美術解剖学というネーミングは、実に絶妙だ。なぜなら、それを読んだ瞬間に感覚的にどんなものか理解できる気がする。
だが、具体的にどんなものかをその名前から理解しようとすると、とたんにつかみどころが無くなる。「美術」も「解剖」もその指し示している対称が幅広く、そのどこなのかが分からないからだ。また、この単語をどこで区切るのかで、意味合いも変わってしまう。
数式的に示す。
(美術)+(解剖学)
{(美術)+(解剖)}+(学)
(美術解剖)+(学)
上記の3様が考えられる。
美術解剖学は、明治時代に西洋から輸入された概念で、当初は「芸用解剖学」とも呼ばれた。つまり、「芸術に用いるところの、解剖学」という意味だ。これは、現在でも西洋で表される「Anatomy for Artist」からの訳だろうか。
しかし、やがて呼び名は現在のものとなり定着したわけだが、これは、やはり当時、多く参考にされたフランスの書「Anatomie Artistique」の訳が関係しているのかもしれない。
いずれにせよ、当時の概念では、「解剖学の知識を、美術造形の参考とする」というもので、上記の式の一番目に相当する。そして、これが現在でも原点であると言えよう。
しかしながら、医学のために編纂された解剖学は、必ずしも造形の手引きとして便利であるとは限らない。構造的や臨床的に意味のある部位が重点的に記載される医学解剖学だが、美術家にとっては、それよりも、外見上で意味をなす構造が価値を持っている。そこで、解剖学からより造形に意味のある項目を集中的に再編纂することで、より積極的に美術と解剖の関係性を強める方向性が出来てくる。それが、上記の式の2番目になる。現在、書店などで良く目にする書籍はほとんどこのスタンスで書かれている。
こうして、現在においてこれらの知識を得たいと思う人は、予め用意された”美術解剖”の知識を手にする事が出来るようになった。そこに示されているのは、多くの造形家や画家が知りたいと思う部分だけが抽出され示されているのである。このことには、良い部分と悪い部分がある。良い部分としては、情報が整理されているということだ。解剖学というのは、言わば体の地図帳(アトラス)であり、そこには方向性がない。その膨大な情報から、造形に役立つであろう部分のみを指し示してあるので、彼らは”道に迷わなくて済む”。悪い部分は、これも実は同様に、情報が整理されているということなのだ。このことで、人はその情報以外を見ようとはしなくなる。人体とは、「そういうものだ」と思い込んでしまうようになる。芸術家は、本来自由な観察眼を持ち続けるべきで、人体を数値や言語で捉えるような「生理学者的視点」は持つべきではない。
このような、相反する感情は、発展した学問、技術などには付き物で、結局は、使う側が利、不利を認識して使いこなすしか無いのかもしれない。
ところで、ここまでで使われている「解剖」の情報は常に医学の解剖学から拝借しており、美術解剖はそれを再編纂しているに過ぎない。この意味において、美術解剖学は、応用解剖学の一つとされるのである。
このような理由から、実は「美術解剖学を学ぶ」という言葉は、あまり本質的ではない。解剖学を学ばなければ、美術解剖学は理解できないからである。
上記の式の3つ目は、「美術解剖」という新たなジャンルを示しており、 以外の2つとは趣が異なることに注意すべきだ。広く考えるなら、上記の2つを包括した上での新ジャンルとも言えるかもしれないが、これは「美術」でも「解剖」でもない「美術解剖」であると捉えるべきだと思う。
これは、「美術(作品)を、解剖的視点を通して見る」というもので、あくまで鑑賞者的視点であり、上記の別の2つが制作者的視点であるところから、両者は決定的に違うと言えるのである。そして、そこに「学」が着く事で、鑑賞者的視点は、批評者的視点へと変化する。
近代以前の西洋芸術の主題の多くは具象で、人体も多い。16世紀以降では、写実的表現が標準だから、そこに解剖学的な分析的視点をぶつけることが可能だ。そして、そこから各時代の人の見方といった様々な情報を読み取る事が出来る。そこに、解剖学という科学的な視点を持ち込む事で客観的に作品を分析しようとする試みである。
