癖になる語感。長いけれど、つい口にしたくなるので、覚えてしまう。
ルネサンス期イタリアの彫刻家の名前だ。最近まで知らなかったのだけど、著名な彫刻家の方が最も好きな彫刻の1つの作家の名前として教えてもらった。
正しくは、デジデリオ・ダ・セッティニャーノなので、レオナルド・ダ・ヴィンチのように、”セッティニャーノ村のデジデリオ”という意味合いの名前だ。
2017年7月24日月曜日
2017年7月12日水曜日
作家の守護神
芸術作品群は、まるでその作家の守護神たちのように見える。
縁あって、素晴らしい芸術家と話しをする機会に恵まれている。いつも心を開いて気さくに話して下さる。そういう時は、彼の作品が近くにあるわけではないから、共通の話題などで気軽に話してしまったりもするのだが、作品を目の当たりにするとハッと思い出して、畏怖感に似た感情が沸き起こる。
1つ1つの作品は自律しているかのようだ。それら作品群は、集団となって、その人を芸術家たらしめている。彼の巨きさは、紛れもなくその作品群によって担保されているのである。
それら自律した存在は、しかし、全てが彼自身の存在から生み出されている。自ら生み出した作品たちによって守られるそれは、女王蜂や女王蟻を思い出させる。
話している時、作品が同じ空間に無くとも、”守護神たち”の存在は周囲に漂っている。彼の言葉、視線、仕草がそれを感じさせる。自らを守り高める存在を作り生み出す能力が、その人をあれだけ優しい人柄でいる事を可能にしているのだろう。
2017年5月7日日曜日
移動運動と環境の関連性
環境と動物の運動の関連という視点を持つと、全く新しい、気づかなかった事実が見えてくる。動物の移動運動と環境の関連性について、私たちは生物の行動について考えるときに個体を基準として考えがちなので、移動運動は個体から始まるように思ってしまう。しかし、実際には全ての生物は固有の生息環境に結びつけられている。つまり、彼らの運動はその環境あってのもので、つまり環境が生物の運動を作っていると考えるべきだろう。例えば陸上脊椎動物が重力を利用して移動することは理にかなっている。斜面を転がる石ころのように、持ち上げた体を下へ落とすエネルギーを移動運動に変換することは、ごく自然に起こって不思議ではない。
陸上動物の歩行に先立って、かつて水中から生物が動き始めたのならば、そこでの移動はどうやって生まれたのだろうか。水中では浮力によって重力は相殺される。しかし、大気よりずっと密度の高い水は押し流す力も強い。すなわち、水流である。多くの物が水流で流され、始めの生物もその動きの中で生まれた。生物は何の動きもない止まった水中で、突然に泳ぎ始めたのではない。始めの生物は水に流され、せいぜいその中で向きを変えることからその始めの運動を開始したのであろう。実際、遙かに進化しているとは言え、回遊魚たちは海流という巨大な水流で大海原を移動している。魚の運動はだから、移動から始まったのではなく、方向転換と姿勢維持から始まったのであろうと考えられる。
運動に適応を始めた脊索動物の脊索のような弾性体は、曲げることでエネルギーが蓄えられる。しならせた定規が弾けるように真っ直ぐに戻ろうとするあの力である。では、どうやって脊索を曲げたのか。その両側に牽引する筋を持つより以前では(筋が先か、脊索が先かという疑問はあるけれど)、水流による外部エネルギーからそれを得ていたのではないだろうか。筋線維がまとまった束になって、収縮方向を一定に揃え、強大な収縮力を生み出すまでにはそれなりに長い時間が必要だったはずだ。当初の、やっと向きが揃い始めたような原始的な筋線維では、推進力を生み出すような能力はまだなく、せいぜい脊索のしなりの調節をしていたのだろう。
筋が発達してからは、脊柱を左右にくねらせて運動をするようになった。左右方向の運動は、浮力や水圧といった環境要因が一定な高さ(深さ)での水平方向への安定性の確保を可能にした。筋は体を別の場所へ移動させるためというより、決まった場所から水流などで動かされないための、つまり位置安定のための運動としても働いている。私たちは「動物」ではあるが、動かなくても良いのなら、動かないほうを生物は選ぶ。それは水中のホヤやフジツボを見れば分かる。つまり、それがいる環境が変化するのであれば、体が動くのか周囲が動くのかは、どちらでも良い。そう考えると動物とは「自らが動く物」ではなく「動く環境にある物」という意味で見るべきである。
