2009年8月9日日曜日

美術解剖学の分類

美術解剖学というネーミングは、実に絶妙だ。なぜなら、それを読んだ瞬間に感覚的にどんなものか理解できる気がする。
だが、具体的にどんなものかをその名前から理解しようとすると、とたんにつかみどころが無くなる。「美術」も「解剖」もその指し示している対称が幅広く、そのどこなのかが分からないからだ。また、この単語をどこで区切るのかで、意味合いも変わってしまう。
数式的に示す。

(美術)+(解剖学)
{(美術)+(解剖)}+(学)
(美術解剖)+(学)

上記の3様が考えられる。

美術解剖学は、明治時代に西洋から輸入された概念で、当初は「芸用解剖学」とも呼ばれた。つまり、「芸術に用いるところの、解剖学」という意味だ。これは、現在でも西洋で表される「Anatomy for Artist」からの訳だろうか。
しかし、やがて呼び名は現在のものとなり定着したわけだが、これは、やはり当時、多く参考にされたフランスの書「Anatomie Artistique」の訳が関係しているのかもしれない。

いずれにせよ、当時の概念では、「解剖学の知識を、美術造形の参考とする」というもので、上記の式の一番目に相当する。そして、これが現在でも原点であると言えよう。
しかしながら、医学のために編纂された解剖学は、必ずしも造形の手引きとして便利であるとは限らない。構造的や臨床的に意味のある部位が重点的に記載される医学解剖学だが、美術家にとっては、それよりも、外見上で意味をなす構造が価値を持っている。そこで、解剖学からより造形に意味のある項目を集中的に再編纂することで、より積極的に美術と解剖の関係性を強める方向性が出来てくる。それが、上記の式の2番目になる。現在、書店などで良く目にする書籍はほとんどこのスタンスで書かれている。

こうして、現在においてこれらの知識を得たいと思う人は、予め用意された”美術解剖”の知識を手にする事が出来るようになった。そこに示されているのは、多くの造形家や画家が知りたいと思う部分だけが抽出され示されているのである。このことには、良い部分と悪い部分がある。良い部分としては、情報が整理されているということだ。解剖学というのは、言わば体の地図帳(アトラス)であり、そこには方向性がない。その膨大な情報から、造形に役立つであろう部分のみを指し示してあるので、彼らは”道に迷わなくて済む”。悪い部分は、これも実は同様に、情報が整理されているということなのだ。このことで、人はその情報以外を見ようとはしなくなる。人体とは、「そういうものだ」と思い込んでしまうようになる。芸術家は、本来自由な観察眼を持ち続けるべきで、人体を数値や言語で捉えるような「生理学者的視点」は持つべきではない。

このような、相反する感情は、発展した学問、技術などには付き物で、結局は、使う側が利、不利を認識して使いこなすしか無いのかもしれない。

ところで、ここまでで使われている「解剖」の情報は常に医学の解剖学から拝借しており、美術解剖はそれを再編纂しているに過ぎない。この意味において、美術解剖学は、応用解剖学の一つとされるのである。
このような理由から、実は「美術解剖学を学ぶ」という言葉は、あまり本質的ではない。解剖学を学ばなければ、美術解剖学は理解できないからである。

上記の式の3つ目は、「美術解剖」という新たなジャンルを示しており、 以外の2つとは趣が異なることに注意すべきだ。広く考えるなら、上記の2つを包括した上での新ジャンルとも言えるかもしれないが、これは「美術」でも「解剖」でもない「美術解剖」であると捉えるべきだと思う。
これは、「美術(作品)を、解剖的視点を通して見る」というもので、あくまで鑑賞者的視点であり、上記の別の2つが制作者的視点であるところから、両者は決定的に違うと言えるのである。そして、そこに「学」が着く事で、鑑賞者的視点は、批評者的視点へと変化する。
近代以前の西洋芸術の主題の多くは具象で、人体も多い。16世紀以降では、写実的表現が標準だから、そこに解剖学的な分析的視点をぶつけることが可能だ。そして、そこから各時代の人の見方といった様々な情報を読み取る事が出来る。そこに、解剖学という科学的な視点を持ち込む事で客観的に作品を分析しようとする試みである。

このように、現在言われる「美術解剖学」は、その対称が制作者か鑑賞者かで、2つに分けられるのである。
しかし、最後の「鑑賞者」側にたつものを積極的に「美術解剖学」と呼ぶのは、恐らく日本だけではないだろうか。本来は、芸術学、美学の1ジャンルに分けられるものだろう。

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