このように、現在言われる「美術解剖学」は、その対称が制作者か鑑賞者かで、2つに分けられるのである。
しかし、最後の「鑑賞者」側にたつものを積極的に「美術解剖学」と呼ぶのは、恐らく日本だけではないだろうか。本来は、芸術学、美学の1ジャンルに分けられるものだろう。
2009年8月6日木曜日
人類進化の方向性 はだかの由来
私たちは、初めからこの形で存在していたのではない。私たちではないものから進化して、現在ここに至る。
だから、私たちの体は、私たちではなかった時代のものから作られているわけで、それを丹念に見る事で、由来の大体を知る事が出来るのだ。
私たちは、立ち上がり、道具を使うようになった。そして、常に仲間と群れる。これらの特徴は全てが繋がり合っていて、切り離す事が出来ない。
道具を使うのには、高度な知能が必要で、それは大きな脳と関連がある。大きく重い脳を頭のてっぺんに奥には、頭をまっすぐ垂直にしなくては首に負担が掛かってしまう。インドなどの女性が頭頂に物を乗せて運ぶが、人体構造的には理にかなっていると言えるだろう。
道具を使うことで、人間はマルチになった。身体に足りないものは道具で補えば良いのである。だから、私たちは、身体能力では、これといった秀でたものが無い。走りも、泳ぎも、木登りも、攻撃や防御も裸の体では自然界において全くお話しにならないレベルだ。
道具を開発し、使用することで、私たちはどんな動物よりも優位に立つ事に成功した。しかし、人類の皆が全ての道具を開発するのではない。それは非効率というもので、私たちは、大勢で集まって、分業を「発見」し、これを効率的におこなった。
こうして群れることで、私たちは「人類」としての最大のパフォーマンスを発揮することができる。某先生が言う「人という字はお互いに助け合う様を云々・・」は、人類進化的に言っても正しいのだ。
さて、人類の特徴で、とても目立つはずなのに比較的無視されがちなものがある。それは、私たちが「裸」であるということだ。人類以外のほ乳類を見回せば、裸がいかにマイナーな存在かが分かる。にもかかわらず、私たちはその「変」さに無頓着である。
そして、実際、この理由についてはっきりしたことは分かっていない。いったい、いつから裸なのか・・。良く聞く説としてサバンナ説というのがあり、端折って言うなら、発汗に都合が良いからとか、そんな感じだった気がする。対して、ユニークなものとしてアクア説というものがあり、それは、人類が一度水辺に適応したため、体毛を失ったというものだ。もちろんアイデアの発端には、海棲哺乳類が無毛であるというのがあるのだろう。これは、ロマンと意外性に満ちて魅力的ではあるが、殆ど支持されていないのが実情である。
わたしは、そんなに難しくないところに答えがあると思う。今の私たちを見ればよいのだ。今の私たちは、過去の私たちから続いているのだから。
わたしたちは、裸ではあるが、そのままでは外に出ない。人類にとって、裸と衣類は常に一緒にある。これには、大きな利点がある。すなわち、衣類による保温性の調節が可能であるということだ。野生動物には、夏毛と冬毛を生え変わらせるものがいるが、当然それは年に一度のみであり、生息域が変わらないからそれでよいが、逆に言えば、それは生きる範囲を固定してしまっているとも言える。もし、その生息域に住めなくなった時、彼らは生き続ける術を持たない。
だが、私たちは衣類を変える事で、さまざまな状況下で生活することを可能にした。現在の人類が地球のあらゆるところへ生活域を広げる事が出来たのは、裸になり、服を手に入れた事が大きな要因と言えるのだ。
体毛は、そもそも表皮の変化したもので、アルマジロやセンザンコウのように堅くなって体を保護したり、ヤマアラシのように攻撃性を持つようにも進化している。そうでなくとも、生息域に準じて体毛の質は変化しており、それぞれの動物においてなくてはならない特殊能力と言っても良いものだ。つまりそれは、チータの俊足や、ライオンの牙などと並べてもよい、各動物固有の能力である。
そのように見た時、身体の特殊能力を必要としなくなった人類には、速い脚も鋭い牙もいらないように、全身を覆う体毛も必要ではなくなったのだ、と言えるだろう。
