2018年7月9日月曜日

美術における人体構造学


   最近では、人体の内部のつくりについての学問を「解剖学」の呼称にまとめることをせず、「人体構造学」と呼ぶことも多くなった。とは言え、一般的な認知度では相変わらず「解剖学」呼称の独り勝ちであることは、書店に並ぶ本のタイトルを見ればわかる。ではなぜ、大学の講座名や講義名では「解剖学」と呼ばなくなってきているのか。それはこの単語が持つ本来の意味と、行われている実質的内容との距離が開いてきたからであろう。解剖学は読んで字の如し、人体を切ってばらしながら探求するという意味合いがある。解剖学を行うには解剖実習室と解剖道具そして何より死体が要る。しかしながら、現代では人体についての探求は、必ずしもメスとピンセットで切り開かなければ分からないものばかりではない。放射線や磁力、超音波を用いることで切り開くことなく体内を見ることが可能であり、しかもそれらを立体的に見たり、触れる素材として出力することももはや特別ではない。これらのように、人体を刃物で“解剖”せずに、人体のつくりについて学び研究するのであれば、血なまぐさい印象を纏う「解剖学」の文字は使わずに「構造学」を用いる方が内容に即していると言える。ただ、構造学という響きには、人間という生物が持つ柔らかな“分からなさ”をも払拭して、どこか機械的で冷たい趣きがある。命ある人間も、その構成へと分解されるとそこには生命現象のまとまりは見えなくなり、物理化学的な現象の連なりがひたすらに連続しているばかりであるような。もちろんそれが間違っているわけではない。我々人間にとって対象の意識的理解とは理解の解像度を上げること、言い換えればピントが合っていることであり、そのためには対象に近づかなければならない。そして狭窄した視野の両隣りとの関係性を明確に捉えなければならない。「近づき、解像度を上げる」事に情熱を向けるのは、私たちが情報の多くを視覚から得ている事と関係しているだろう。
   しかし、細分化されたものはその階層での関係性で成り立っていて、それがそのままより大きな階層との関係性に連続していくとは限らない、いわゆる創発的性質がある。これが、理解を助けると同時に全体性を分断させる。それは仕方ないことではある。自分の日常と宇宙の進行の連続性を統合的に感じながら生活するのはなかなか難しい。さっきこぼしたコーヒーと白鳥座のブラックホールが関連していると考えるようなものだ。そうは言っても、自分の存在以上に目を向けるよりは、ずっと意識しやすいはずだ。自分という限定された物質内での出来事だと考えるなら。
   個人の階層から始めるなら、器官系、器官、組織、細胞、細胞内小器官、分子と階層を降りていく。私たちがものを食べて、それが吸収され、やがて自分の一部として役立つ過程は、この階層性の一往復に相当することが分かるだろう。階層性は層を跨ぐのだから、高さの概念である。もう一つ、同じ層にあっても横の概念がある。例えば器官系のひとつ循環器系ならば、その名称の元である循環現象を“生み出す”心臓を「親」に見立てることができよう。その拍動がなければこの器官系の存在意義がないのだから。そうして一方通行の血流が起こることで順序が作られる。心臓から出るのは動脈で帰るのは静脈という大原則の元、肺循環(機能血管系)と体循環(栄養血管系)という2つの循環が“生み出される”。これら同じ階層内にある機能的な横の連なりの概念を分かりやすく「親子関係」と呼びたい。親子関係の世代の異なりが階層の概念と結びつきやすいかもしれないがそうではない。これは影響力の主従関係のことで、子は常に親に従う関係性を持っている。循環器系の例で見れば、動静脈の区分けなどは親である心臓の配下にある子だと言える。これは別の器官系例えば運動器系でももちろん言えることで、この系の仕事が主に機械的であることから、より分かりやすい。腕で例えれば、指の動きは掌の動きに従い、掌は前腕に従い、前腕は上腕に従う。つまりここでの最上位の親は上腕となる。これは、3DCGのモーション付け(リギング)では以前からある概念で、これを適用したIK(インバース・キネマティックス:逆運動学)はアニメーターの作業を感覚的かつ迅速なものにしている。
   ここまで示してきた階層性や親子関係は、理解の仕方つまり情報の分類整列だと言える。人体で行われている生命現象は全てが関連した壮大なエコロジーとも言い得るものなので、他と関連しない局所的視点の知識だけでは、トリビアとして楽しいが、あまり意味をなさない。これを知る過程とそのための組み立てを体系と言う。つまり、“知り方の順序”である。現代では、知識だけならばインターネット上に十分転がっているだろう。しかし、そこには“体系”がない。その様は、情報の広大な草原のようだ。どこへ向かっても何か見つけられる。しかし、それが最善の道かは分からない。ネットによる情報の獲得が用意になってもなお、教育機関が存在し、そこへ人が移動して教え学ぶのには訳がある。そこには道がある“はず”だからだ。

