2015年7月18日土曜日
髙畑一彰展を観て
ギャラリーの前で立ち止まって見ているサラリーマンがいた。ギャラリー前に着くとなるほど理由が分かった。全面ガラス張りのギャラリー内部に3つの彩色された大きな首像がこちらを向いて置かれているのだ。白壁の無機質な空間に、リアルに色付けされた顔がこちらを見ているのだから、つい足を止めてしまうのも分かる。
より厳密に言うなら、これらは首像というより胸像に近い。つまり、切断位置は頸ではなくもっと下の乳頭の高さほどである。しかし、頸から下はもはや造形されていない。肩幅もなく、単なる”地山”と化している。頸までしか造形していないという意味で、首像と言おう。
ギャラリー内へ入って近くで見ると、良い。何が良いって、この大きさが良い。全ての像が実物より遙かに大きく、その顔は50センチほどはあったように思う。大きいのだが、見ていてその大きさをうるさく感じるようなことがない。むしろ、この大きさがあることで、細部が自然に目に入り、それが実際の大きさの人物の顔を見ているときのようなリアリティを感じさせる。「実物より少し大きく作る」というシンプルな手順かもしれないが、その効果は大きい。大きさと現実感との関係性は彫刻の大きなテーマでもある。
3体の首像達は白人である。2体が男性で1体が女性。女性の像だけは、胸部に乳房が丸い2つの玉のように作られているが、それは何かぶっきらぼうな印象の造形で、ちょっとした遊び心で付けられたもののようにも見えた。これらの首像を見ていると不思議な感覚を覚える。彫刻という立体物を見ているのだが、とても絵画的だからだ。そう感じさせる大きな理由は、彩色に依るのだろう。彩色されることで彫刻はその命である”量感”が隠される。私たちの目は色彩を追ってしまい、彫刻で楽しむべき量感は薄らいでしまうのだ。その造形がある一定の(そしてこの作品達のように)リアリティを持っているとき、色彩によって彫刻というより実在の人物を見ているような錯覚を引き起こす。現代において彫刻というと、ブロンズなどで作られて彩色されていないものを想像するが、実際は、歴史的にも多くの彩色彫刻は作られてきた。今回の作品達も、そのたたずまいや色調などは、ルネサンス期に作られた多色彩色のテラコッタ胸像などを思い起こさせる。
近くによって顔の造形を見ていると、かつて私自身も首像を造っていた頃の感覚がフラッシュバックして、ちょっとそわそわした感覚に陥った。そうだ、頭部の造形で難しいのは頬の形を掴むことだった。むしろ、目や鼻や口は細かい起伏が多いので形が決まりやすい。面積が広い上にこれと言った明確な起伏のない頬は、捕らえどころが無く難しい部位だった。頬の面は、正面から見ても側面から見ても広く見える。だから、彫刻の初学者は、「顔は正面」という強いイメージに引っ張られて頬を正面に向けすぎて、結果扁平な顔の造形に陥るのである。もし、頭部を作ろうとするなら、「頬は側面」と思った方が良い。そんなことを思い出していた。頬の造形は思い出深い。
ところで、先にこれらの首像に絵画的な印象を受けたと書いたが、その理由のもう一つには、顔面部の造形処理そのものにある。主観的な表現になるが、この大きな顔面を作っている目や鼻や口、そしてその周囲にひろがる凹凸やシワなどの構成要素が、”線的な造形”をしているのだ。線的な造形とはどういうことかと言うと、例えばある溝を造形するとして、それを二つの盛り上がった量の谷間として造形するのが”量的な造形”であって、溝を”溝”としてえぐって作るのが”線的な造形”といったところだ。つまり、これらの首像の表情を構成している諸要素、例えば目は、予め目としてそこに造形された。鼻は鼻であって、口は口なのだ。当たり前のことを言っているように聞こえるだろう。しかし、この見方はとても絵画的なものであって、むしろ彫刻的な見方では、口周囲の量のひしめき合いの結果が口となるようにする。
他にも、造形を見ると、幾つかの特徴が見て取れる。たとえば、横から見たときに、耳から後頭部までの長さに対して耳から顔面部までの長さが大きい。頭部を支える頚が比較的垂直に立って伸び出ている。頚が胸部と出会う部分の特徴的な胸骨・鎖骨周囲の造形がない、などなど。これら、全体に見られる造形の特徴が指し示すものは何か。それは、作家の顔への執着、それも正面から見た顔である。3つの大きな顔は、そろって顔面をギャラリー外を行き交う人々へ向けていた。真っ直ぐ正面を向いて。
