そもそも生きる事と喜びとを単純に結びつけるべきではないのかも知れない。それは意識的に創り出したものではなく、見つけたものだ。つまり、生の喜びはそもそも与えられていたのである。重要なまちがいは、生を一生の事として、たった一つの事象としてまとめてしまうことにある。現実の生は一色ではなく常に変わっていく。幼少期、少年期、青年期、成人期、壮年期、老年期、そして晩年期と分ける言葉を我々が知っていることからもそれが分かるだろう。色合いが変わるのは人生の後半で、壮年期から人生の憂いは色濃くなり、老年期は諦めの色を帯び、晩年期ともなると達観の領域となる。ここで重要なのは、これら世代ごとの変化の主観が世代ごとに異なる点である。すなわち、晩年期の達観は、青年期の諦めとは本質的に異なるもので、ゆっくりと動き、滅多な事で驚きもせず笑いもしない老人の心境は若者には理解しがたい。その達観は若者が何か衝動をじっと我慢しているのとは本質的に異なる。それは、多くの経験を積んだから心が動かなくなっているのとも違って脳の器質的な変化によるもので、つまりは本質的に若者のようには心が動かなくなっているのである。これは、私たちが、5歳児のように遊べない事と同じである。
生の喜びはなぜ老齢とともに失われるのか。残酷な表現ならそれは死への準備と言うことになろうか。別の視点で言えば、種としての存在必要性の減少とも言える。加齢による肉体の衰えは雪が必ず融けるような自然現象とは異なり、進化によって作られた現象である。それは動物種ごとに寿命が異なることからも明らかである。加齢による身体の衰えはだから周到に準備された現象として見るべきだ。壮年期以降になると、身体には様々な不具合が生じ、身体機能の調和が徐々に失われていく。青年期以降の人生は、それまでに得てきた身体的能力の喪失の期間だとさえ言える。人類という生物の寿命のデザインは青年期が終わって壮年期に入る頃までで終わることを想定しているのかもしれない。そうすると本来は、せいぜい長くがんばっても人生50年ということになろうか。
ところで身体は全ての器官が同じ速さで衰えるのではなく、これは実感できるものだが、運動器系の衰えが早く、中枢神経系はそれより遅れて衰え、消化器系は最後まで働く。野生では運動器系の衰えは死に直結するので、自然界では老齢個体はほとんどいない。運動器系が衰えても他者によって保護されれば個体はより長く生命を維持できる。人類はそれを実行した動物種で、当然そこにはメリットが存在する。それは、より長く維持される中枢神経系の機能すなわち知識の維持である。人類は互いに身体機能劣化を保護しあい知識の伝達共有のメリットを最大限に利用してきた。さてそれが個人では種とは異なる意味合いを持つ。身体の運動機能より長く保たれる脳は、運動機能の低下の後も記憶というその主な仕事を継続する。記憶の呼び起こしは過去と今の比較に他ならない。それが、かつては可能だったことの喪失に気付かさせ、喜びを失わせる一因ともなる。
ところで、自分でこうして考えて大事な視点に気付く。それは私が“老年期未経験者”であることだ。老年期に達していない者が、観察と経験に基づいて、老年期は喜びが失われると言っていることが全幅において正しいとは当然思えない。しかし同時に未経験者は何も知ることができないというのもうなずき難い。結局のところ、喜びや悲しみといった感情は主観の最も深いところに根ざしたもので、個人的な彩りが強く、また同時に年齢期ごとにも異なるものとしか言いようがない。ただし、経験してもいないことを語れるのは人類に特有の性質である。
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