2016年1月28日木曜日

今について

 1秒、また1秒と時は流れていく。いま、この瞬間を意識したとたん、それは既に過去と成っている。つまり、認識している世界は全て過去である。過去とは何か。私たちが主観的に認識する過去とはつまりは記憶のことである。
 ケータイにはカメラが付いている。いまではそれが当たり前だ。多くの人が今を記録したいと思っている。そこには過ぎ去ってしまった過去が記録されていると感じるからだ。このブログのように、考えたことを文字で記録することも人は好む。しかし実際は、それらは私たちの脳内に刻まれた記憶をよみがえらせるきっかけである。主観的な「思い出」は現実味があって、絵画を見るような空々しさはそこにはない。それは、その時に感じていた「今」が実はすでに少し前の「思い出」であったことの証しでもある。私たちはだれも本当の「今」を知ることはない。私たちが今この瞬間感じていることは既に脳内では「出来たての思い出」なのだ。現象は全て、流れ落ちる水に手をくべているようなもので、決してその瞬間を手の中に留めておくことはできない。
 これからやってくるであろう未来について、私たちは予測する。例えば、週末に出掛ける予定があれば、その事を楽しみに待つだろう。ところが、週末がやってきて出掛けて楽しんでいるその経験の全ては「少し前の思い出」である。そして帰宅すればもうそれは「思い出」となっている。
 楽しみに待っていたその瞬間はどこにあったのだろうか。まるで、新幹線の窓からそとを眺めているようだ。進行方向を見ると景色が自分に近づいてくる。それは自分の横を過ぎ去るときに最も早くなり、あっという間に後の景色として流れ去っていくのだ。景色として眺められるのは前景と後景だけである。

 未来、今、過去といった時間概念も、私たちは進化のなかで身につけた概念である。私たち動物は、行動を起こすために、「その前」の予測が重要である。そして、予測を可能にするには記憶が前提となる。行動の記憶を元に予測することで、新しい行動は無駄が無く危険の回避にも繋がる。このように、周囲環境の予測と、予測通りであったか否かという確認の連続が個体運動を支えてきたのであろう。そこに「今」は必要ない。
 
 しかし、時の流れには未来と過去の間に「今」がある。私たちの身体においてそれはどう感じ取られているのだろうか。それを担っているのが、身体各所にある感覚器官による刺激受容とそれに伴う反射行動ということになる。主に外世界の受容で見れば、皮膚には体性感覚にまとめられる各種感覚受容器が存在している。つまり、触覚、温冷覚、痛覚などの皮膚感覚である。また、頭部には目鼻口耳で捉えられる特殊感覚があり、世界を真っ直ぐに見て聞いて嗅いで味わっている。いま皮膚に何かが触れて、「何だろ」と思った時には、それは既に過去である。しかし、皮膚の感覚器は物が触れた瞬間にパルスを発し、それは直ぐ近くの脊髄内で運動ニューロンに伝達され筋の収縮命令が即座に出されている。この反射と呼ばれる過程は、運動様式のもっとも古い単純なもので、「触れている物がなんなのか」など全く考慮していない。「今その瞬間」にはそれが何なのかという判断がないのだ。私たちが知っている世界の記憶は、そういった感覚受容器から届けられた「今その瞬間」のパーツを組み合わせることで作られる。そうやって都合良く組み立てられた世界が「少し前の思い出」なのだ。
 
 私たちが漠然と「今」と信じている「少し前の思い出」は、感覚器たちが捉えた”前後不覚”な情報を元に組み立てられた世界だ。その世界はだから、生の、そのままの外世界ではあり得ない。そこには、期待や失望、喜びや悲しみ、過去の記憶などから自在に脚色が加えられるのである。だからこそ、悲しみによって世界は本当に色を失うし、希望によって本当に色付くのである。

2016年1月26日火曜日

メメント・モリ

 いま、生きている人は皆いずれ死ぬ。この死は、生きている人にとっては誰もまだ体験していないことだが必ず”そうなる”と既に決定している。つまり、私たちは決められた未来の下に生きているのである。