ともあれ、固定生活を営むものもあれば、積極的に泳ぎ回るものも登場した。泳ぎ回る魚は、大抵は似たような、いわゆる「魚の形」をしている。その理由を遺伝子から理由付けることもできるだろうが、もっと単純に、環境がそうさせたと言っても良い。魚の形は、太い胴体部分が尾びれへ向かうにつれ細くなっていき、最もくびれたところから尾びれの最後へ向けて再び急激に拡がる。この理由は深く考えなくとも、太い胴体部分の多量の筋で生み出される大きな収縮力が細い尾部へと集約され、一気に尾びれで後方へと解放されるための形だと理解できる。すぼまりが強いほど、鞭を打つような強さが大きいから、そういう形の魚は鋭い動きをするだろうし、すぼまらない形のものはゆっくりとした動きになるだろう。ところで、多くの魚の体は上下より左右が短い。もし、体を左右に曲げるのにより小さな力で行いたいなら、モーメントアームを長くするために、体の左右幅は大きい方が有利だ。それが選ばれていないということは、大きな力で小さく素早く動かす運動が主であることを示している。これはまさしく、鋭く鞭を振るう運動と同様である。


背びれや腹びれは体幹の正中にあって、幾つもの骨性の条が補強している。その走行の向きは頭側ほど立っていて尾側ほど寝ている。この徐々に傾いていく角度はその部分の体幹内を通過する筋収縮による推進力の方向を指し示している。条の1本1本の働きの意味は脊柱と同じである。つまり、体幹筋が生み出すしなりの運動を受け止めて末端へと増幅することで推進力を作っている。体幹筋が生み出す曲がる力は、魚の頭部のすぐ後ろ、つまり上下にもっとも長い部位から始まる。その始まりの部位はまだ後方への推進力というより、上下軸を持った回転運動に近いものだ。その回転の捻れは魚の上下へと伝達するので、その部分のひれの条は上下方向に立ったものになる。そこから尾側へと徐々に推進力へと変化していくので、ひれの条の幅も徐々に幅を開けて後ろへ寝た方向へと変わっていく。もし、始めの上下回転より頭方にひれの条があればその向きは逆転して頭側を向くだろう。魚は、背びれと腹びれにも体幹の推進力を伝達させることで、上下方向にも同時に推進力を発揮させている。そうすることで、体の前後を軸にして回転しないようにする。胸びれは、その位置と構造から独特の働きを持っていることが分かる。それは前後方向では、体幹の推進力には関係しない、より前方にある。そして左右の側面にある。これらの特徴から、胸びれは推進力には寄与せず、他の仕事に集中しているのだと理解される。頭部のすぐ後ろに位置していることから、頭部の向きを変える器官である。車で例えれば車体の向きを変える前輪に相当するもので、前進することに重きを置く体幹筋に対して、体の向きを変える始めのきっかけを作っている。進む方向の微調整にも重要な働きをしているだろうと推測できる。
魚の形を見てきて明らかなように、生物はそこにあるエネルギーを利用して生きていて、その形はまず、エネルギー効率利用の形態をしているのである。魚は体内に浮袋など浮力を調節する器官を持っている。それは、彼らが浮力を利用していることを意味する。浮力は位置エネルギーである。例えば、死んで浮かぶ魚は生前は浮力を運動に用いていたことになる。つまり魚は体幹筋によってむやみに泳いでいるのではなく、浮かばないように下へと泳ぐことで、浮力を推進力に利用しているのだと言える。
魚の形からの考察が長くなったが、これと同様の関係性が陸上脊椎動物にも当然見られる。
陸上性脊椎動物は、死ぬと地面に横たわる。これは、その生物が生前にそのエネルギーを倒れないために使っていたことを意味する。生物が倒れるエネルギーを利用するために、体幹を持ち上げることにエネルギーを消費しているのである。これは先に見た魚と同様で、死ぬと浮かぶ魚が生前は浮袋による浮力を運動エネルギーとして用いていたことを意味する。生前の魚は浮力というエネルギーを利用するために、自らのエネルギーを消費して水中を下へと下り続けているのだと言える。ちなみに、水中生活に適応したウミガメは前肢が大きい。それだけでなく、前肢の姿勢も”むりやり”陸上脊椎動物の後肢のように向きを変えているのである。これは全く奇妙な適応だが、彼らが肺に空気を入れて水中にいることから、浮力を移動に利用していることは明らかであるので、浮袋を持った魚類同様に、浮力利用と駆動脚の後ろから前への転換には関連性がありそうである。

恐竜が2本足から始まったように、歩行には2本脚があれば十分である。しかしながら、実際の自然界では四足動物は幅広い多様性を獲得している。陸上最速のチーターも四足であるから、高い活動性にも四足は有効である。