更に他の作品が2階にもあると貼り紙に書かれている。2階の広くはない展示室には、別の首像が2体と、大きな顔面だけが描かれた素描が壁に掛けられている。首像の一体は長髪の女性像で、長い髪が頚の横を下へ降りて、一番下ではもはや髪の毛だけが地山となったような造形である。もう一体の男性像は、開けられた目には眼球がなく穴がぽっかりと開いている。口も開けていてそこも穴。耳にも外耳孔が開けられている。それらの穴から覗く黒い色はこの首像が空洞であることを見る者に伝えている。まぶたにはまつげが植え込まれていた。生き生きとした顔色に塗られていながら、眼球の収まっていない顔は、異質さが際立っている。壁に掛けられている大きな顔面の素描も異質さを放っている。成人男性の頭部だけが描かれ、まるで空中に顔だけが浮かんでいるようだ。その顔は、「顔」として描かれていた。顔面の構成要素のあり方の特徴は彫刻作品で感じられたものと同様である。
2階の会場には、作家の高畑氏がいて、作品について少し話しを聞くことができた。
「顔が作りたかった。本当は顔しか興味がない。でも、顔だけという訳には、お面作るわけにはいかないからね。」
高畑氏のこの言葉は真実だろうし、それは作品からも感じ取ることができる。今までには、全身像も作ったが、それも顔を作る延長で作ったに過ぎないと言う。言うならば、顔を納めるための土台としての体だろうか。
顔は、人体の中でも一際特殊な領域である。それは、言うまでもなく、私たち人類が、顔を使って互いの意思疎通を図っていることに依る。ヒトという動物へ進化することで、両目は前を向き、顎は短くなって後退し、結果的に私たちの顔は平坦になった。顔に面ができたのである。だから我々は、コミュニケーション時には互いに”向き合い”、正面の顔を見せ合う。しかし、顔”面”と言っても実際にはそれなりの奥行きのある立体物なのだが、それを私たちはとりあえず”面”として捉えるようになったのだ。この面の中でコントラストの強い目や眉や白い歯を見せたりして表情を作り、そこに言語を加えて多くの情報をやりとりしている。脳では、私たちの顔面は特徴だけを捉えた抽象的顔面表情、つまり表情の記号として認知される。分かりやすく言えば顔文字である。そのような仕組みが頭の中に出来上がっていることは、例えば「(^o^)」という記号の羅列が”嫌が応にも”顔に見えてしまうことからも実感出来る。
私たちにとって顔とは正面から見るもので、そこに2次元的な視覚情報が現れていれば満足なのである。その意味において、顔とは彫刻よりも絵画的な存在である。その顔に興味を持ち、立体である彫刻でアプローチすることは、それだけで挑戦的な意味合いを既に持っていると言えるだろう。高畑氏はまた、横顔に興味があるとも言った。顔に興味があって、それが横顔だと言うので、以外な印象を一瞬受けたが、それは顔の造形を見るという行為でもあることから、彫刻家的な視点が最初にあることを意味しているのかも知れない。それにこれらの首像がことごとく白人であるのもこの言葉と絡んでくる。白人の頭部は、我々東洋人の頭部と比べて、前後方向に長い。つまり”彫りが深い”ので、側面からの描写に現れる要素が多く、面白みがある。よく人物紹介のことをプロフィールと言うが、これは本来「横顔」の意味だ。西洋では古くから横顔の影に線を引いて影絵とし、それを簡易肖像画として用いていた。ルネサンス期に多く登場した肖像画も多くが横顔である。顔が扁平な我々東洋人ではこの発想には至らないだろうと思う。
顔という平面的要素を、頭部という立体的要素で捉え、彫刻というこれまた立体物で再現する行為。この作業過程で、作家は平面と立体の認識を常に往来し続ける。その過程において、特に悩ましいのは、顔と顔以外の頭部との接点ではないだろうか。頭部において、いったいどこまでが顔なのか。このことに解剖学的な事実から答えることは比較的簡単かもしれない。なぜなら、複雑な表情を作り出す顔は、その筋の着き方から命令を送る神経まで、あたかも独立した一系統を保持しているように見えるからだ。しかし、その事実と、私たちの抱く顔の領域とが完全に一致するわけではない。立体的な頭部における顔の輪郭はどこなのか。彫刻としてそれを造形するには、その境界を意識せざるを得ない。そして、実際にその境界は会場の作品達に表されていた。それは一彫刻家による、形態と認識の波打ち際である。
高畑一彰展
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