   美術系学校で人体構造を教えているが、その全てにおいて、絶対的な時間不足が生じている。時間が短いと何が起こるかと言うと、体系が失われるのだ。それは3時間の映画を3分で語るのに似ている。それは重要箇所を点として提示するだけになる。確かに、「上腕二頭筋は上腕筋の上に乗っている」と聞けば一つ知識が増えた気になる。しかし、これが造形の現場でどれだけ役立つだろう。短ければ短いなりの伝え方があるかもしれない。確かに体系的理解には膨大な構造知識も密接である。ただ、医学体系で組み上げられた現代の体系に縛られなければ道はあるかもしれない。


   解剖学を芸術に応用した最初期の例として挙げられるレオナルド・ダ・ヴィンチの解剖図とメモを見ると、その斬新さに驚かされる。実際、それらのいくつかはずっと後世にならなければ認められなかった。その先見性の理由のひとつとして、レオナルドが既存の知識体系を“知らなかった”からではないかとも言われる。それに加えて、レオナルドが経験を師とし、“自分を信じた”こともある。彼の手稿には、医学体系に縛られない人体構造の捉え方が示されているのだとも言えるだろう。16世紀以降、人体構造は紛れもなく医学によって推し進められ、知の敷石が順序立てて並べられてきた。それと同じくして平行的に進んできた芸術における人体表現とその参考的知識体系としての美術解剖学は、いつしか、発展した医学と関連してその敷石の上を歩むようになったように見える。
   500年を経たいま、改めてその序章を見直すことで、芸術に立脚した人体構造の見方への根源的な指針が見つけられるかもしれない。そこから、従来とは異なる、もう一つの隣り合った人体構造学が始まらないとも限らない。そうなれば、やがてそれは“道”となるだろう。

2018年6月12日火曜日

美学

   視覚表現も言語体系の影響を受ける。私たちの世界の捉え方が言語体系に近いからだろう。高度に概念化された言語は、その性質に近い形を取っているのだと思える。視覚表現は、そのような認識のフィルターを通過して、言うならば、ある程度の整理がなされた状態を示している。だから、私たちの認識以前として存在する自然状態と比べて、必ずなんらかの強調が加えられているのである。そしてそれらは言語体系の組まれ方の方向を向かっている可能性がある。構図、色彩、形態、それら視覚情報は完全なランダムではあり得ないのだ。言語が語学体系を内包しているのと同様に、視覚芸術もまた何らかの体系、構造とも言い得るような組み立ての規則が見いだせるだろう。そして、それらが巧みに組み上げられているほど、その評価もまた高くなる傾向にある。人は意識的理解に最も価値を見出す。意識的理解は言語によってなされる。つまり、それら視覚表現も結局は言語に置き換えられなければならない。それが可能なものが評価の対象になり得る。言葉に翻訳可能だからである。

