縄文時代の土器や土偶についてのテレビを見て。番組の最初から最後まで通底するのは、
「縄文時代なのにすごい」、「こんな昔なのに驚きだ」
という表現である。これらの発言が生まれる根底には、過去より現在が優れているはずだという暗黙の前提がある。きっとこれは本能のようなもので、いつの時代の人も、自分が生きている今がこれまでで最も優れている時代だと感じるのだろう。だから、1万年前に作られた物が現代よりも優れていると素直に認めたくないのである。「縄文時代なのに」という言い草は、ドラえもんでジャイアンが「のび太のくせに」と言うのと変わりない。しかし実際は、過去の蓄積によって発展するのは科学や技術くらいであって、それ以外は発展せずただ時代ごとに変化するだけだ。縄文人と現代人の身体はまったく違いがない。脳ももちろん同じだ。彼らが私たちより劣っているところは何もないのである。
これは縄文文化に限らず、古代芸術についても同様で、例えば洞窟壁画や象牙の小像などヨーロッパで出土する石器時代の遺物に対しても、「原始人なのにすごい」、「古いのにすごい」という表現が付いて回る。彼らは私たちと同じサピエンスである。同じ身体、同じ脳なのだから同じ感性が働いていて当然なのだ。洞窟壁画に現代美術性をみる人もあるが、さもありなんである。同じ人類が作った美術を見る時に古いか新しいかで美術的価値を判断するのは意味がない。
縄文美術を見ると、私はその異質さに不安を覚える。縄文時代と呼ばれる1万年前、確かにその場所は私たちが今「日本」と呼ぶ場所での出来事だが、彼ら縄文人は日本語は話していなかったし米も食べていない。神社の寺も仏像もない。学校も会社もない。何より”日本人“という概念がない。遺伝子は多少の連続性があれど、今の日本人に染み付いている文化的な自己同一性とは全く連続性がないと言えるだろう。私は縄文土器や土偶を見て、何か懐かしさを覚えるとか、日本人的であるとか、そういう感想は浮かんでこない。他国の古代文明遺跡を見るときよりは目に馴染んでいるが、それは幼い時から何かと目に入っていたからかもしれない。火焔型土器や遮光器土偶などは全く日本人的ではないと思う。だから、縄文土器の展覧会などで”日本の美の原点“と謳われると違和感を感じる。場所が同じというだけで現代日本人との連続性を声高に歌うことが正しいのだろうか。何というか、例えば英国人が「ストーンヘンジが英国の美の原点」と言うような違和感である。
現代との連続性よりむしろ、時が経てば今当たり前のように大事にしている文化も、綺麗さっぱり消え失せてしまうものだという事実を古代芸術は教えてくれる。日本人に馴染んでいる仏教美術の歴史は2000年ほどで、それを遡るとヨーロッパ美術との関連性が見えてくるように、数千年程度ならば連続性が垣間見られる。ところが、縄文美術の様式や、石器時代の女神像などになると現代に伝わる宗教や美術との関連性などまったく見られない。この時代に広く、強く信じられていた何らかの宗教と呼べるような行為は完全に途絶えているのだ。それは言わば文化的絶滅であり、ならば古代美術は文化的化石とも言える。
過去に実際に起こった事象が今後は起こらないとは誰も言えない。今当たり前にある文化も、数千年、数万年後には過去の遺物となっているのかも知れない。その時の人は、無数に出土する宗教美術品を見て、それらをどう価値付けるのだろう。
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