体幹を持ち上げた四足動物で謎なのは、前肢と後肢の対向である。その太さや後肢帯が体幹と固定されているなどの構造から、主な駆動力が後肢である事は明らかである。なぜ後肢が駆動力を発揮するのかは、進む方向へと体幹を落とさなければならない事から自ずと導かれる。すなわち、前進するには体幹を前へと倒さなければならないのだから、駆動脚は後肢にならざるを得ない。前進運動は、その基本動作として体幹を投げ出しすが、実際はさらにそこから加速するために推力を加えていく。
四足動物のチーターで見ると、斜め上へと体幹を投げ出している様に見える。強力な大腿の筋は、地面を蹴るというより、体幹を前へと投げているのだ。一方の前肢は、後肢の傾きによって前方へと投げ出された体幹を受け取って、さらに前方へと投げ渡している様に見える。その働きは、まさしく棒高跳びの棒で、前肢自体に駆動力は必要ではない。前進する時、前肢に掛かる負荷と運動は、ちょうど後肢と逆向きである。両者が対向しているのはおそらくはそんな力学的な理由によるのだろう。この様に、四足動物は後肢の体幹を投げ出す力を、前肢と言う"つっかえ棒"に一度引っ掛ける事で、前進距離を長く稼いでいる。前肢の仕事はだから、後肢から投げ込まれる体幹が持つエネルギーをできるだけ減衰させずに前方へと投げ渡す事だ。肩帯が体幹へ固定されていないのは、そのあたりに理由が見つけられそうだ。後肢から投げ込まれる体幹を、前肢より前方へとエネルギーロスを最小限にしながら受け流すには、体幹が上下に動かないほうが理想的である。しかしながら、重力によって必ずわずかながら下へと落ちていく。落ちゆく体幹を水平運動上に保つには、前肢帯の筋群が収縮してそれを持ち上げる必要がある。つまり、サポート程度にわずかだが、前肢も体幹を前方上方へと投げ出している。この、落ちゆく体幹を持ち上げて水平位を保つことに、体幹と上肢帯とが下肢帯のように固定されていないメリットである。
四足動物のチーターで見ると、斜め上へと体幹を投げ出している様に見える。強力な大腿の筋は、地面を蹴るというより、体幹を前へと投げているのだ。一方の前肢は、後肢の傾きによって前方へと投げ出された体幹を受け取って、さらに前方へと投げ渡している様に見える。その働きは、まさしく棒高跳びの棒で、前肢自体に駆動力は必要ではない。前進する時、前肢に掛かる負荷と運動は、ちょうど後肢と逆向きである。両者が対向しているのはおそらくはそんな力学的な理由によるのだろう。この様に、四足動物は後肢の体幹を投げ出す力を、前肢と言う"つっかえ棒"に一度引っ掛ける事で、前進距離を長く稼いでいる。前肢の仕事はだから、後肢から投げ込まれる体幹が持つエネルギーをできるだけ減衰させずに前方へと投げ渡す事だ。肩帯が体幹へ固定されていないのは、そのあたりに理由が見つけられそうだ。後肢から投げ込まれる体幹を、前肢より前方へとエネルギーロスを最小限にしながら受け流すには、体幹が上下に動かないほうが理想的である。しかしながら、重力によって必ずわずかながら下へと落ちていく。落ちゆく体幹を水平運動上に保つには、前肢帯の筋群が収縮してそれを持ち上げる必要がある。つまり、サポート程度にわずかだが、前肢も体幹を前方上方へと投げ出している。この、落ちゆく体幹を持ち上げて水平位を保つことに、体幹と上肢帯とが下肢帯のように固定されていないメリットである。
四足動物では、後肢と前肢の間は脊柱が取り持っている。それは単なる連結器ではなく(脊索から始まっているように)脊柱そのものが運動エネルギーを蓄積する働きを持っている。チーターの疾走を見ると、後肢が伸展する時、脊柱は反るように伸展している。おそらく各脊椎関節は完全に伸びきって固定されている。つまり一本の棒のようになる。その棒は後肢によって後ろから押される。それは一本の矢を投げる様に似ている。次の瞬間には、前肢が伸びて棒になり、体幹を受け取る。前肢が地面に着くとほぼ同時に、脊柱は腰部が屈曲を開始する。そうして次に後肢が地面に着くことに準備がなされる。しかしこの時、前進するエネルギーは屈曲した脊柱に蓄積されている。その弾性を利用して、さらに強力な背筋も加えて一気に脊柱を伸展させつつ、地面についた後肢も伸展させる。こうして、疾走がなされる。前肢と後肢のコンビネーションを確立させるためにも、脊柱の屈伸が必要である。これが、魚類では側屈する脊柱が、陸上性では90度ねじれる謎の1つの答えであろう。
脊柱は骨盤のすぐ頭側が最も大きく、そのまま頭部へと向かうほど小さくなっていく。これは直立している人間では顕著であり、その理由として単純にそこに掛かる重力負荷が言われる。確かに人間ではそうだろうが、四足動物では理由が異なるだろう。つまり、チーターの後枝伸展時に脊柱も伸展したことから分かるように蹴り出しの作用が骨盤のすぐ頭側の椎骨が最大になるからである。