   しかし、それは大きな皮肉でもある。元来、視覚表現を用いる視覚芸術は、言語で語り得ない、伝え得ない対象を伝えることを担っている。そうであるにも関わらず、言語化されなければ評価されないのだから。
   ただし、そうは言っても、視覚芸術の全てが言語化可能であるはずはない。そもそも、言語は世界の全てを語り得ない事は誰でも経験上知っているだろう。完全ではない言語だからこそ、その曖昧さ、不安定さが文学を支えている。拍と拍の間合い、そう言うものが行間に語間に現れる。それは言語の不安定さの証明でもある。

   人は人である以上、言葉、言語の精度を常に高めていくだろう。それは、私たちの世界認識の精度と連関しているのだから。それでも、どこまで行っても、行間をすり抜けていく感覚は存在し続ける。そこに挟まって見えるもの。それが非言語的認識で、視覚芸術を含む芸術の領域であり続けることもまた変わりがない。
   言語的認識はつまり、科学的視点である。これと非言語的認識とは対の関係性だと言える。対であることで、互いの存在を強調することができている。私たちは、このことを常に明確にしておかなければならない。なぜなら、その認識の不明確さが勘違いを引き起こし、科学のつもりの芸術もどきを作りかねないからである。その反対、つまり、芸術のつもりの科学というのは起こり得ない。なぜなら、それがもし起こったなら、それは科学になっているからである。


   両視点を明確に捉え、言語的認識の精度を上げていくことで、“行間に”潜む非言語的認識の有り様、その輪郭が、明瞭になるだろう。そして、その積極的行為と体系の総体が美学である。

2018年5月19日土曜日

置き方の価値  「組」展を観て

   MA2ギャラリーで開催中の展覧会『組』を観た。複数のアーティストの作品が展示されているので、グループ展のように見えるが、それら作品はデザイナーの猿山修氏のセンスによって選択され配置されている。そのため出品作家も自分の作品がどのように置かれてるのかは、当日まで知らないのだという。
   展示初日は夕刻からレセプションが開かれ、それは「BAR さる山」と称して猿山氏とアーティストを交えたトークガイドツアーとなっていた。

   降りる駅を寝過ごして、目黒駅から恵比寿のMA2まで歩いた。都会の住宅街はバリエーションが区画ごとに変化するので、なかなか楽しい。
   ギャラリーに着いた時はすでにトークが始まっていた。細身で長身の猿山氏は長く黒い髪を肩まで垂らし、それが黒いシャツ、黒いズボン、黒い革靴と続くので、何か黒い一本線のような潔い存在感を放っていた。入って正面奥の壁には、四角い紙が2枚。その斜め上にカンカン帽が掛けてある。左の壁には古そうな木の板が掛けられているが、よく見ると古いまな板だとわかる。その手前に運搬型のイーゼルが立てられ作家の絵画が置かれる。右の壁には小さな具象画が掛けられ、正面壁との角には古い木箱が積み重ねられ、そこにスコップの作品が置かれている。他にも、アルミのスツールに見える作品や、丸い回転台の上に人間の脚が生えたコケシの作品が置かれていた。よく見ればわかるが、作家の作品とアンティーク品とが組み合わされている。それらの古物は、猿山氏の選択で置かれ、購入することもできるようだ。
   配置は実に心地よく、例えば壁面展示にしても、余白と物との間隔が十分に取られているので、視覚的にリラックスできる。展示空間全体としてはミニマルな傾向である。
   作家の作品は古物と同様に捉えられ、猿山氏のセンスによって再構築されていた。それは堂々としていながら繊細さを感じさせる。後で作家から聞いた話だと、この配置は綿密に組まれたものではなくほとんど即興に近いものらしい。その場で作品と空間を見て、感性に従って置かれたそれらは、水墨画や毛筆の達筆を感じさせる。
   ガイドツアーではほとんど猿山氏が展示について解説していて、時折ギャラリストや作家がそこにコメントを挟むものだった。四角い紙と丸いカンカン帽の壁面の解説の段では、氏はその紙の作家の筆さばきの技量を褒めちぎった。遠くから見ているとその紙に何が描かれているのか全く見えないが、後で近づくと筆で等間隔の斜線がいくつも引かれていた。一方でカンカン帽の配置については「特に何か意味があるわけではない」と言ったものの、「無理に意味づけするなら、紙の作品を雨と見れば帽子は太陽と言ったところか」と付け加えた。それを聴きながら、言葉はつくづく危険だと思った。きっと、“意味などない”が本心なのだろう。その配置が美しいから、だけなのだと思う。しかし、聞く方が納得するように言うならと、そこから無理に物語を探すと“雨と太陽“というありきたりな文言に辿り着いてしまうのだ。
   左壁面のまな板とイーゼルに絵画の配置は、本来なら絵画が飾られる場所にまな板を置くことでその従来の意味合いを取り外すとともに、絵画作品との関連性を提示することで、存在価値の拡大に成功している。もし、ヒエラルキーを見るなら、まな板の価値の引き上げの足場に絵画作品が使われている、と映るかもしれないが、そう感じてしまう根底にはまな板の”ものとしての価値“の潜在的なポテンシャルを認めていない価値観の固定があるのだろう。
   床置きの作品としては、丸い回転台に置かれた”脚のあるこけし“がある。こけしの脚は、上半分はこけしそのものから彫り出されている。作品そのものに笑いの要素があるが、それがレトロな回転台に置かれているので、そこはかとなく昭和のおもちゃ売り場を思い出させる。回転するという全方位性を活かすように、それは空間の中央に置かれている。