 さて、私たちは細胞の群体として存在している。意識を生み出している神経系も個々の細胞の集まりからできている。意識とはそういった無数の群体間の情報のやりとりに生まれた現象だとするなら、群体を構成している個々の細胞にまで分けてしまえばそこには意識はもはや見いだせないだろう。私たちの意識はあくまでも私たちのサイズでの事象である。私たちは死に意識的だが、それははじめからそうであったのではない。ただ、個体が死ぬという状態からは逃避するという行動様式は古くから身についていた。これは死を恐れていたからではない。個体の生命現象が停止しないような振る舞いを身につけたものだけが残ったのだ。死とそれに直結する身の危険からの忌避感覚はその後に後付けされたものだろう。それは自らが身につけた偶然的行為を肯定させる。だから、死が全ての生命体にとって忌避すべき現象では決してない。死すべき現象を取っている生命があればそのものは、私たちが明日も生きるのが当然と信じるかの如く至極当然に、自ら死んでいくのである。そのような生命は、私たちの体を構成している細胞達によく見られる。私という個体を維持するために自ら死んでいく細胞達が無数にいる。

 私たち個人の死というのは、個人を構成している細胞達によるシステムの不可逆的な崩壊であるとも言える。リカバリーの効く部分的な崩壊であれば、個人の死は免れる。それがある閾値を超えるともはや立ち戻れず、なし崩しに秩序が崩壊していくのだ。だから、個人の死と言ってしまうと1つの命がぷつんと消えるようだが、実際は無数の細胞の命がバタバタとドミノ倒しの様に消えていくようなものだ。つまり、1人の死には「死にはじめ」から「死に終わり」までタイムラグがある。ただ私たちは、自分や誰かを継続的な意識的反応に見ているので、それが消えるとその人が死んだと捉える。今は意識が消えても機械で身体の生命を維持できるので脳死という現象、言葉が生まれた。意識はシステムに生まれる現象であるから、脳死であっても、機械で栄養が送られていれば、身体を構成している細胞のひとつひとつは何の不満もなく生命現象を継続する。しかし、それでもいつかは個人の全細胞が死ぬときが来る。
 個体の死は、システムに組み込まれたものだという。つまり、私たちは個体が死ぬことを織り込み済みで進化してきたのだ。個体の死は生命体における失策ではない。むしろ死なないことは失敗だった。多様な生命の多くが個体死を組み込んで進化していることからもそれは分かる。外部環境の多様な変化と同調するには、適当なサイクルで個体が死んで行くことが重要なのである。もちろんそれは次世代を作ってからのことだが。つまり私たち個人の死は、人類という種の継続のために役立っているのである。種の継続と個体の死は表裏一体の現象なのだ。

 さて、先に私たちの体を構成している自ら死んでいく細胞たちは疑うことも抗うこともせずに死んでいくと書いた。私たち個人も巨視的に見れば、種存続のために組み込まれた死を受け入れ死んでいく。しかし、私たちは死を恐れ免れたいと欲求するのである。ここに身体と精神の二律背反が起こっている。なぜこのようなことが起こったのか。決して個体死から逃れられないのにも関わらず、なぜ抗い続けようとするのか。抗おうとしているのは意識である。では、その意識が生命システムにおいて立ち現れた理由、原因は何であろう。意識は自らの生命現象を確認し定義づける働きを見せる。いったいそれは何の必要があるのか。もし私たちが単独で生きていたらそれは必要だろうか。確認し、定義付けるメリットは、それを他者に伝えることが出来るということではないか。同種の他者と意思行動を共有するには他者の行動を「観察」し、自己と「比較」することが必要である。観察や比較といった客観的視点は、そのまま自分へと向く。そこには他者から自己へのフィードバックもあるだろう。やがて私たちは自分自身をも他者のように観察し比較することが可能になる。そうして自己客観視は意思として私たちの内側に居座るようになるのだ。よく考えてみれば「私」とはどこにいるのだろうか。自分存在を「私」として切り離せるのは、自己を他者として投影しているからであろう。これは「精神」や「魂」など様々なかたちを取るが、常に肉体的身体と別体であろうとするのも、それが故であろう。

 自分の死を体験した人はいないという事実を思い起こそう。私たちの知る死は全て他者のそれである。死とは客観的事象なのだ。観察される死はいつも悲しみや苦しみなどネガティブな感情を伴っている。それはもちろん、そう感じるように出来ているからで、同種他者の死は種の個体数減少と直結しているのであるから深刻な事態である。そして、他者を失う喪失感はそのまま自分の死として客観されるのである。他者の死が喪失を伴う哀しいものであるなら自己の死もそういうことになるのだ。こうして、客観的に観察された死は自己にも訪れる忌避すべきものとして植え付けられ、私たちは最後の瞬間までそれから逃れようとする。

 社会性動物ゆえに意識を持ち、意識的ゆえに死を恐れる。しかし、死を恐れるという意識も、人類の社会性のうえに返されることで人類に恩恵を与えることになった。それが医学である。意識的であるということは、本質的には自己も他者もないのであるから、私たちは他人の苦しみを自分のものとして捉えることができる。他人の苦しみを取り除き死から遠ざけることは自らの死を遠ざけることに等しいのである。
 しかし、医学がすることは病や怪我などのように”部分的な崩壊”のリカバリーに過ぎない。医学も個体死を消すことは出来ない。

