感覚に触れるどんなものにも「レベル」がある。感覚に触れるものというのは、言い換えれば私たちが感覚する対象のことで、さらに違う表現で言うなら、それは私たちが主観的に感じる事柄のことだ。何だかまどろっこしい言い方になったけれど、直感的に分かりやすいたとえで言うなら、幼少期に見ていた世界と今見ている世界の違いという類のことである。アフォーダンス理論のギブソンは直接知覚論において、情報は外部世界にありかつそれらはパブリックであると言った。パブリック、公共的であるということは、そこからどんな情報を得るのかは、得る側つまりそれに出会った私たち側にゆだられているということだ。外部世界の刺激に対応して何らかの知覚、感覚を引き起こしている私たちにとってそれらは、およそ全ての行動のきっかけとなるものだ。
しかしながら、私たち人類は、同種つまり人間ばかりが集まって生活圏を作り上げる特殊な生き方をしている。身の回りにあるものの多くは、人間が人間の為に作り上げた物なのだ。それらの物は、非人為的な外部自然とは全く違う趣きを持つ。すなわち、”存在に目的がある”。車は人や物を載せて移動するという目的。冷蔵庫は中で食料を冷やしておくという目的などなど。それら、明確な目的の元に作られた物たちに対しては、次は私たちがその役割を”正しく読み取り、扱う”ことが求められる。かつて自然界において、火と対峙していた私たちは、それを「灯り」としても「調理の道具」としても用いたが、いま台所のコンロで燃焼している火はもはや灯りとして用いることは”誤った使用法”となった。人間界における物たちはそのどれもが意味を内包している。火が内包する意味は元来無目的でパブリックであった事実は、本質的には今も変わりがない。しかし、文明という形式に則るのであれば、その上に加わる「定義」に従わなければならない。これは人間文明の中で生きていくのであれば必須のスキルである。ギブソン的なパブリックな意味合いの上に、ここでは人間界としてのある偏向した意味合いが加わっている。これをここでエピパブリックと仮称する。こうして、元来の自然物として世界から読み取られるパブリックな情報から、あるバイアスが掛かったエピパブリックな情報まで世界には「レベル」がある。
更にまた、横の広がりもそこに見られる。パブリックな情報が、エピパブリックな情報へと「区切られる」とき、それまで無段階的な広がりを持っていた情報に断絶が生まれる。先に例えで出した火が、「灯りの火」と「調理の火」とに区切られたように。灯りか調理かは具体的な目的を持った区切りだが、区切りはそういったものに限らず、より主観性が詳細に入り込むことを許す。この横への断続的な広がりを、ここではパラパブリックと仮称しよう。パラパブリックの詳細性が顕著になるのは、人為の介入と比例するようだ。つまり、その最たるものが芸術などの表現物である。絵画や音楽、文学や映画などは段階こそ様々だが、かならず情報がエピとパラのパブリック性を帯びている。
子供の頃にはまったく興味の沸かなかった作品が年齢を重ねると良さが分かるという事はよくあるが、それは、感受する我々が、作品が持つエピとパラのパブリック性の範疇に入ったことを意味しているのである。
エピとパラのパブリック性は人為によってもたらされるという点を改めて強調したい。それらは、非人為物には存在していない。結果的に自然物と非常に似通っているものは多い。例えば、自然界において黄色と黒色のコンビネーションは警戒色で、ハチのように毒を持つ動物がその色合いを持つことがある。同様に、線路の踏切も黄色と黒色の縞模様が用いられる。それらを見て、私たちが主観的に湧き起こる「警戒」という感覚は同じだが、ハチの色合いから得るのはパブリックな情報であって、踏切の色合いから得るのはエピパブリックかつパラパブリックなものである。
以前、芸術における裸体の問題、つまりネイキッドとヌードの違いについて考察したことがあるけれども、それもこれで明確になる。すなわち、裸体をパブリックな情報として捉えるのがネイキッドであって、そこに表現が入り込むことでエピとパラのパブリック性を帯びた裸体がヌードである。つまり、ヌードとなることで、裸体は自然物から人為的表現物として変化していると言える。
さて、これまで述べてきたものは、全て外部が内在する情報についてであって、私たちがそれらについて感じ、語ろうとする時には既に私たちの主観のフィルターを介していることを忘れてはいけない。だから、ある特定の事物についての好みや感じ方は非常に細かく細分化されるだろう。自分が何らかの対象と対峙したときに何を感じているのか、それは一寸捕らえどころが無く感じられるけれども、その発端である情報を、まず区切ってみることで、整理される部分も大きいのではないだろうか。
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