牙を誇るライオンは、一生、それに頼って生かざるを得ず、チータは生涯走り続けなければならない。その能力を失えばそれは死を意味する。
同様に、ホッキョクグマはその体毛故に生活域を限られ、裸のゾウは北に上る事はできないのだ。
つまり、身体の特殊能力は、考え方を変えれば、その能力故にその動物を縛り付けていると言える。
人類は、その身体的な縛りをことごとく手放す事で、圧倒的な自由を手に入れたのである。体毛のその一つに過ぎない。
ただ、裸が先か、服が先か。そこは分からない。
道具が先か、脳が先か、の問題と同じように。
だから、私たちの体は、私たちではなかった時代のものから作られているわけで、それを丹念に見る事で、由来の大体を知る事が出来るのだ。
私たちは、立ち上がり、道具を使うようになった。そして、常に仲間と群れる。これらの特徴は全てが繋がり合っていて、切り離す事が出来ない。
道具を使うのには、高度な知能が必要で、それは大きな脳と関連がある。大きく重い脳を頭のてっぺんに奥には、頭をまっすぐ垂直にしなくては首に負担が掛かってしまう。インドなどの女性が頭頂に物を乗せて運ぶが、人体構造的には理にかなっていると言えるだろう。
道具を使うことで、人間はマルチになった。身体に足りないものは道具で補えば良いのである。だから、私たちは、身体能力では、これといった秀でたものが無い。走りも、泳ぎも、木登りも、攻撃や防御も裸の体では自然界において全くお話しにならないレベルだ。
道具を開発し、使用することで、私たちはどんな動物よりも優位に立つ事に成功した。しかし、人類の皆が全ての道具を開発するのではない。それは非効率というもので、私たちは、大勢で集まって、分業を「発見」し、これを効率的におこなった。
こうして群れることで、私たちは「人類」としての最大のパフォーマンスを発揮することができる。某先生が言う「人という字はお互いに助け合う様を云々・・」は、人類進化的に言っても正しいのだ。
さて、人類の特徴で、とても目立つはずなのに比較的無視されがちなものがある。それは、私たちが「裸」であるということだ。人類以外のほ乳類を見回せば、裸がいかにマイナーな存在かが分かる。にもかかわらず、私たちはその「変」さに無頓着である。
そして、実際、この理由についてはっきりしたことは分かっていない。いったい、いつから裸なのか・・。良く聞く説としてサバンナ説というのがあり、端折って言うなら、発汗に都合が良いからとか、そんな感じだった気がする。対して、ユニークなものとしてアクア説というものがあり、それは、人類が一度水辺に適応したため、体毛を失ったというものだ。もちろんアイデアの発端には、海棲哺乳類が無毛であるというのがあるのだろう。これは、ロマンと意外性に満ちて魅力的ではあるが、殆ど支持されていないのが実情である。
わたしは、そんなに難しくないところに答えがあると思う。今の私たちを見ればよいのだ。今の私たちは、過去の私たちから続いているのだから。
わたしたちは、裸ではあるが、そのままでは外に出ない。人類にとって、裸と衣類は常に一緒にある。これには、大きな利点がある。すなわち、衣類による保温性の調節が可能であるということだ。野生動物には、夏毛と冬毛を生え変わらせるものがいるが、当然それは年に一度のみであり、生息域が変わらないからそれでよいが、逆に言えば、それは生きる範囲を固定してしまっているとも言える。もし、その生息域に住めなくなった時、彼らは生き続ける術を持たない。
だが、私たちは衣類を変える事で、さまざまな状況下で生活することを可能にした。現在の人類が地球のあらゆるところへ生活域を広げる事が出来たのは、裸になり、服を手に入れた事が大きな要因と言えるのだ。
体毛は、そもそも表皮の変化したもので、アルマジロやセンザンコウのように堅くなって体を保護したり、ヤマアラシのように攻撃性を持つようにも進化している。そうでなくとも、生息域に準じて体毛の質は変化しており、それぞれの動物においてなくてはならない特殊能力と言っても良いものだ。つまりそれは、チータの俊足や、ライオンの牙などと並べてもよい、各動物固有の能力である。
