2018年6月12日火曜日

美学

   視覚表現も言語体系の影響を受ける。私たちの世界の捉え方が言語体系に近いからだろう。高度に概念化された言語は、その性質に近い形を取っているのだと思える。視覚表現は、そのような認識のフィルターを通過して、言うならば、ある程度の整理がなされた状態を示している。だから、私たちの認識以前として存在する自然状態と比べて、必ずなんらかの強調が加えられているのである。そしてそれらは言語体系の組まれ方の方向を向かっている可能性がある。構図、色彩、形態、それら視覚情報は完全なランダムではあり得ないのだ。言語が語学体系を内包しているのと同様に、視覚芸術もまた何らかの体系、構造とも言い得るような組み立ての規則が見いだせるだろう。そして、それらが巧みに組み上げられているほど、その評価もまた高くなる傾向にある。人は意識的理解に最も価値を見出す。意識的理解は言語によってなされる。つまり、それら視覚表現も結局は言語に置き換えられなければならない。それが可能なものが評価の対象になり得る。言葉に翻訳可能だからである。

   しかし、それは大きな皮肉でもある。元来、視覚表現を用いる視覚芸術は、言語で語り得ない、伝え得ない対象を伝えることを担っている。そうであるにも関わらず、言語化されなければ評価されないのだから。
   ただし、そうは言っても、視覚芸術の全てが言語化可能であるはずはない。そもそも、言語は世界の全てを語り得ない事は誰でも経験上知っているだろう。完全ではない言語だからこそ、その曖昧さ、不安定さが文学を支えている。拍と拍の間合い、そう言うものが行間に語間に現れる。それは言語の不安定さの証明でもある。

   人は人である以上、言葉、言語の精度を常に高めていくだろう。それは、私たちの世界認識の精度と連関しているのだから。それでも、どこまで行っても、行間をすり抜けていく感覚は存在し続ける。そこに挟まって見えるもの。それが非言語的認識で、視覚芸術を含む芸術の領域であり続けることもまた変わりがない。
   言語的認識はつまり、科学的視点である。これと非言語的認識とは対の関係性だと言える。対であることで、互いの存在を強調することができている。私たちは、このことを常に明確にしておかなければならない。なぜなら、その認識の不明確さが勘違いを引き起こし、科学のつもりの芸術もどきを作りかねないからである。その反対、つまり、芸術のつもりの科学というのは起こり得ない。なぜなら、それがもし起こったなら、それは科学になっているからである。


   両視点を明確に捉え、言語的認識の精度を上げていくことで、行間に潜む非言語的認識の有り様、その輪郭が、明瞭になるだろう。そして、その積極的行為と体系の総体が美学である。

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