   階段を上って2階の展示場は、照明が落とされ白熱灯色のLEDで作品がスポットされている。どうやら2階のテーマは”祈り“である。ここには、実際、仏像のような作品や、燃焼の動画などがあって日本人にとっての祈りの印象が強調されていた。その中で、最も印象的だったのは、アルミ鋳造の壁掛け鏡の作品だ。鏡面部分が研磨されているが、完全な鏡面仕上げにはなっておらず、ほとんど反射しない。しかも、鋳造ムラが色の変化として現れている。それが薄暗い空間で橙色の光に浮かび上がると、何か異界を映し出す窓のように思えてくる。子供の頃に信じていた”怪しい世界“の記憶が引き出される感覚がした。
   誰かが、「鏡そのものが作品になるのはあまり知らない」と言っていた。この作家は、鏡という物と言うよりむしろ、それが映そうとしている世界や空間、場、を表そうとしているのだろう。
   2階の展示の別の特徴は、天井から吊るすというものだ。それも吊るされている物がほとんど床に着きそうな低い位置にある。そうされることで、物の浮遊感が強調されつつそれを可能にしている”吊るし材“の顕示や、下をくぐれないし上もまたげないという存在箇所の独占など、”在る“ことを強調して見せていて興味深い。

   さらに、階段を登って3階とそこからロフトになっている4階まで展示がされている。

   4階ロフトの壁面には、洋書が数冊、面置きされている。近づくと本に見えるが中はガラスである。きっと誰もが驚くだろうが、同時にそこの左下の床に普段は見ないような箱が縦積みされていて、不思議なほどに存在感を放っている。ところが、実はこの箱は、ガラス本を収納する箱で本来は展示品ではないという。それが、猿山氏のセンスで置かれると、主人公の作品を喰ってしまうほどの存在感を放つ。