そのように見た時、身体の特殊能力を必要としなくなった人類には、速い脚も鋭い牙もいらないように、全身を覆う体毛も必要ではなくなったのだ、と言えるだろう。
牙を誇るライオンは、一生、それに頼って生かざるを得ず、チータは生涯走り続けなければならない。その能力を失えばそれは死を意味する。
同様に、ホッキョクグマはその体毛故に生活域を限られ、裸のゾウは北に上る事はできないのだ。
つまり、身体の特殊能力は、考え方を変えれば、その能力故にその動物を縛り付けていると言える。
人類は、その身体的な縛りをことごとく手放す事で、圧倒的な自由を手に入れたのである。体毛のその一つに過ぎない。
ただ、裸が先か、服が先か。そこは分からない。
道具が先か、脳が先か、の問題と同じように。
人間のかたち
人類の芸術における普遍のテーマは「人間」に他ならない。彫刻家は、それを空間上に様々な素材で再現してきた。彫刻家が作り出すのは、人間ではなく人間のかたちだ。
それは、かたちに過ぎないかもしれないが、そこに、かたち以上のもの、すなわち人間そのものを宿らせようと、作家は様々なトリックを操る。そのトリックが最も際立つには、とにかく、かたちがきちんとしていることが大前提である。
私たちは、生まれた時から人間だから、自分自身のかたちについて、それほど興味を持たない。せいぜい、あの人はスタイルが良いだとか、美人だとかとニュアンスで捉えるだけだ。もちろん、それは高度な認知作業だが。
彫刻家は、ニュアンスだけ捉えていたのでは、いつまでも人間のかたちを捉えられないから、一歩踏み込んだ、客観的な視点を持って人間をみつめなければならない。
客観的とはすなわち、外からの視点である。人間を、人間以外の視点から見つめてみるということだ。
よく、海外に出ると日本という国が違って見えると言うが、それと似ているかもしれない。
どうようのことを、解剖学者もしている。人間を他の生き物と比べることで、その特性や意味合いを見つけようとするもので、比較解剖学という。
そうして見ていくと、私たちの体が他の動物と違いという形で浮かび上がってくる。二本脚で立っていることの不思議や、大きな頭部。そんな目立つ事以外にも、肩が横へ張っていることや、胸郭が前後に扁平なことなど、当然だと思っている形が、進化によって変形してきた人類独自の構造であることが分かってくる。
まだまだ、私たちの体について数多くの知見が先人達によって見いだされている。それらは、私たち自身についての再発見を促し、私たちは何者なのか、という根源的疑問にも別の光を与えるだろう。そして、彫刻家には、人間というかたちを見つめる、新しいツールにさえなり得るものである。
私たち自身という存在のかたち。そこに飽くなき興味を持ち続けるのが、彫刻家であり、解剖学者たちである。
それは、かたちに過ぎないかもしれないが、そこに、かたち以上のもの、すなわち人間そのものを宿らせようと、作家は様々なトリックを操る。そのトリックが最も際立つには、とにかく、かたちがきちんとしていることが大前提である。
私たちは、生まれた時から人間だから、自分自身のかたちについて、それほど興味を持たない。せいぜい、あの人はスタイルが良いだとか、美人だとかとニュアンスで捉えるだけだ。もちろん、それは高度な認知作業だが。
彫刻家は、ニュアンスだけ捉えていたのでは、いつまでも人間のかたちを捉えられないから、一歩踏み込んだ、客観的な視点を持って人間をみつめなければならない。
客観的とはすなわち、外からの視点である。人間を、人間以外の視点から見つめてみるということだ。
よく、海外に出ると日本という国が違って見えると言うが、それと似ているかもしれない。
どうようのことを、解剖学者もしている。人間を他の生き物と比べることで、その特性や意味合いを見つけようとするもので、比較解剖学という。
そうして見ていくと、私たちの体が他の動物と違いという形で浮かび上がってくる。二本脚で立っていることの不思議や、大きな頭部。そんな目立つ事以外にも、肩が横へ張っていることや、胸郭が前後に扁平なことなど、当然だと思っている形が、進化によって変形してきた人類独自の構造であることが分かってくる。