 意識を持つことで死を知ってしまった。だが、それは同時に生を知ることでもあった。抗えども逃げられぬ死。しかしそれを恐れているということは、まだ生きているということの客観的証明でもある。身体的危機を免れると生きていることを実感する。なんとも皮肉だが仕方がない。

2016年1月16日土曜日

アンパンマンの頭と体

 アンパンマンについて、ふと考えたこと。

 アンパンマンは、アンパンで出来ている自分の頭を腹を空かせた者に分け与える。また、頭部が水に濡れてふやけると力が弱くなってしまう。このように頭部を損傷しても、新しい頭と取り替えることで元に戻る。新しい頭は、ジャムおじさんが焼いている。頭と取り替える時は、新しい頭部が飛んできて、まるでビリヤードの球がぶつかるように古い頭をはじき飛ばして胴体と結合する。古い頭はどうなってしまうのだろう。固まった笑顔のまま地面に転がるのだろうか。頭部と胴体が切り離されるという表現は衝撃的である。
 また、頭部と胴体が分かれるのであれば、胴体は何なのかも気になる。「アンパンマン」という呼称に適うのは彼の頭部だけで、胴体は特にアンパンではないように見える。頭はジャムおじさんが作っているが胴体はどこから来たのだろう。まあ、胴体もジャムおじさんが作ったのだろう。パンではない何かで。そう考えるのが妥当だ。

 上記の様に、アンパンマンは頭部と胴体とが完全一体ではない。それは私たちの体の構造と大きく異なる。異なるけれども、平常時はあたかも一体のように振る舞っている。
 私たちの体の頭部と胴体とは、その間の頸(くび)で繋がっている。頸は「くびれている」ので頭と胴体とを結びつける部位として見られるけれども、それを発生的もしくは構造的に見れば、あくまで二次的にくびれただけで、本質的には胴体と一体であることが分かる。頚は脊椎動物が上陸した後にできたと考えられている。だから頸を持つ魚はいない。
 しかし、アンパンマンは違う。彼の頸は単なるくびれではなく頭と胴体との連結部として機能しているのだ。頭部と胴体とは必要に応じて接続されたり切り離されたりする。そして、頭と胴体とが連結されているときは両者が一体として振る舞う。つまり、1人のアンパンマンとして。その時の胴体は明らかに頭部の意思決定に従っているように見える。つまり、ばいきんまんの悪さを見聞きし、それに怒ってアンパンチを繰り出すという一連の判断は頭部のアンパンが行い、その判断を実行に移すのが胴体である。必殺技のアンパンチは胴体の運動に依っている。つまり、アンパンによる外部判断と意思決定が胴体へと伝わって運動を引き起こしている。その様は、私たちの機能と似通っている。
 ただし、私たちは意識的な運動の高次コントロールは頭部の大脳皮質にあるが、アンパンマンのそれが頭部にあるのかというと、それは消極的だ。頻繁に損傷し取り替えられる頭部は、純粋な感覚器と効果器としての顔面を持っているだけかもしれない。

 彼がアンパンマンと呼ばれるのは頭部がアンパンだからだ。その意味で、頭部の重要性は大きい。しかし、1人のアンパン”マン”として完成するには胴体が不可欠であることも、また事実である。ジャムおじさんの工房で焼かれたアンパンマンの頭部だけの状態では表情に動きがない。それはまさしく単なるアンパンだ。アンパンマンの頭部は胴体と結合することでアンパンマンとしての意思を発現させるのである。

 食べられても、ふやけても、何度も交換することができる頭部。別物の頭になっても以前と同じアンパンマンを自認するが、胴体と結合するまではただのアンパン・・。こうしてみると、動くアンパンマンとしての主体が実はあの頭部ではなく、胴体であることが分かってくる。そう思えば、アンパンマンは自分の胴体の一部を他者に与えることもしないし、胴体を交換することもない。アンパンマンの存在としての唯一性を支えているのは物言わぬ胴体なのだ。そう思えば、彼が空を飛び、弱者を助け、悪者とたたかっているのも全て胴体である。

