時は流れ、私が通った大学の校舎は最新設備の高層ビルとなり、お世話になった教授は3月末日で退官された。
かつて通い始めた頃の校舎は昭和一桁の竣工で、その一帯でもそこだけ取り残されたような古さを漂わす趣のあるものだった。もちろんそれは外見に留まらず、その内部も“ひと昔”どころか“五つ昔”いやそれ以上といった歴史的な蓄積を思わせるもので、古くさいと言ってしまえばそれまでだが、私は時の止まったようなその感じを好んでいた。教室の秘書さんや技官の方々も、それこそ教授より長く籍を置いていて、教室の歴史を体現しているようにも見えた。やがてその建物を立て直す事になり、在籍していた教室は近所の廃校小学校へ一時移ったが、それも区で保存していたほどの建物なので、床は廊下も含めて総板張りのクラッシックな趣あるものだった。エレベーターなどもちろんなく、日が傾き夕陽が差し込むとそこはかとない寂しさに包まれる、小学校建築だけが持つ不思議な空気を漂わせていた。軋む床を教授や教員、学生らが靴の音を響かせて歩いていた日々がもはや懐かしい。天井からは雨漏りがするのでビニールシートで滴る水をバケツへと誘導させていた。これらは遠い昔の話ではない。つい数年前のことだ。私の学生生活はこの廃小学校で終わったが、時折、諸用で教室へはお邪魔していた。それがついに今年、新校舎が完成し教室はそこへ移動することとなった。
免震構造の新校舎ビルは、エリアごとにロックされており、個人管理されたカードキーを持っていなければ建物内部へ入ったところでどこへも進めない。ビルの上層階の新しい教室は、全面ガラス張りで、こちらの廊下から反対側の廊下まで見通せるほどだ。つい数ヶ月前までの、木の床の小学校とあまりにも差が大きく、おかしな感覚になる。それまでの古めかしい環境との連続性が断たれ、全く新しい大学か、はたまた新しい組織か、それとも未来へでもタイムスリップしたように感じるほどだ。真新しい建物の内部はどこまでも直線的で無機質で、これまでの時に置いて行かれたようなのどかさはどこにも無い。そこにいる人々だけが以前と同じだが、それだけに何か、人間が建物に順応させられているように思えて仕方がない。長い期間、このような金属とガラスでできたカゴのような施設にいる事が、人間精神に何らかの影響を与えないとも限らないだろう。
今年度から来た学生は、つい先日までの教室ののどかさを知らず、この教室を長く取りまとめていた前教授も知らない。そして真新しく近代的な校舎を当然なものとして受け入れていく。時が経つとはそういうことなのだ。
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