   全く、置き方によってこれほどまでに物の印象や意味合い、そして魅力が変化するという事実に驚きである。置き方の力、重要性を強く再認識させられた。これは、立体物を空間上に設置する彫刻家にとっては、実制作と同様の重要性させ持つものだと思う。どうしても、作家は物作りの技術に偏重してしまうので、置き方、設置については、重要性を低く見積もってしまいがちだが、それだけでは十分ではないことが、この展示で明らかとなった。ガイドツアー時に、「今度からは展示は猿山さんに任せたい」とある作家が思わず言っていたが、よく分かる。美術大学などでも、作品の作り方は教えても、展示については深く示すことはない。だから、若い作家などは展示方法については頓着していないこともままある。私も今後は、展示や物の置き方、置かれ方について考えたいと思う。

   なんにせよ、プロは凄い。置き方で価値、意味を変えてしまうのだから。

 展示は5月26日(土)まで。

 置き方が空間と物の価値、意味を変容させるダイナミズムはその場でなければ体感できない。









2018年5月5日土曜日

コンポジション — モノが持つルール — 展を観て

   有楽町駅からすぐの無印良品の店舗に初めて入ったが、広く、階段状に上階へ展開する店内でとても都会的。個人的には90年代のはじめの頃がなぜか思い出された。まだ日本が元気だった頃。あの頃と違うのは客に外国人が多い事だ。日本がまた元気になりつつあるのかと感じた。広い二階フロアーに上がると、ゆるやかに区切られたカフェがあり賑わっている。書店コーナーもあるが、駅前スーパーのそれとはもちろん置かれている本の種類がちがって文化的指向が強い。他にもなんらかのテーマで区切られたエリアが散在しているので、目的の展示エリアはどこだろうかと見渡すと壁に面したそこを見つけた。

   ATELIER MUJIと書かれた展示エリアに置かれた冨井大裕氏の作品は、店舗内空間とよくマッチしている。それもそのはずで、作品は全て無印良品の商品が使われている。空間が通路で区切られているからいいが、そうでなければ積み置かれた商品と思い込んだ客が手を伸ばしてしまうだろう。白い壁に白い床の展示エリアに、模様などない白い色の商品を組み合わせた作品が置かれるとモノトーンの印象になる。視覚的に静か過ぎると感じられたからか、天井から赤や黄色などの鮮やかな色の帯が垂らされ作品の背景色になっている。

画像は無印良品のサイトから

   はじめに目につくのは、逆さにした樹脂製のファイルボックスをいくつも交互に重ねたもので、商品下に開いている穴に丸棒が一本通されている。棒が全体を貫いて支えているのだが、重ねた結果、上に行くに従って左に傾いている。この傾きが作る曲線が、直線的な会場に有機的な要素を与えていて興味深い。その右奥には同様に左に傾いた金属製の棚の作品がある。組み立て式の棚の4辺をずらして組んでいる。会場内に目を配ると、同様の傾きによる斜線構造がいくつも目に入る。それは直線と直角とで構成される商品の並べ替えによるのだから当然のことなのだが、工業製品が直線を求めたところに、作家はそこに足りない要素として斜線を求めるという、両者の対比関係が明らかに見られる。なんにせよ、人は足りないものを補いたくなる。足りないと感じるものを見つけるのであろう。展示作品の他の特徴としては、同一作には同一商品が用いられている。さらに、そのいくつかは反復的な配置から構成されている。同じ物から新しい物を構成するもっとも単純な手段が反復、つまり同じ物を連続的に繰り返すことだ。つまり、これは素材を元にした最小限の改変のバリエーションが提示されているのだと言える。
   マス目のルーズリーフの1ページにカッターで何本も切り込みを入れた作品が壁に掛けられている。金具を通す丸穴に向かって切り込みが走っている。切り込みは何度も繰り返され、鋭い影を作っている。指示書を見ると、タイトルが『大降り』とあり、切り込みは丸穴に向かうように書かれているから、それらを雨粒とその軌跡に例えているのだろう。
   “同一品で最小の改変“、”繰り返し“といったルールだと分節性が際立った形になりがちである。またその素材の性質からも縦より横に広がる向きが強い。その中にあって際立っていたのが、壁掛け式の金属製スタンドを縦に複数繋げた作品だ。それもただ上方へ繰り返すのでは無く、向きを変えるだけで斜め上方向へと視線を誘導し、一見すると単純な構造の繰り返しに見えない。さらに金属板が後ろの壁に落とす影は幅広で、それが実物と相まって何かソリッドな存在にさえ見えるのである。組み方をわずかに変えた2つが横並びに置かれた様はモニュメンタルで、これが10メートルの高さでも良いように思われた。
   