まだまだ、私たちの体について数多くの知見が先人達によって見いだされている。それらは、私たち自身についての再発見を促し、私たちは何者なのか、という根源的疑問にも別の光を与えるだろう。そして、彫刻家には、人間というかたちを見つめる、新しいツールにさえなり得るものである。
私たち自身という存在のかたち。そこに飽くなき興味を持ち続けるのが、彫刻家であり、解剖学者たちである。
2009年8月5日水曜日
彫刻美術と肉眼解剖の衰退の原因
数字至上社会について書いたことで思ったことを記す。
解剖学(肉眼解剖学)というのは、すでに終わった学問だと言われることがある。この、終わったとは、既に終了して過去の物というのではなくて、とりあえず目で見えて記載できるものは一通り済んだ、という意味だ。とはいえ、肉眼的に人体を探索している研究者は世界中に居るし、彼らにとっては人体はまだまだその余地を残しているフィールドであることも事実だ。
現代の解剖学は、その原点である肉眼解剖学から、さらに微細な顕微解剖学や、分子解剖学へと広がり、また、人体の別の見え方を探る応用解剖学へと発展している。
それでも、肉眼解剖学は全ての根幹として機能し続け、それは、人体を探求する基本的姿勢を現在も示し続けている。
彼らは、いつも目の前にある人体の形状に忠実であろうとする。個々の所見に重きを置く。
この姿勢は、自然を観察する芸術家のそれに似ている。彼らは、一般に広がっている偏見を持たずに目の前の景色を見ようとする。なんと言おうと、自分の目に映るそれが真実である。
現在の、数字至上社会は、良く言われる情報社会とリンクしているだろう。情報とは、皆が共有できる普遍性を持っていなければならず、それを可能にするのが数字だからだ。情報の代名詞「インターネット」もデジタルという数字に置き換える事で成り立っている。
なぜ、社会はこのように進んで来ているのか?具体的にはいくつも答えを考え出せるが、全体として言えるのは、人類がそれを望むから、である。
私たちの脳は、全てを概念化して取り扱っている。脳にはそうしかできないし、それが実際に効率的だからだ。より効率性を高める為には、そもそもの世の中を、概念的に変化させた方が良い。そういう作用が働いているのではないだろうか。
ともかく、コンピューターは人類に受け入れられ、ネット社会も受け入れられた。情報ビジネスも当たり前になった。
それに呼応するように、美術表現も物質的なものから情報的なものが主体になり、いまや、あえて「コンセプチュアル・アート」などと呼び分ける必要も無い。
肉眼解剖学という、数値ではなく物質を扱う領域が過去と呼ばれることと、物質的な美を探って来た美術、ことに彫刻の衰退とに共通の情報化という原因を見る気がする。
解剖学(肉眼解剖学)というのは、すでに終わった学問だと言われることがある。この、終わったとは、既に終了して過去の物というのではなくて、とりあえず目で見えて記載できるものは一通り済んだ、という意味だ。とはいえ、肉眼的に人体を探索している研究者は世界中に居るし、彼らにとっては人体はまだまだその余地を残しているフィールドであることも事実だ。
現代の解剖学は、その原点である肉眼解剖学から、さらに微細な顕微解剖学や、分子解剖学へと広がり、また、人体の別の見え方を探る応用解剖学へと発展している。
それでも、肉眼解剖学は全ての根幹として機能し続け、それは、人体を探求する基本的姿勢を現在も示し続けている。
彼らは、いつも目の前にある人体の形状に忠実であろうとする。個々の所見に重きを置く。
この姿勢は、自然を観察する芸術家のそれに似ている。彼らは、一般に広がっている偏見を持たずに目の前の景色を見ようとする。なんと言おうと、自分の目に映るそれが真実である。
現在の、数字至上社会は、良く言われる情報社会とリンクしているだろう。情報とは、皆が共有できる普遍性を持っていなければならず、それを可能にするのが数字だからだ。情報の代名詞「インターネット」もデジタルという数字に置き換える事で成り立っている。
なぜ、社会はこのように進んで来ているのか?具体的にはいくつも答えを考え出せるが、全体として言えるのは、人類がそれを望むから、である。
