意思、文明がいつ芽生えたか。そんな答えのない疑問に時々思いを巡らせる。それらが生まれた具体的な事象や時間についてはそれこそ確認のしようがないことだが、生まれたきっかけや原因については「こうであろう」と推測することは可能だ。なぜなら、私たち自身の身体がそういった歴史を通り抜けてきた形なのだから。
都会では、移動に何かと電車やバスを利用する。乗り物に乗ってしまえば後は運んでくれるから、その間に読書もできる。公共移動機関がない時代は自分で歩いていたので、読書などできない。つまり、社会が安定しシステムが整うと、それまで自分でしていたことをしなくてもよくなり、その分の「自由時間」が手に入るようになる。意識、文明というのはこの自由時間を手にしたことが大きいのではないか。
生活のために全てを自分でしているうちは、その事だけに手一杯で、自分の周り以外からの情報を入手して世界を広げることなどできないだろう。流れ作業の中で考え事をすることはできても、自分の内のものをこね回しているだけでは、広がりに限界がある。自分が知らなかったこと、持っていなかった知識、そういう「外からのもの」を入手することが、自己世界を広げることに繋がっている。しかし、それら自分の内に無かったものを自分のものにするには時間が必要なのだ。理解する時間が。そういう事に時間が裂けるようになり、「知のちから」を知ることから発展して文明が気付かれていったのではなかろうか。
文明の前に意思が生まれていただろうが、その記録として古代芸術が指針となろう。出土した最も古い時代の頃はまだ狩猟時代だ。それでも、狩猟の技術が高度化し、きっと獲物も豊富な時代で、狩りをして生きる事だけに全生命を傾けなくてもよい時代になっていたのだろうと想像する。そんな中で心に自由時間が生まれ、自意識に気付き、芸術を生み出し、知の記録と伝承という文明への準備が始まった。そういった心の準備が整っていたからこそ、やがて小麦を栽培するという農業革命も起こりえたに違いない。そこには高度な知識の伝達が不可欠だからだ。
現代では、知の伝達はだいぶ体系立っている。「学校で学ぶ」という一連の仕組みは、言わば生きる事に直結していない自由時間を「有効なしくみ」として明確に生活から分離して与えるものである。重要なのは「今を生きることに直結していない」ということだ。今を生き残る訓練だけをしていては先の発展が起こらないのである。特に義務教育課程においては、そのような「ハウツーもの」は必要としない。それらは各家庭で親家族から得るものとしているのだろう。時々、「因数分解や理科の実験など社会で必要か」などという素朴な疑問を聞くが、答えは上記の通りだ。もしくは繰り返し言うなら、人類は長い時間を過ごした「生きるためだけの知識の習得と実践」という自転車操業的な低い発展性の時代から、やっと手に入れた自由時間を利用して、知を集積し伝達することによって文明を作り出した。それを現代的には教育と呼ぶのである。
我々はそこに、文明と私たち自身の未来への更なる拡張の可能性を託しているのに他ならない。可能性を広げておくには、具体的な目的は掲げられない。だから、学校で学ぶことは、明日必要なことではない。そこで知ることは「広がる未来を生み出すピース」のひとつひとつなのだ。
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