鳥類の進化は滑空から始まった。滑空は落ちる運動の応用であって、ここまで見てきて明らかなように歩行の延長である。羽ばたく鳥たちは地面から飛び上がれるが、そうかと言って常に羽ばたき続けるのではない。彼らは風に乗るために羽ばたくのである。鳥の羽は、飛ぶためと言うよりむしろ、風に乗るように進化したものである。
このように考えると、なぜ陸上にタイヤを持った動物が現れなかったのかを説明できる。もし運動器がタイヤだったなら、移動のために常に後ろから押し続けなければならないからである。重力の影響が大きい大気中で、落下という位置エネルギーを用いずにそのような膨大なエネルギーを常に供給する方法は全く非効率的である。それは、平地の石ころが自然に転がらないのと同様である。もし、大陸のほとんどが斜面で形成されていたら、そのような転がって移動する動物がいたかも知れない。つまり、今の動物を見ると、我々は平らな地面をベースして進化したのだと言える。
人類の歩行も、当然ながら同様の理由で行われている。体幹を前方へ傾けることで落ちようとする力を前進へ転化させている。だから、急な斜面に階段が採用されるのは理にかなっている。階段は段の高さが異なるが、足を突く部位は平地であるので、平地歩行と同じように前方へ体幹を落とす歩行が行える。その際には、踏み出す足を次の段の高さまで高く上げる事と、次に全身を持ち上げる力が必要になるだけだ。もし、駅や自宅の階段が斜面だったらと想像すれば、そこを登ることがほとんど不可能であることがすぐ分かる。斜面では足首の関節が伸展してしまうので、その姿勢から体幹をより前方へ傾けることができない。急な階段を降りようとする時のほうが恐怖を感じるし、実際危険なことも、前進運動の特質から理解されよう。
身体構造をもっと細かく具体的に見ていくことも興味深い。それらも環境との関係性から見直せるものが多くある。例えば、関節形状や筋量分布などである。
2017年5月2日火曜日
ダンスと彫刻
ダンスの動画を観るのが好きだ。ダンサーの動きは淀みがない。その動きはすっかり体が覚え込んでいて、リズムに合わせてほとんど自動的に動いているように見える。実際そうなのだろう。どんなダンスを観ても、全く初めて見るような動きというより、いつか見たことのある動きが組み合わされている。激しく動いても、重心はコントロールの範囲内に収められている。そこから外れると動きがぶれてしまうので、それは見ている者にもすぐにばれる。だから、大胆な動きや姿勢も、重心やバランスを崩さない範囲内で行われていて、ダンスは運動内における動的バランスのバリエーションをひたすら探しているのだとも言える。
ダンスの動きは、連続的な運動内での姿勢変化と、一瞬動きを停止するときの姿勢の2パターンがあるようだ。連続的な運動内での姿勢変化は体を傾けたり回転させたり跳躍する際の遠心力や慣性を利用するので、その姿勢を静止時は再現できない。一方の、一瞬動きを停止するときの姿勢は、まさしくその瞬間ダンサーの体が停止するので、鑑賞者の視覚に印象深く刻まれる。止まっているといっても、その時間はコンマ数秒内の出来事で、その前後の運動内に挟み込まれる場合は体が傾いていることもある。だから、止まった姿勢とはいえ、やはり静止時に再現できるとは限らない。
ダンスの時系列的な動きは、鑑賞者の視覚に連続的に流れ込む。流動的な動きが次の瞬間静止し、また別の動きへと繋がる。そういった運動の連続的な認知が鑑賞者には動的で視覚的なリズムとして捉えられ心地よさを感じさせる。もちろん、その時に流れている音楽は視覚と相乗効果を生む。動きと静止のリズムは、単純化して例えるなら、ゴムのスーパーボールが跳ねているのに似ている。放物線を描いて上がって下がり床にぶつかった瞬間止まって、その反発を利用して再び次の上昇へ移行する・・。