 上記したように、アンパンマンは自分を「アンパンマンだ」と自認しているが、その自己決定を発声運動として表出させるのには胴体が必要なようだ(結合前の頭部は動かない)。だから、連結前のアンパンが、自らをアンパンマン(もしくはアンパン)だと自認しているのかどうかは知りようがない。しかし、胴体は交換アンパンが結合した後にどうして自らがアンパンマンだと分かるのだろう。その答えとしてひとつ言えるのは、”アンパンマンだ”と呼びかけられることによる自己認識がある。アンパンの頭をした彼は、ジャムおじさんをはじめ周囲のキャラクターたちから「アンパンマン」と呼ばれることで自らがアンパンマンだと自認するだろう。別の可能性は、彼(の胴体)が、自らをアンパンマンだとする自己同一性を保持しているのかも知れないということだ。新しい頭と取り替えられても、取り替えられる前と同じ自分というそぶりを見ると、後者である可能性が高い。そうであれば、たとえ胴体にカレーパンが結合してしまっても「ぼくはアンパンマン」と言うはずだ。しかし、見た目からカレーパンマンと呼ばれることによって、外見と内面とのギャップ「パン同一性障害」に悩まされるかもしれないけれど。

 さて、このように見てくると、アンパンマンの頭部と胴体との従属関係が当初思われていたそれと違ってきた。即ち、アンパンマンの自己同一性を保持しているのは、実はあの特徴的な頭部ではなく胴体であった。では、アンパンマンにとっての頭部の意義は何かと言うと、それはアンパンであるということにつきるだろう。それは彼にとって何の意味があるのか。それは彼の世界におけるアイデンティティー確立のため、つまり、他者から「あ、アンパンマンだ」と呼ばれるため、ということになる。

 アンパンマンは、誰からもそうと分かるように常に同じ頭部に同じ表情で飛び回っている。しかし、彼の自己同一性を保っているのは、交換可能な頭部ではなく、たったひとつの物言わぬ胴体の方なのだ。

 アンパンマンについては、顔がそっくりなジャムおじさんとの関係性についてや、アンパンマンが”いい人過ぎて人間味に欠ける”理由についてや、アンパンマン世界と彫刻との関連など、色々と考えることがある。それらは、いずれまた。

2016年1月11日月曜日

顎(あご)の形

 ふと、人の下顎の形が気になった。人にはいわゆる「顎のエラ」があるが、そもそもなぜあるのか。

 だいぶ前、肉食恐竜と草食恐竜とは顎関節の位置に違いがあるというのを読んだ。簡単に言えば、肉食恐竜のそれは歯列に対して上側にあって、草食恐竜は下側にある。それが歯にかかる力の伝わり方に影響していると。確かに顎関節の位置は対照的で、その時にそれに気付いたから覚えているのだが、力の伝わり方まではいまいち分からなかった。
 恐竜でも人間でも力学は同じだから、何かヒントがあるだろうと自分なりに考えた。歯列に対する顎関節の上下は、ただそれだけなら両者で変わりはない。上下をひっくり返せば同じだから。ネットで探すと、肉食恐竜の歯列は顎関節から直線的でハサミの様で、草食は角がある(いわゆるエラ)のでくるみ割りのように歯が当たるとあった。これは分かりやすい。側面図でいろいろ考えると、顎関節と前歯前端と奥歯後端の3点をむすぶ三角形を描くとよい。すると、奥歯後端の点が下に下がるほど、前歯前端と奥歯後端を結ぶ線が、顎関節を軸とする回転円周曲線に近づく。回転円周に近いほど、噛みしめたときの圧力は弱く、すりつぶし力が強くなる。つまり、そういう三角を描く顎ほどすりつぶしに向いている草食よりと言える。そう思って、ゾウの頭蓋を見ると、その奥歯の咬合面は見事に円周曲線上に近い。今度はライオンを見ると、歯列はかなり顎関節−前歯前端直線に近い。つまりハサミのように切るのに向く。

 人を見ると、両者の中間型だ。顎関節を上に上げる(もしくは、歯列を下に下げる)ことで、前歯前端−奥歯後端の歯列直線は、顎関節−前歯前端直線を斜めに横切って走る。だから、はさみのようでもあり、すりつぶしにも向いているとも言える。化石人類を見てみると、この斜めの横切りがより深く交わるように見える。つまり、現代人よりもすりつぶし型となる。人類は、草食動物よりの顎から始まったのだろうか。

 肝心の顎エラの直接的な回答とはずれたが、面白い。エラは咬筋付着部だから、その走行角度と歯列線とも何らかの関係があるのだろうな。もちろん側頭骨も。しかし、顎関節と歯列直線の関係性には力学的な理由が必ずあるはずで、それは「何をどう食べるか」が反映しているはずだ。

