2019年6月10日月曜日

芸術は人

   芸術はその作品を鑑賞するものだが、その作品性が作家の性格を色濃く反映する事実は特筆するまでもない。それはつまり、良い作品を生み出すには、まず作家がよい芸術家でなければならないことを意味している。何もこれは芸術に特別な話ではなく、人の成すことはその人以上のものは現れないという事実を言っているだけだ。ただ、世間的な価値観との差異で気をつけなければならないのは、「良い芸術家=良い人」という図式ではない。もちろん、それが成り立つ人もいるだろうし、その人は社会的にも生きやすいだろうが、明らかに社会的には問題のある人が良い芸術家である事実は少なくない。ただ、個人的に感じることは、良い芸術を創り出す人は、魅力的な性格者であることが多いように思う。人に好まれたり目が離せないような作品を作る人は、やはりその人自身が、そういった性格の人物なのだと思う。作品はそれを作った人物の性格をかなり深いところまで明らかにする。おそらく、そのいくつかは作家自身でさえ気付いていないようなものだったり、気づいて欲しくないようなものかもしれない。制作者の内面性がそのように現れる媒体を芸術の定義としても良いだろう。もちろんそれが本当に正しく内面性を読み取っているのかは分からないし判断が付かないが、それは、自分の性格を自分が本当に知っているとも限らない事とさほど変わらない。

   作品の魅力と作家とが分かち難く結びついているので、芸術は商業や工業のような匿名性がない。かつて、芸術家が自覚的になる以前は、作品に記名しなかったが、それでも作品の造形性に作家性が残っている。そして本質的に重要なのもそれである。これは個人の存在とその者の氏名との関係性と似ている。芸術の歴史を振り返ると、数千年の間に、ほんの数名の芸術家だけによってその方向性が決められてきた驚くべき事実に気付く。フェイディアスのように幸運にも芸術家の名前が残っていれば数千年の時を超えて名が呼ばれるが、そうでなくとも、例えばアマルナ美術やメソポタミアなど一度見たら忘れられないような表現に名の知られぬ芸術家の個性を見るだろう。私たちはその形が継承された時間の長さからそれを様式と呼んでまとめてしまうが、それらは時間の総体として生まれたのではなく、私たちの身体形状が環境と時間ーつまり進化ーによって磨かれたのとは異なり、まず強烈な個性の芸術家が1人だけ居たのに違いない。


   日本語で「芸術」とはよく言ったものだ。それは理論と実践が高度に融合しなければならず、そのためには時間が必要で、それも数年というような短いものでなく、人生と呼んでもいいような長いスパンが要求される。それも学校の時間割のように、もしくは日曜大工のように、もっとはっきり言えば趣味のように、人生の空き時間で飛び飛びに行えるレクリエーションの類ではない。芸術は芸術家の考え方(感性)と手業(芸)を高度に融合させるべく継続を続ける完成なき行為、そのような芸(わざ)の術である。

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