   全ての作品の近くにはA4サイズほどの紙が貼られており、作家の手書きで各作品の展示方法が記されている(正確にはそのコピーである)。ちょうど組み立て式家具について来る指示書のようだ。字が小さいので全てに目を通す人は多くないかも知れない。撮影可だと言うのでケータイで撮ってから目を通した。するとこれが面白い。一見、厳密に記されているようでいて力が抜けている。それも、力を抜いていいところがそのように記されている。例えば「グッ」、「ガバッ」、「フワッ」、「クシャッ!」、「ギューッ」、「ヒョイッ」という擬音語が当てられていたり、指示も「できる限り」や、「ほぼ」のように曖昧。更には「後は成り行き」と書かれていたりするのだ。完成を成り行きに任せる工業製品はあまり聞いたことがないから、やはりこれはアートのための指示書である。

   作家はこう言っている。「私は作品をつくった後に必ず指示書(組み立て説明書)を残します。作品をつくる時に私が大事にしていることは、目の前にある「もの」ではありません。ものに込められた人間の創意工夫―――「こと」です。」
   
  “もの”つまり物は物質だから目で見える。一方の“こと”は現象であり、それだけで存在することはない。“こと”がそれだけで存在できるように感じられるのは人間が現象を概念化することができるからだ。そのことから、富井氏はここで自らを“コンセプチュアル・アーティスト“だと明示していると言える。だから、情報としての”こと“が残されていれば、その作品は再現可能なのだ。今回の展示は、”もの“の素材として無印良品の商品が用いられたが、それによって作家の独自性が失われることはない。重要なのは”もの“ではなく”こと“なのだから。

   通常、展覧会では、最も重要な展示品はケースに入れられたり複製品が用いられる。この展覧会場で貼られていたのは指示書はコピーつまり複製品だった。つまり、鑑賞者のほとんどが組み合わされた商品が作品だと信じるのとは裏腹に、本展覧会で最重要な展示品は壁に貼られた小さな指示書なのである。
   
   本展に置かれている作品の“素材”は工業製品で、全てが複製された物である。また、作家の手書きに見える指示書も複製だ。だから芸術作品を貴重なものにする要素としての物質的な希少性はここには存在しない。しかし、これらは消費される商品とも異なる。そういう存在に変容している。一体、その変換の境界はあるのか。商品から作品への物質的転換(変換ではなく)の過程は指示書に余すことなく記されている。
   アーティストは答えを提示していない。作品の答えのように丁寧に書かれ記されているものは、私たちの認識の再確認を促す世界への入り口を示す、標識なのだろう。
   
   

コンポジション — モノが持つルール — 展

  • 期間 : 2018年4月20日(金)〜2018年6月24日(日)