彫刻家でダンスや舞踏に興味を持つ人は少なくないようだ。高村光太郎なども能の舞いに彫刻を見出していたし、ロダンもダンスや舞踏の作品を作っている。知人の彫刻家にもいる。身体やバランスなど彫刻においても大事な要素の多くがダンスと共通している。彫刻は静止していて、ダンスが動いているから、そこが違うのではないかと思われるかもしれないが、彫刻は静止の中に動勢の再現やその徴候もしくは要素を内包させようとしているのである。そう考えると、止まって凍ったように見える作品は、残念ながら、あまりうまく行っていないのかもしれない。ただ、動いている瞬間を彫刻で再現しようとして、例えばダンスのある瞬間の静止画像や写真をそのままブロンズで再現しても、それは恐らく、止まって凍ったものになるだろう。ダンサーの運動内で見られる姿勢は、慣性や遠心力など運動時だけの因子が作用して可能にしているし、それを見る私たちは、その姿勢の前後にある連続性の中でそれを鑑賞しているのである。このことは、かつてロダンが、写真が常に正確だとは限らないと言った事と同じだ。連続的な運動の中でしか生まれない姿勢がある。しかもそれは、写真で捉えることもできない。考えてみれば当然の事で、ダンスは”踊りたい”というダンサーの欲求から始まっているが、それは次の瞬間には”踊りを見て欲しい”へと移行しているはずで、つまりダンスは視覚的なコミュニケーションの一形態である。ダンスは見られる事が暗黙の前提としてあり、その対象は当然ながら人間である。勿論、部族儀式で神への奉納の舞いは普通に見られるが、それも結局は鑑賞するのは人間である。人間が人間の為に舞うのがダンスで、それが視覚によって捉えられるものなのだから、ダンスは人間がその目で見て最も心地よいものへと発展していくのである。人間の目によって磨かれた動きなのだから、それを写真という「人間外」の目で捉えられるはずが無い。
写真では捉えることのできない一過性の性質は音楽とも似ている。一方で、視覚で鑑賞されるというのは視覚芸術である彫刻と同様だ。どんなダンスも今は動画で気軽に見られるけれども理想は生で目の前で鑑賞することだろう。そこには体という立体物が、動勢の中でバランスを保ち、一過性の時系列の中で連続的にポーズを変え続ける動勢が繰り広げられる。ダンサーは語らず、動きとポーズで、何らかを語りかけている。それは彫刻が追い求めているものと同じである。
実質的にも、ダンスは彫刻教育に向いているだろう。実際に踊るのも良いだろうけれど、鑑賞だけでも得るものが大きい。動画であれば任意の瞬間で静止させて、動きの中で得られていた印象との差違について確認することもできる。瞬間の姿勢が、静止時では全くできないことも分かる。重心やバランスと共に「かっこいい」ポーズのバリエーションのヒントが無数に存在している。ダンス動画から、幾つかのポーズを抽出して素描していくのは興味深い訓練になるに違いない。
ダンスの動きは、連続的な運動内での姿勢変化と、一瞬動きを停止するときの姿勢の2パターンがあるようだ。連続的な運動内での姿勢変化は体を傾けたり回転させたり跳躍する際の遠心力や慣性を利用するので、その姿勢を静止時は再現できない。一方の、一瞬動きを停止するときの姿勢は、まさしくその瞬間ダンサーの体が停止するので、鑑賞者の視覚に印象深く刻まれる。止まっているといっても、その時間はコンマ数秒内の出来事で、その前後の運動内に挟み込まれる場合は体が傾いていることもある。だから、止まった姿勢とはいえ、やはり静止時に再現できるとは限らない。
ダンスの時系列的な動きは、鑑賞者の視覚に連続的に流れ込む。流動的な動きが次の瞬間静止し、また別の動きへと繋がる。そういった運動の連続的な認知が鑑賞者には動的で視覚的なリズムとして捉えられ心地よさを感じさせる。もちろん、その時に流れている音楽は視覚と相乗効果を生む。動きと静止のリズムは、単純化して例えるなら、ゴムのスーパーボールが跳ねているのに似ている。放物線を描いて上がって下がり床にぶつかった瞬間止まって、その反発を利用して再び次の上昇へ移行する・・。
彫刻家でダンスや舞踏に興味を持つ人は少なくないようだ。高村光太郎なども能の舞いに彫刻を見出していたし、ロダンもダンスや舞踏の作品を作っている。知人の彫刻家にもいる。身体やバランスなど彫刻においても大事な要素の多くがダンスと共通している。彫刻は静止していて、ダンスが動いているから、そこが違うのではないかと思われるかもしれないが、彫刻は静止の中に動勢の再現やその徴候もしくは要素を内包させようとしているのである。そう考えると、止まって凍ったように見える作品は、残念ながら、あまりうまく行っていないのかもしれない。ただ、動いている瞬間を彫刻で再現しようとして、例えばダンスのある瞬間の静止画像や写真をそのままブロンズで再現しても、それは恐らく、止まって凍ったものになるだろう。ダンサーの運動内で見られる姿勢は、慣性や遠心力など運動時だけの因子が作用して可能にしているし、それを見る私たちは、その姿勢の前後にある連続性の中でそれを鑑賞しているのである。このことは、かつてロダンが、写真が常に正確だとは限らないと言った事と同じだ。