私たちの脳は、全てを概念化して取り扱っている。脳にはそうしかできないし、それが実際に効率的だからだ。より効率性を高める為には、そもそもの世の中を、概念的に変化させた方が良い。そういう作用が働いているのではないだろうか。
ともかく、コンピューターは人類に受け入れられ、ネット社会も受け入れられた。情報ビジネスも当たり前になった。
それに呼応するように、美術表現も物質的なものから情報的なものが主体になり、いまや、あえて「コンセプチュアル・アート」などと呼び分ける必要も無い。
肉眼解剖学という、数値ではなく物質を扱う領域が過去と呼ばれることと、物質的な美を探って来た美術、ことに彫刻の衰退とに共通の情報化という原因を見る気がする。
数値至上主義の弊害
私たちの身の回りには数字が溢れている。数字が表す「数」の概念が発見されなければ、現在の文明は間違いなくなかっただろう。
数がもたらす最大の恩恵は、概念の共有性にある。つまり、その数値は誰にとっても同様であるということ。1は、世界中の誰にとっても1に他ならない。この、絶対的とも思える数の「拘束力」は、それを操る数学を生み、様々な法則を発見することになった。数は概念であるから、何にでも当てはめることができる。量、距離、重さ・・。
そして、どれだけ必要とされているかを計ることにも数が割り当てられた。値段である。価値という、目に見えないものを数字で表す事が可能になり、物々交換が主だった取引は突然に大きく変化した。今まで交換対象ではなかったものも交換が可能になった。
数値で取引をする「貨幣経済」は、今や、取引の基本である。全ての商品は、その価値を数値化される。このことに慣れ切った私たちは、ものごとの価値は全て数値化が可能で、その表された数こそが、そのものの真の価値であると信じ切ってしまう。日常生活の買い物などでは、それでも問題はないだろう。しかし、世の中には、数値で割り切れないものがあるのも事実である。その一つに、芸術がある。
芸術は、そもそも、「割り切る」といった概念と非常に馴染まない。芸術を言葉で表現することが難しく、また、時に馬鹿げているのもそのせいである。言語化とは、多くの情報を捨てるという行為の上にあるのだから。
同様に、芸術の価値(芸術的価値)を値段という数値に置き換える事も非常に無理のある行為だ。まず、その作品が生み出される行程を数値化できない。多くの作品にとって最も重要なのは、作家が何を表現したかという「作家の主観性」であって、そこに原価が幾らかかっているのかなど算出は不可能だ。そして、それを鑑賞する側がそこに見いだす価値も「鑑賞者の主観」に他ならず、それは、鑑賞者個々で大きく変化する。ある絵に1000万円を付ける人もあれば、1円で十分だと言う人もいる。
このように、芸術作品に付けられる値段は、正に、あってないようなもの、なのだ。
しかし、多くの人はそのことには考えが及ばずに、付けられた値段がその作品の芸術的価値を示しているのだと思い込んでいる。だからこそ、誰々の作品に幾らの高額が付いたというような「数値」主体の記事が新聞などには載るのだ。この値段という数値は、あくまでも取引の為のものに過ぎないことを、忘れてはいけない。殊に芸術家を名乗るならば。
この「数」に縛られて、高価な作品ほど良い芸術だと言い切ってしまうようならば、その人は芸術家には向いていない。むしろ、画商などが良いだろう。
趣が変わるが、数の弊害としてもう一つ思うのは、成績という数値だ。
子供の学力は、テストによって点数という数に還元される。私たちは、小学校から大学まで、この数値に縛られる。その子の出来、不出来は、この数値でのみ推し量られる。多くの親が、それが全てだと信じ切っている。この数値で、子供を分類するシステムが出来上がっているから、信じてしまった方が楽というのもあるだろう。だから、数値化できない音楽や美術の授業は削られている。体育は、スポーツに分類され、それは点数を競う競技だから、問題ではない。
それでも、私たちは感覚的に気付いているはずだ。だから、学校でも虫取りが上手だったり、動物に詳しかったりなど、数値化できない能力に対して憧れたりする。芸術家や歌手に大人が憧れるのも同様だろう。
