2018年7月9日月曜日

美術における人体構造学


   最近では、人体の内部のつくりについての学問を「解剖学」の呼称にまとめることをせず、「人体構造学」と呼ぶことも多くなった。とは言え、一般的な認知度では相変わらず「解剖学」呼称の独り勝ちであることは、書店に並ぶ本のタイトルを見ればわかる。ではなぜ、大学の講座名や講義名では「解剖学」と呼ばなくなってきているのか。それはこの単語が持つ本来の意味と、行われている実質的内容との距離が開いてきたからであろう。解剖学は読んで字の如し、人体を切ってばらしながら探求するという意味合いがある。解剖学を行うには解剖実習室と解剖道具そして何より死体が要る。しかしながら、現代では人体についての探求は、必ずしもメスとピンセットで切り開かなければ分からないものばかりではない。放射線や磁力、超音波を用いることで切り開くことなく体内を見ることが可能であり、しかもそれらを立体的に見たり、触れる素材として出力することももはや特別ではない。これらのように、人体を刃物で解剖せずに、人体のつくりについて学び研究するのであれば、血なまぐさい印象を纏う「解剖学」の文字は使わずに「構造学」を用いる方が内容に即していると言える。ただ、構造学という響きには、人間という生物が持つ柔らかな分からなさをも払拭して、どこか機械的で冷たい趣きがある。命ある人間も、その構成へと分解されるとそこには生命現象のまとまりは見えなくなり、物理化学的な現象の連なりがひたすらに連続しているばかりであるような。もちろんそれが間違っているわけではない。我々人間にとって対象の意識的理解とは理解の解像度を上げること、言い換えればピントが合っていることであり、そのためには対象に近づかなければならない。そして狭窄した視野の両隣りとの関係性を明確に捉えなければならない。「近づき、解像度を上げる」事に情熱を向けるのは、私たちが情報の多くを視覚から得ている事と関係しているだろう。
   しかし、細分化されたものはその階層での関係性で成り立っていて、それがそのままより大きな階層との関係性に連続していくとは限らない、いわゆる創発的性質がある。これが、理解を助けると同時に全体性を分断させる。それは仕方ないことではある。自分の日常と宇宙の進行の連続性を統合的に感じながら生活するのはなかなか難しい。さっきこぼしたコーヒーと白鳥座のブラックホールが関連していると考えるようなものだ。そうは言っても、自分の存在以上に目を向けるよりは、ずっと意識しやすいはずだ。自分という限定された物質内での出来事だと考えるなら。
   個人の階層から始めるなら、器官系、器官、組織、細胞、細胞内小器官、分子と階層を降りていく。私たちがものを食べて、それが吸収され、やがて自分の一部として役立つ過程は、この階層性の一往復に相当することが分かるだろう。階層性は層を跨ぐのだから、高さの概念である。もう一つ、同じ層にあっても横の概念がある。例えば器官系のひとつ循環器系ならば、その名称の元である循環現象を生み出す心臓を「親」に見立てることができよう。その拍動がなければこの器官系の存在意義がないのだから。そうして一方通行の血流が起こることで順序が作られる。心臓から出るのは動脈で帰るのは静脈という大原則の元、肺循環(機能血管系)と体循環(栄養血管系)という2つの循環が生み出される。これら同じ階層内にある機能的な横の連なりの概念を分かりやすく「親子関係」と呼びたい。親子関係の世代の異なりが階層の概念と結びつきやすいかもしれないがそうではない。これは影響力の主従関係のことで、子は常に親に従う関係性を持っている。循環器系の例で見れば、動静脈の区分けなどは親である心臓の配下にある子だと言える。これは別の器官系例えば運動器系でももちろん言えることで、この系の仕事が主に機械的であることから、より分かりやすい。腕で例えれば、指の動きは掌の動きに従い、掌は前腕に従い、前腕は上腕に従う。つまりここでの最上位の親は上腕となる。これは、3DCGのモーション付け(リギング)では以前からある概念で、これを適用したIK(インバース・キネマティックス:逆運動学)はアニメーターの作業を感覚的かつ迅速なものにしている。
   ここまで示してきた階層性や親子関係は、理解の仕方つまり情報の分類整列だと言える。人体で行われている生命現象は全てが関連した壮大なエコロジーとも言い得るものなので、他と関連しない局所的視点の知識だけでは、トリビアとして楽しいが、あまり意味をなさない。これを知る過程とそのための組み立てを体系と言う。つまり、知り方の順序である。現代では、知識だけならばインターネット上に十分転がっているだろう。しかし、そこには体系がない。その様は、情報の広大な草原のようだ。どこへ向かっても何か見つけられる。しかし、それが最善の道かは分からない。ネットによる情報の獲得が用意になってもなお、教育機関が存在し、そこへ人が移動して教え学ぶのには訳がある。そこには道があるはずだからだ。

   美術系学校で人体構造を教えているが、その全てにおいて、絶対的な時間不足が生じている。時間が短いと何が起こるかと言うと、体系が失われるのだ。それは3時間の映画を3分で語るのに似ている。それは重要箇所を点として提示するだけになる。確かに、「上腕二頭筋は上腕筋の上に乗っている」と聞けば一つ知識が増えた気になる。しかし、これが造形の現場でどれだけ役立つだろう。短ければ短いなりの伝え方があるかもしれない。確かに体系的理解には膨大な構造知識も密接である。ただ、医学体系で組み上げられた現代の体系に縛られなければ道はあるかもしれない。


   解剖学を芸術に応用した最初期の例として挙げられるレオナルド・ダ・ヴィンチの解剖図とメモを見ると、その斬新さに驚かされる。実際、それらのいくつかはずっと後世にならなければ認められなかった。その先見性の理由のひとつとして、レオナルドが既存の知識体系を知らなかったからではないかとも言われる。それに加えて、レオナルドが経験を師とし、自分を信じたこともある。彼の手稿には、医学体系に縛られない人体構造の捉え方が示されているのだとも言えるだろう。16世紀以降、人体構造は紛れもなく医学によって推し進められ、知の敷石が順序立てて並べられてきた。それと同じくして平行的に進んできた芸術における人体表現とその参考的知識体系としての美術解剖学は、いつしか、発展した医学と関連してその敷石の上を歩むようになったように見える。
   500年を経たいま、改めてその序章を見直すことで、芸術に立脚した人体構造の見方への根源的な指針が見つけられるかもしれない。そこから、従来とは異なる、もう一つの隣り合った人体構造学が始まらないとも限らない。そうなれば、やがてそれはとなるだろう。

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