連続的な運動の中でしか生まれない姿勢がある。しかもそれは、写真で捉えることもできない。考えてみれば当然の事で、ダンスは”踊りたい”というダンサーの欲求から始まっているが、それは次の瞬間には”踊りを見て欲しい”へと移行しているはずで、つまりダンスは視覚的なコミュニケーションの一形態である。ダンスは見られる事が暗黙の前提としてあり、その対象は当然ながら人間である。勿論、部族儀式で神への奉納の舞いは普通に見られるが、それも結局は鑑賞するのは人間である。人間が人間の為に舞うのがダンスで、それが視覚によって捉えられるものなのだから、ダンスは人間がその目で見て最も心地よいものへと発展していくのである。人間の目によって磨かれた動きなのだから、それを写真という「人間外」の目で捉えられるはずが無い。
写真では捉えることのできない一過性の性質は音楽とも似ている。一方で、視覚で鑑賞されるというのは視覚芸術である彫刻と同様だ。どんなダンスも今は動画で気軽に見られるけれども理想は生で目の前で鑑賞することだろう。そこには体という立体物が、動勢の中でバランスを保ち、一過性の時系列の中で連続的にポーズを変え続ける動勢が繰り広げられる。ダンサーは語らず、動きとポーズで、何らかを語りかけている。それは彫刻が追い求めているものと同じである。
実質的にも、ダンスは彫刻教育に向いているだろう。実際に踊るのも良いだろうけれど、鑑賞だけでも得るものが大きい。動画であれば任意の瞬間で静止させて、動きの中で得られていた印象との差違について確認することもできる。瞬間の姿勢が、静止時では全くできないことも分かる。重心やバランスと共に「かっこいい」ポーズのバリエーションのヒントが無数に存在している。ダンス動画から、幾つかのポーズを抽出して素描していくのは興味深い訓練になるに違いない。
2017年4月10日月曜日
AGAIN-ST「平和の彫刻」展を観て
恵比寿のナディッフ・ギャラリーで開催中のAGAIN-ST「平和の彫刻」展を観る。これは、考え、立場、年代が近い彫刻家、美術家による同人「AGAIN-ST」のグループ展である。ここでの”立場”とは、彼らが美術大学などで教員として美術教育の現場にいるという事を指す。きっと、それが関係しているのだと思うが、とても”真面目”な同人である。
活動の始めに宣言文を掲げている。重要なので以下に転載する。
「AGAIN-STは彫刻を問う集団である。我々は危機感を共有している。声高に死が叫ばれる絵画よりもなお、黙殺される彫刻は深刻である。我々は責任感を共有している。教育の現場において、制作者は表現の可能性を提示せねばならない。我々は問いを共有している。彫刻は今なお有効性を持っているのかと」
彼らが問うている主題の中心が「彫刻は今なお有効性を持っているのか」だが、非常に荒削りな定義である。この宣言文は「危機感」、「責任感」、そして「問い」の順でキーワードが続くのだが、その発端の順序で言うなら「責任感」から起こっているだろうと想像する。この責任感とは、教育現場に立つ教員としてのそれである。教えるという立場になると、表現行為が自分だけの問題ではなくなる。その責任を受け止めたとき、彫刻科というレッテルによって、突然自らが所属のインサイダーとして押し込められるのだ。それは、かつて学生として一時その科に属していた軽さとは比べものにならない重さがある。「立場がひとをつくる」の言葉のままに、その時彼らは「彫刻を教える者」になった。そうして美術界における彫刻領域の活動状況はどうなのかと改めて見渡してみれば、およそそれが見えてこない現実がある。それはまた、美大では毎年の受験者数としても具体的に現れる。これらが与える「危機感」から「問い」が生まれる。「彫刻は今なお有効性を持っているのか」と。
ところで、「有効性」は対象が規定される言葉であるから、これを文脈に合わせるなら「彫刻は今でも必要とされているか」と言い換えられるかも知れない。さらに、この一連から分かるように、彼らの問いは、あらゆる彫刻表現の現状を憂うというより、その視座は「日本の彫刻教育現場」にある。それも考慮に加えるなら最後の一文は「彫刻科は今でも必要とされているか」と言うことにもなろう。
またさらに、「我々は問いを”共有”している」と言っているが、これは自問のことだろう。ならば「彫刻を問う集団」は、「彫刻について問い合う集団」の意味である。実際にも、毎回お題(問い掛け)が出され、作家たちはそれに答える作品を作っている。その図式はさながら「笑点」の大喜利のようでもある。