話しを戻すが、芸術の本質は、隙間にある。いや、本来、芸術は全てを満たしていた。しかし、人間は言語を生み、数を生むことで、感覚を、心を、分節化したことで、芸術はあたかも、節と節の隙間にあるように見えるようになったまでである。
芸術家は、いつも、ゆるやかに行間を行き来し、概念の隙間をさらさらと自由に流れる心で世界を見つめているひとのことだ。
本当は、皆がそうであればいいのかもしれないが。
数がもたらす最大の恩恵は、概念の共有性にある。つまり、その数値は誰にとっても同様であるということ。1は、世界中の誰にとっても1に他ならない。この、絶対的とも思える数の「拘束力」は、それを操る数学を生み、様々な法則を発見することになった。数は概念であるから、何にでも当てはめることができる。量、距離、重さ・・。
そして、どれだけ必要とされているかを計ることにも数が割り当てられた。値段である。価値という、目に見えないものを数字で表す事が可能になり、物々交換が主だった取引は突然に大きく変化した。今まで交換対象ではなかったものも交換が可能になった。
数値で取引をする「貨幣経済」は、今や、取引の基本である。全ての商品は、その価値を数値化される。このことに慣れ切った私たちは、ものごとの価値は全て数値化が可能で、その表された数こそが、そのものの真の価値であると信じ切ってしまう。日常生活の買い物などでは、それでも問題はないだろう。しかし、世の中には、数値で割り切れないものがあるのも事実である。その一つに、芸術がある。
芸術は、そもそも、「割り切る」といった概念と非常に馴染まない。芸術を言葉で表現することが難しく、また、時に馬鹿げているのもそのせいである。言語化とは、多くの情報を捨てるという行為の上にあるのだから。
同様に、芸術の価値(芸術的価値)を値段という数値に置き換える事も非常に無理のある行為だ。まず、その作品が生み出される行程を数値化できない。多くの作品にとって最も重要なのは、作家が何を表現したかという「作家の主観性」であって、そこに原価が幾らかかっているのかなど算出は不可能だ。そして、それを鑑賞する側がそこに見いだす価値も「鑑賞者の主観」に他ならず、それは、鑑賞者個々で大きく変化する。ある絵に1000万円を付ける人もあれば、1円で十分だと言う人もいる。
このように、芸術作品に付けられる値段は、正に、あってないようなもの、なのだ。
しかし、多くの人はそのことには考えが及ばずに、付けられた値段がその作品の芸術的価値を示しているのだと思い込んでいる。だからこそ、誰々の作品に幾らの高額が付いたというような「数値」主体の記事が新聞などには載るのだ。この値段という数値は、あくまでも取引の為のものに過ぎないことを、忘れてはいけない。殊に芸術家を名乗るならば。
この「数」に縛られて、高価な作品ほど良い芸術だと言い切ってしまうようならば、その人は芸術家には向いていない。むしろ、画商などが良いだろう。
趣が変わるが、数の弊害としてもう一つ思うのは、成績という数値だ。
子供の学力は、テストによって点数という数に還元される。私たちは、小学校から大学まで、この数値に縛られる。その子の出来、不出来は、この数値でのみ推し量られる。多くの親が、それが全てだと信じ切っている。この数値で、子供を分類するシステムが出来上がっているから、信じてしまった方が楽というのもあるだろう。だから、数値化できない音楽や美術の授業は削られている。体育は、スポーツに分類され、それは点数を競う競技だから、問題ではない。
それでも、私たちは感覚的に気付いているはずだ。だから、学校でも虫取りが上手だったり、動物に詳しかったりなど、数値化できない能力に対して憧れたりする。芸術家や歌手に大人が憧れるのも同様だろう。
話しを戻すが、芸術の本質は、隙間にある。いや、本来、芸術は全てを満たしていた。しかし、人間は言語を生み、数を生むことで、感覚を、心を、分節化したことで、芸術はあたかも、節と節の隙間にあるように見えるようになったまでである。
芸術家は、いつも、ゆるやかに行間を行き来し、概念の隙間をさらさらと自由に流れる心で世界を見つめているひとのことだ。
本当は、皆がそうであればいいのかもしれないが。
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