2018年5月3日木曜日

実感 言語と非言語

   私たちは、自己の経験や思考を互いに伝え合い、理解し合うことができる。しかし、それが伝えられるものは非常に限られているはずだ。例えば言葉で伝えるなら、言葉になるものしか伝えられないのだから。いや“行間を読む”と言うではないか・・。しかし、行間をどう読むのかは読み手に委ねられている。言語は伝えるべき内容の輪郭を、それが正確かどうかは別として、非常にはっきりと見せる。そのために、私たちは日常的な言語のやり取りで意思が伝わらないもどかしさを感じる事はほとんどない。そうとは言え、一体、どれだけ伝えたい事の本質が相手に届いているのだろう。
   言葉で他者に情報を伝える。これが実務的な内容ならば、さして難しくはない。しかし私たちのやり取りは、感情なきマシン同士がやり取りしているのではなく、そこには感情がある。では、感情をそのまま“伝える”ことなどできるだろうか。「まだ恋を知らない子供に、それを話し伝えることはできない。」と言うが、実際それは本当のように思われる。たとえ理解はできても“腑に落ちる”ことはなかろう。つまり実感が伴わないのである。そして恋愛に限らず、それ以外のあらゆる感情もまた、それを体感し実感した者にしか分からないはずである。
   そうなると見えてくるのは、実感のスイッチを入れる役割としての言葉である。言葉は特定の状況を想起させる。その時同時に、体の中では言葉に対応した実感が沸き起こるのだろう。つまり、その実感はあくまでもそれを知っている(持っている)本人の自前である。人生経験の多い年長者が共感や包容といった感性により親密なのは、そのせいもあるに違いない。

   方や、「非言語的」伝達がある。文字通り、“言葉にならない”伝達のことだ。これは、言葉で示せないのだから、伝達に間違いが生じやすいのではないかと感じられなくもない。しかし、それはおそらく間違いで、より深く、相手の“腑に落ちる”形で伝達できるのは、むしろこの非言語的伝達であろう。人間にとっての代表的なそれは顔の表情である。表情は顔の皮膚を筋肉で引っ張って歪ませることで作られる。その筋肉をコントロールする脳の部分は感情と深く結びついているので、感情に伴ってほとんど瞬間的に表情が作られる。さらにそれは文化による影響を受けない。笑顔、泣き顔、起こり顔、困り顔といった感情に即した表情は人類共通である。つまり、言語のように決まりごとを学ぶ必要もない上に、伝達間違いも起こらない。人類は感情伝達を顔面部へと集約させたが、とは言え首から下の全身も用いられないわけではない。それは幼い子供ほど顕著である。彼らは喜んでは飛び上がり、怒っては地団駄を踏む。大人になるとだいぶ大人しくなるものの、手は今だに顔の次に表情を語っている。ただしこの伝達制度は、“指差し”の人差し指を除いて、顔とは比べ物にならないほど曖昧となる。
   視覚芸術としてまとめられる古典的な芸術、すなわち絵画や彫刻は、この非言語的伝達を扱っている。中でも西洋彫刻は、人体表現から表情を取り除かれる傾向があり、全身の姿勢によってそれを伝えようとする。そのため表情が描かれる絵画以上に、伝達内容が曖昧とならざるを得ない。それは言い換えれば、「何を伝えたいのか分からない」ということになる。絵画が持つ、親しみやすい物語性をそこに期待すると、何を読み取ればいいのか分からない。美術館では彫刻作品は絵画と比較して鑑賞時間が短い傾向が見られるのは、そういう理由もあるだろう。彫刻は絵画とは全く異なる性質を持つ表現だが、私たちはどうしてもそこから言語化できる物語性を欲してしまうのである。言語優位性は人間の本能とさえ言えるものだ。作品を前にしても、まずタイトルとキャプションを読まなければ不安に感じるのも同じ理由であろう。

   芸術が感情と親密だと言われるのは、それが上記のように非言語的だからで、それゆえ文化や時代を超えて訴えかける伝達媒体であることを示してもいる。しかし、同時に言語の即時有効性が身に染みてもいる私たちは、芸術にも言語的伝達を常に持ち込もうと試みている。しかし、その本質はあくまでも非言語性であり、たとえ表現が論理的側面を強めたとしてもなお、その行間にどれだけ豊かな非言語的”実感“を想起させ得るかが重要であることに変わりは無い。芸術にとって言語は看板文句に過ぎない。そして、芸術家(とその愛好者)は、世界は言葉にならないもので満ちていて、それこそが生きる世界に”色を与えている”ことを知っているのである。