この、与えられたテーマや課題に応じて制作し展示する形式は、内向きの印象を与えもする。完結したコンテンツパッケージを見ているような隔絶した距離感は、大学の課題授業のようでもある。なるほど、このような形式を取るのは、彼らが教員であることと関係がないはずがない。
この同人は、これまでの日本の大学における彫刻教育への批判的精神を行動に移したものである。その建設的な行為が形を成したとなれば、今後はそれさえもまた批判的に見られなければならない。
彫刻も教育も、領域の内側にはそれ自体の固有の主題や問題を抱えている。そのことと、領域外との関係性の問題は必ずしも同一ではなく、ここで彼らが問題視する”有効性”の問題は後者に属する。しかし、彫刻を芸術とするからには、その発端は必ず領域の内側になければならない。もし、活動が有効性を発端とすれば、それはもはや商業である。芸術において有効性はあくまで結果であろう。その芸術がどのような有効性を持つのかは、その有効性があると判断されるまで、本質的に誰にも分からないものなのである。おかしな響きだが、彫刻を含む芸術においては、有効性を考慮してつくるほど本質的有効性を失っていくのだとも言える。その上であえて、有効性を考えるならば、それは結局、作家の強烈な個性に委ねられると言わざるを得ない。
今回のテーマは、「平和がテーマの公共彫刻を作るとしたら」というものだ。紹介文にあるように、駅前ロータリーにある”平和彫刻”が負のオーラを発すると言うのなら、原因は”作家がそれに従ったから”ではないだろうか。従うことは、有効性からの始まりであって、もはや作家性からではない。その時点で彼らのコアである個性的感性はもはや機能せず、要求に応じる単なる造形業者に過ぎない。
この活動は「問う」ことから始まっているのだから、テーマそのものが参加作家達に仕掛けられた、AGAIN-STの本質的命題に掛けたチャレンジなのではないかと勘ぐりたくなる。ところが展示内容を見ると、多くの作家が真正面から応じているのである。
その中で、会場で配られていた各作家による自作へのコメントを見て、思わずニヤッとしてしまったのは、保井智貴氏のものである。いわく、平和とはトイレで用を足した後の爽快感であると。なるほど、人類は長らく生きることに直結する「食べられること」が平和だったはずだ。今や、食が満たされた現代は平和なはずだが、現代の管理社会では、生理現象である排泄さえ自由ではない。それは果たして望んだ平和だろうか・・。私は、身体感覚に根ざした平和観に深く同意する。そして、その作品企画は彼の女性像のシルエットがそのまま女子トイレのサイン(等身大の!)になっているという、冗談と本気のはざまで我々を煙に巻くようなものであった。
AGAIN-STの活動そのものが、21世紀の日本の彫刻(と、それを生み出す人々)の有り様を反映している。彼らの活動とその記録は、今後、現代日本の彫刻美術の足跡のひとつとして刻まれ、参照されるものになるのだろう。
今回この同人は、これまでの活動をまとめた小冊子を発売した。ここで1つの区切りという意味合いもあるようだが、今後その活動は、どの方向を向いていくのだろうか。
会場
NADiff Gallery
(東京都渋谷区恵比寿1-18-4 NADiff A/P/A/R/T 1F)
会期
2017年04月01日(土)〜04月23日(日)
入場料
無料
休館日
月曜日(月曜が祝日の場合は翌日)
活動の始めに宣言文を掲げている。重要なので以下に転載する。
「AGAIN-STは彫刻を問う集団である。我々は危機感を共有している。声高に死が叫ばれる絵画よりもなお、黙殺される彫刻は深刻である。我々は責任感を共有している。教育の現場において、制作者は表現の可能性を提示せねばならない。我々は問いを共有している。彫刻は今なお有効性を持っているのかと」
彼らが問うている主題の中心が「彫刻は今なお有効性を持っているのか」だが、非常に荒削りな定義である。この宣言文は「危機感」、「責任感」、そして「問い」の順でキーワードが続くのだが、その発端の順序で言うなら「責任感」から起こっているだろうと想像する。この責任感とは、教育現場に立つ教員としてのそれである。教えるという立場になると、表現行為が自分だけの問題ではなくなる。その責任を受け止めたとき、彫刻科というレッテルによって、突然自らが所属のインサイダーとして押し込められるのだ。それは、かつて学生として一時その科に属していた軽さとは比べものにならない重さがある。「立場がひとをつくる」の言葉のままに、その時彼らは「彫刻を教える者」になった。そうして美術界における彫刻領域の活動状況はどうなのかと改めて見渡してみれば、およそそれが見えてこない現実がある。それはまた、美大では毎年の受験者数としても具体的に現れる。これらが与える「危機感」から「問い」が生まれる。「彫刻は今なお有効性を持っているのか」と。