 長頭、短頭の話も、顔面部の発達と関係があるのではないだろうか。耳を挟んだ前方は内臓頭蓋、後方が神経頭蓋が占めている。前方が重くなれば、後方もバランス取りのために重くしたい。逆も然り。つまり、アゴが軽くなれば、後頭部を”短くしたい”。かといって脳を削ることは出来ないから左右幅を広げる。こうすると短頭が出来上がる。どうかな。

  上記文章は2014年初頭のものと思うが、ブログのカレンダー日付が狂い、先頭へ来たもの。

批判的に見る

 かつて学んだ大学院の教室のサイトの始めの文章に「対象を批判的に見る」という文言がある。それまで、批判的に見るというのがどういうことを意味するのか、あまりぴんときていなかった。修士までの芸術領域ではそういった話など出たこともない。だから、批判的と聞くと、相手や対象を信用しないというネガティブな印象を抱いた。実際、普通社会で批判的という言葉はそういう意味合いで用いられている。
 教室に入ると、毎週、抄読会という海外の医学論文をプレゼンする勉強会があった。担当は教室のメンバーが順番で回ってくる。レジュメを作成し、論文の要旨を発表する。すると、教授はじめ教員たちからその論文内容についていっせいに「つっこみ」が入る。つまりそれが批判なのだが、選んだ論文が悪いと、つっこみさえ入らずに終わってしまうこともあって、それはそれで寂しいものだ。しかし、つっこまれると自分の論文でもないのに自分が責められているようでなぜか悔しい気持ちにもなる。この抄読会の効果はしかし強大で、論文の構成組み立ての理解に役立つだけでなく、「批判的に対象を見る」という姿勢が半ば自然に理解できていったように思う。
 結局、批判的に見るというのは、対象を疑って掛かるという意味なのだが、その行為は決して後ろ向きであってはならず、建設的に前を向いている。つまり、そこに示されているものを批判するには、それを上回る情報をまずこちらが持っていなければならない。この情報とは、何も具体的なものだけを指しているのではない。むしろ具体的な情報はあとで調べれば入手できるので、それはパズルのピースのようなもので、重要なのは、そのパズルの組み立ての全貌や完成品の質への情報である。
 数多くの著書がある教授の文章の構築も、私にとっては教科書のようなものだ。著者とその著書の両方を知れるというのは、誰でも体験できるものではないが、その幸運に恵まれた私の感想としては、文章はその著者の思考体系が現れる、というものである。さらに言えば、著者の性格さえも文章には現れるのだということも実感できた。著書は著者の分身なのだ。

 さて、話をもどすが、対象や文章への批判的な視点はしかし、一般的ではない。インターネット上の文章や、その読者の反応を見ると、その事がよく分かる。私たちは、表されたものをとりあえずは信じるという性質があるのだろう。だからこそ、「批判的に見よ」とわざわざ名言しなければならないのであるし。
 しかし、ネット上の意見や文章が、すべて批判無しに受け入れられるものばかりかというと決してそうではない。発言は基本的に自由であるから、そこには、ありとあらゆるタイプの文章が転がっている。そういう中に、厄介なものもある。例えば「それらしい文章」だ。発言する者の意思としては、当然ながらそれを信用して貰いたい欲求がある。そのために各人が様々な”工夫”を凝らしている。個人的な発言であることが明解な場合(このサイトのように)は、発言者個人が信用に値するかどうかの小さな問題なのだが、それが団体の体をしていると、閲覧者は個人よりもその内容を信用する向きがある(それが団体活動の利点の1つだ)。しかしながら、様々なレベルの団体が存在しているのが事実で、それは「1団体を1個人」として変換しても良いようなものだ。つまり、何が言いたいかというと、団体だろうが個人だろうが、そこに提示されている文章なりの内容からその質を判断しなければいけないだろうということである。多くの文章を目にするようになった私たちには、積極的に自らその質を判断できる必要性が求められているのである。そこに必要な態度が、「批判的」なのだ。

 批判的を簡単に言えば「疑ってかかる」だが、上記したようにやみくもなそれではなく、文章全体の方向性や構築から、その質を客観的に判断しようとするのである。すると、流しで読むと一見客観的視点から書かれているようにも見える文章が、実は狭い視点からの思い込みを説得させようとしているものだったりすることに気付く。誰が書いたか、どこの団体が書いたか、だけで判断するのはあまり良くないようだ。

 また、さらに興味深いのは、上記した文章の問題は、芸術作品という文章ではない対象にも大方あてはまるということである。一見、それらしい作品は数多いけれども、その質が適切に整っているのかどうかは、また別である。

 批判的という視点は対象判断の役に立つ。