2009年8月6日木曜日

人類進化の方向性 はだかの由来

私たちは、初めからこの形で存在していたのではない。私たちではないものから進化して、現在ここに至る。
だから、私たちの体は、私たちではなかった時代のものから作られているわけで、それを丹念に見る事で、由来の大体を知る事が出来るのだ。

私たちは、立ち上がり、道具を使うようになった。そして、常に仲間と群れる。これらの特徴は全てが繋がり合っていて、切り離す事が出来ない。
道具を使うのには、高度な知能が必要で、それは大きな脳と関連がある。大きく重い脳を頭のてっぺんに奥には、頭をまっすぐ垂直にしなくては首に負担が掛かってしまう。インドなどの女性が頭頂に物を乗せて運ぶが、人体構造的には理にかなっていると言えるだろう。
道具を使うことで、人間はマルチになった。身体に足りないものは道具で補えば良いのである。だから、私たちは、身体能力では、これといった秀でたものが無い。走りも、泳ぎも、木登りも、攻撃や防御も裸の体では自然界において全くお話しにならないレベルだ。
道具を開発し、使用することで、私たちはどんな動物よりも優位に立つ事に成功した。しかし、人類の皆が全ての道具を開発するのではない。それは非効率というもので、私たちは、大勢で集まって、分業を「発見」し、これを効率的におこなった。

こうして群れることで、私たちは「人類」としての最大のパフォーマンスを発揮することができる。某先生が言う「人という字はお互いに助け合う様を云々・・」は、人類進化的に言っても正しいのだ。

さて、人類の特徴で、とても目立つはずなのに比較的無視されがちなものがある。それは、私たちが「裸」であるということだ。人類以外のほ乳類を見回せば、裸がいかにマイナーな存在かが分かる。にもかかわらず、私たちはその「変」さに無頓着である。
そして、実際、この理由についてはっきりしたことは分かっていない。いったい、いつから裸なのか・・。良く聞く説としてサバンナ説というのがあり、端折って言うなら、発汗に都合が良いからとか、そんな感じだった気がする。対して、ユニークなものとしてアクア説というものがあり、それは、人類が一度水辺に適応したため、体毛を失ったというものだ。もちろんアイデアの発端には、海棲哺乳類が無毛であるというのがあるのだろう。これは、ロマンと意外性に満ちて魅力的ではあるが、殆ど支持されていないのが実情である。

わたしは、そんなに難しくないところに答えがあると思う。今の私たちを見ればよいのだ。今の私たちは、過去の私たちから続いているのだから。
わたしたちは、裸ではあるが、そのままでは外に出ない。人類にとって、裸と衣類は常に一緒にある。これには、大きな利点がある。すなわち、衣類による保温性の調節が可能であるということだ。野生動物には、夏毛と冬毛を生え変わらせるものがいるが、当然それは年に一度のみであり、生息域が変わらないからそれでよいが、逆に言えば、それは生きる範囲を固定してしまっているとも言える。もし、その生息域に住めなくなった時、彼らは生き続ける術を持たない。
だが、私たちは衣類を変える事で、さまざまな状況下で生活することを可能にした。現在の人類が地球のあらゆるところへ生活域を広げる事が出来たのは、裸になり、服を手に入れた事が大きな要因と言えるのだ。

体毛は、そもそも表皮の変化したもので、アルマジロやセンザンコウのように堅くなって体を保護したり、ヤマアラシのように攻撃性を持つようにも進化している。そうでなくとも、生息域に準じて体毛の質は変化しており、それぞれの動物においてなくてはならない特殊能力と言っても良いものだ。つまりそれは、チータの俊足や、ライオンの牙などと並べてもよい、各動物固有の能力である。
そのように見た時、身体の特殊能力を必要としなくなった人類には、速い脚も鋭い牙もいらないように、全身を覆う体毛も必要ではなくなったのだ、と言えるだろう。
牙を誇るライオンは、一生、それに頼って生かざるを得ず、チータは生涯走り続けなければならない。その能力を失えばそれは死を意味する。
同様に、ホッキョクグマはその体毛故に生活域を限られ、裸のゾウは北に上る事はできないのだ。
つまり、身体の特殊能力は、考え方を変えれば、その能力故にその動物を縛り付けていると言える。
人類は、その身体的な縛りをことごとく手放す事で、圧倒的な自由を手に入れたのである。体毛のその一つに過ぎない。

ただ、裸が先か、服が先か。そこは分からない。
道具が先か、脳が先か、の問題と同じように。

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