいた医療)が叫ばれているが、解剖学を芸術に取り込むという考えは、それに似ているようで興味深い。EBE(Evidence Based Expression)とでも呼ぼうか。

モデルの観察と、解剖学の知識。どちらか一方しか選べないとするなら、作家はモデルの観察を選ぶだろうし、それが正解だろう。だが、そんな状況は世界のどこにもないのだ。解剖学の知識をそこに加えることで、観察力に大きな違いが生まれる。すばらしくピントが合う眼鏡を手にするようなものだ。

現在売られている美術解剖学の書籍の内容と方向性は間違っていないが、少々不親切かもしれない。それはつまり、表現の初心者がそれだけで人体造形が出来るようになる訳ではないという事実と、その情報を使いこなすには実際のモデルの観察と知識の咀嚼という時間が必要であることが明記されていないからだ。そのせいで、手を出してみたものの理解しきれずに、結局、解剖学を手放したひとも有るだろう。美術解剖学など造形の役に立たないという意見は今でもよく聞くが、これらが原因の一つかもしれない。

情報は正しく使われることで最大の効果を発揮する。人体に関する美術解剖学的な基礎的情報は十分なストックがあると言えるだろう。今、必要とされるのは、情報の追加ではなく、その使用方法の提示なのだろう。

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