ところで、「有効性」は対象が規定される言葉であるから、これを文脈に合わせるなら「彫刻は今でも必要とされているか」と言い換えられるかも知れない。さらに、この一連から分かるように、彼らの問いは、あらゆる彫刻表現の現状を憂うというより、その視座は「日本の彫刻教育現場」にある。それも考慮に加えるなら最後の一文は「彫刻科は今でも必要とされているか」と言うことにもなろう。
またさらに、「我々は問いを”共有”している」と言っているが、これは自問のことだろう。ならば「彫刻を問う集団」は、「彫刻について問い合う集団」の意味である。実際にも、毎回お題(問い掛け)が出され、作家たちはそれに答える作品を作っている。その図式はさながら「笑点」の大喜利のようでもある。
この、与えられたテーマや課題に応じて制作し展示する形式は、内向きの印象を与えもする。完結したコンテンツパッケージを見ているような隔絶した距離感は、大学の課題授業のようでもある。なるほど、このような形式を取るのは、彼らが教員であることと関係がないはずがない。
この同人は、これまでの日本の大学における彫刻教育への批判的精神を行動に移したものである。その建設的な行為が形を成したとなれば、今後はそれさえもまた批判的に見られなければならない。
彫刻も教育も、領域の内側にはそれ自体の固有の主題や問題を抱えている。そのことと、領域外との関係性の問題は必ずしも同一ではなく、ここで彼らが問題視する”有効性”の問題は後者に属する。しかし、彫刻を芸術とするからには、その発端は必ず領域の内側になければならない。もし、活動が有効性を発端とすれば、それはもはや商業である。芸術において有効性はあくまで結果であろう。その芸術がどのような有効性を持つのかは、その有効性があると判断されるまで、本質的に誰にも分からないものなのである。おかしな響きだが、彫刻を含む芸術においては、有効性を考慮してつくるほど本質的有効性を失っていくのだとも言える。その上であえて、有効性を考えるならば、それは結局、作家の強烈な個性に委ねられると言わざるを得ない。
今回のテーマは、「平和がテーマの公共彫刻を作るとしたら」というものだ。紹介文にあるように、駅前ロータリーにある”平和彫刻”が負のオーラを発すると言うのなら、原因は”作家がそれに従ったから”ではないだろうか。従うことは、有効性からの始まりであって、もはや作家性からではない。その時点で彼らのコアである個性的感性はもはや機能せず、要求に応じる単なる造形業者に過ぎない。
この活動は「問う」ことから始まっているのだから、テーマそのものが参加作家達に仕掛けられた、AGAIN-STの本質的命題に掛けたチャレンジなのではないかと勘ぐりたくなる。ところが展示内容を見ると、多くの作家が真正面から応じているのである。
その中で、会場で配られていた各作家による自作へのコメントを見て、思わずニヤッとしてしまったのは、保井智貴氏のものである。いわく、平和とはトイレで用を足した後の爽快感であると。なるほど、人類は長らく生きることに直結する「食べられること」が平和だったはずだ。今や、食が満たされた現代は平和なはずだが、現代の管理社会では、生理現象である排泄さえ自由ではない。それは果たして望んだ平和だろうか・・。私は、身体感覚に根ざした平和観に深く同意する。そして、その作品企画は彼の女性像のシルエットがそのまま女子トイレのサイン(等身大の!)になっているという、冗談と本気のはざまで我々を煙に巻くようなものであった。
AGAIN-STの活動そのものが、21世紀の日本の彫刻(と、それを生み出す人々)の有り様を反映している。彼らの活動とその記録は、今後、現代日本の彫刻美術の足跡のひとつとして刻まれ、参照されるものになるのだろう。
今回この同人は、これまでの活動をまとめた小冊子を発売した。ここで1つの区切りという意味合いもあるようだが、今後その活動は、どの方向を向いていくのだろうか。
会場
NADiff Gallery
(東京都渋谷区恵比寿1-18-4 NADiff A/P/A/R/T 1F)
会期
2017年04月01日(土)〜04月23日(日)
入場料
無料
休館日
月曜日(月曜が祝日の場合は翌日)
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