練馬区立美術館で舟越保武展が開催されている。作家人生全体を見通せるような構成で、数多くの彫刻作品と素描が展覧されている大規模なものだ。
久しぶりに舟越保武の彫刻をまとめて観た。作品を観て感じる印象は以前から変わりがない。どこか不安な感覚になる。完全な安心感がそこにない。ここでの安心感とは、作品の文脈的なものではなく、造形的な側面のことだ。つまり、絶対的な技術力に裏打ちされた完全なる造形作品といったようなものではなく、どこかに造形的な破綻がいつもあって、それが鑑賞していて不安な気持ちにさせるのだと思う。
以前の展覧会で、舟越の首像をためつすがめつ眺めて気付いた造形傾向がある。それは、右の頬が左より奥まっているというものだ。気付いている人がどれだけいるのかは知らないが、仰ぎ見たり見下げて見れば分かると思う。多くの作品に同様の傾向がある。意図したものか単なる手癖かはよく分からない。ただ、この造形傾向が舟越作品の表情に影響を与えているだろうとは想像できる。
今回の展覧会でも、この安心できない感じはどこから生まれるのかと考えつつ作品を見回していた。そして改めて気付いたことが2点ある。ひとつは、頭部の形状と表情との解離。もうひとつは、希薄な統一感だ。
まず初めの、頭部の形状と表情との解離は、舟越作品に特徴付けられる「美人顔」が大きく影響している。顔というのは、私たちにとっては、立体的構築物というよりむしろ平面的に捉えられる対象である。その意味で、立体的な造形を作る彫刻にとっては挑戦的な対象だと言えるだろう。そのなかにあって、舟越の作る美人顔は、立体と言うよりむしろ平面的に捉えられた「線描写によって生まれる表情」を持っているように思われる。実際、舟越は美人顔を生み出すための多くの素描を残している。それらを見ると、線の曲線の連なりによって、まずは平面的な紙の世界において美しく見える女性の顔の「線」を探っている様が分かる。実際の顔が立体物だとは勿論知っているが、美しいと感じる女性の顔を認知するときは、それが光線による平面的な図像として捉えられているのである。だから、舟越にとって、立体的な彫刻で美人顔を再現する作業は、平面図で捉えた2次元像を3次元的に再現する作業としてあったのではないかと想像できる。
しかし、この捉え方は実は彫刻的な対象の捉え方とは違っていて、むしろ、難しい手順であるとさえ言えるのである。例えば、ロダンやミケランジェロなど古典の巨匠は、そのような対象の見方はしていない。立体である彫刻を作るに当たっては、あくまでもまず対象を立体的構築物として認識するところから始まっている。立体は立体として見ることで、それを立体として破綻せずに再現できるという考え方である。舟越も学生時代は、彼ら巨匠に憧れたはずで、芸大においても彫刻的視覚を体験的にでも知ったとは考えられるが、その見方を誰もが身につけて実践するわけではない。舟越も、自身なりの美人像を見つけるに当たっては立体的な構築から探るよりむしろ、線という平面的な要素から見つけ出す方法を採ったのだろう。ところが、若い頃に身につけた彫刻的な対象の捉え方を完全に捨てたわけでもない。むしろ、その頃に培った彫刻的な物を捉える「背骨」がしっかりと残っているからこそ、平面的な表情だけの希薄さに流れることがなかったとさえ言える。それは、舟越彫刻の特に頭部を見ると分かる。私たちは、舟越彫刻の美しい女性の表情に目を奪われがちだが、その表情は頭部の量に乗っかっていることを忘れてはいけない。だから、表情とそれが乗る頭部との両方が見えるように少し遠ざかって作品を見るのだ。そうすると両者の関係性が見えてくる。そうして気付くことがある。舟越彫刻の美人像のほとんどにおいて、頭部の構造と表情とが完璧に調和していない。そう、「していない」のだ。頭部の形状の前面に美人顔のお面を付けたような、そういう不調和を見る。しかし、それが完全に遊離してしまってはいない。そういう”傾向”が見て取れるという程度である。なぜそうなるのか。ここに、立体的な造形として対象を見る彫刻家的視点と、美人顔を平面的描写から探った絵画的視点とがぶつかり合っているのである。舟越作品の頭部の量付けには彫刻的な捉え方がしっかりと存在している。それは、ごく初期の石彫頭部作品においても既に見て取れる。初期の頭部作品を観ると、顔の造形も、立体的な構造要素から構築しようと試みているのが分かる。だが、いわゆる美しい「舟越美人」顔が現れると、表情が平面的に変化していく。舟越は、立体的な構築で生まれる表情にどこか硬い印象を感じ違和感を感じていたのではないだろうか。というのも、初期の作品の、立体構築で作られた頭部の表情などにはどこか機械的な堅さが現れているからだ。実は、「立体構築に現れる堅さ」は舟越彫刻の特徴のひとつで、特に全身像においては初期から後年までずっと現れている。もうこれは、形の見方の個性とでも言わなければ片付かない問題なのかもしれないが、結果的には舟越作品の特徴となっている。舟越は、構築的に造形した頭部に、平面的な表情(を立体的に再現したもの)を載せて作品を完成させていた。
もうひとつ、舟越作品全体から感じるのが、希薄な統一感だ。それは、先にあげた「立体構築に現れる堅さ」と同じようなものを指している。これが特に感じられるのは、裸体全身像である。これらの像を頭部から下へと見て、全体として1人の体としての調和が完璧ではない。どこかぎくしゃくしている。これに気付いているひとは多いのではないだろうか。まるで、頭、胴体、腕、脚、と部位別に分かれた部品を関節から曲げてポーズを取らせた「デッサン人形」のような堅さを持っている。同様の”現象”は古代ギリシアの彫刻に見られる。当時の彫刻は関節毎に長さが決められて理想化されたものが彫像として作られたために、そのセグメントごとに区切られたような堅さがどうしても表現に表れてしまう。そうではなく、実際の人体の内部構造を参考にしたルネサンスの彫刻では、関節と関節を繋ぐ筋や腱構造が意識されることで、各セグメントが有機的に繋がった。舟越の人体彫刻は、人体を部位毎に区分けして見ているように思われる。
このような見方は、着衣像ではより顕著で、舟越の着衣像ではもはや内側の裸体は意識されていないようにさえ感じられる。衣服の皺は直線的で、身体を覆う物というよりむしろそれ自体が重々しい構築物のように見える。だからその端から出ている手などは、見えている部分だけのパーツが取り付けられているようにさえ見える。『聖マリア・マグダレナ』は、そのような表現の最たるもので、もはや最下部は円となりギリシア柱の基部と化し、胸の部分に出てくる手は取って付けた”部品”のようだ。
整っている美人顔に見えて、実は左右で大きく歪んでいる。頭部と顔との表現技法に違いがある。全身が全体としてまとまっていない。こう言った要素を言語化すると、まるでネガティヴな要素に聞こえる。実際、ここで挙げた要素は彫刻を学ぶ際にも陥りやすいところで、多くの彫刻がそのせいで失敗に終わる。重要なのは、舟越作品はこれらの要素を失敗ではなく、強み(うま味)に変えている、その領域にまで達しているという事実ではないだろうか。完璧に構築された、非の打ち所のないような作品達ではなく、どこか危うさを放ちつつ、儚いなかで揺らいでいる。揺らいでいるけれども、しっかりとした根を張った生命感を宿してもいる。そういった、強さと儚さの両立が、舟越彫刻に流れている。
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