生物は、DNAによって、自己を作り、同種を存続させてゆく。私たちが、ATGCというたった4つの塩基の配列の組み合わせから出来ているという事実は、今では当然のように語られるが、冷静に思えば思うほど、衝撃的な事実であり、生物の存在という事実に対して様々な示唆をそこに見ることも出来る。
ワトソンとクリックによるDNAの二重らせんの発見から20世紀後半のヒト・ゲノム・プロジェクトへの流れは、コンピュータの発展と切り離せず、それは、時代の情報化とも関連付けられるだろう。いまや私たちの存在は、”肉体”から”情報”へと昇華された。それも、ATGCの4つというデジタイズされたものだ。デジタル情報というものは扱いやすく、信用できる。それは現在のインターネットとコンピュータの普及を見れば一目瞭然である。電話も写真も音楽もおよそ「伝える」目的があるものは軒並みデジタル化の洗礼を受けた。デジタル化することで、意味がない情報を捨て、伝えたい情報も劣化することなく次へ伝えることが出来る。
私たちの存在は、種としての目的で言えば次世代の子孫を残すことに尽きる。それは、私の遺伝情報を「伝える」ことに他ならない。DNAとメディアのデジタル化が図らずも相似の目的と手段を取っているのは興味深い。
それにしても、これだけの多様性を生み出してまで連綿と進化を紡いできた生物が塩基配列まで還元出来てしまうのは、まるで、私たちの本質は遺伝情報に過ぎず、私たちの存在とは塩基配列から析出した結晶であるとさえ思えてくる。かつてジャック・モノーが「偶然と必然」で、生物と鉱物結晶を比較していたのを思い出す。
しかし、たとえ私たちが「動ける結晶」であったにせよ、現実的に重要なのは肉体であろう。自分にとっての魅力的な相手というのが実は魅力的な遺伝子の析出であると考えるのでは、魅力そのものが輝きを失う。
それに、DNAか肉体かという概念は、二元論的でもある。私たちの存在についての明確な1つの解答というのは、そもそもあるのかも分からない。
ともあれ、私たちはそれぞれが1つの肉体を所有しているという事実がある。そして、人生の命運の全てがその肉体と共にある。たとえ、真の存在理由が情報伝達であっても、個々の人生のリアリティは肉体にこそ宿るのだ。それは、いままでもずっとそうであったし、これからもそうであるはずだ。なぜなら、情報を伝達するための手段として、生命は肉体を持つことを選んだのだから。
真実はいつも表現形の奥深くに隠れている。
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