かつて学んだ大学院の教室のサイトの始めの文章に「対象を批判的に見る」という文言がある。それまで、批判的に見るというのがどういうことを意味するのか、あまりぴんときていなかった。修士までの芸術領域ではそういった話など出たこともない。だから、批判的と聞くと、相手や対象を信用しないというネガティブな印象を抱いた。実際、普通社会で批判的という言葉はそういう意味合いで用いられている。
教室に入ると、毎週、抄読会という海外の医学論文をプレゼンする勉強会があった。担当は教室のメンバーが順番で回ってくる。レジュメを作成し、論文の要旨を発表する。すると、教授はじめ教員たちからその論文内容についていっせいに「つっこみ」が入る。つまりそれが批判なのだが、選んだ論文が悪いと、つっこみさえ入らずに終わってしまうこともあって、それはそれで寂しいものだ。しかし、つっこまれると自分の論文でもないのに自分が責められているようでなぜか悔しい気持ちにもなる。この抄読会の効果はしかし強大で、論文の構成組み立ての理解に役立つだけでなく、「批判的に対象を見る」という姿勢が半ば自然に理解できていったように思う。
結局、批判的に見るというのは、対象を疑って掛かるという意味なのだが、その行為は決して後ろ向きであってはならず、建設的に前を向いている。つまり、そこに示されているものを批判するには、それを上回る情報をまずこちらが持っていなければならない。この情報とは、何も具体的なものだけを指しているのではない。むしろ具体的な情報はあとで調べれば入手できるので、それはパズルのピースのようなもので、重要なのは、そのパズルの組み立ての全貌や完成品の質への情報である。
数多くの著書がある教授の文章の構築も、私にとっては教科書のようなものだ。著者とその著書の両方を知れるというのは、誰でも体験できるものではないが、その幸運に恵まれた私の感想としては、文章はその著者の思考体系が現れる、というものである。さらに言えば、著者の性格さえも文章には現れるのだということも実感できた。著書は著者の分身なのだ。
さて、話をもどすが、対象や文章への批判的な視点はしかし、一般的ではない。インターネット上の文章や、その読者の反応を見ると、その事がよく分かる。私たちは、表されたものをとりあえずは信じるという性質があるのだろう。だからこそ、「批判的に見よ」とわざわざ名言しなければならないのであるし。
しかし、ネット上の意見や文章が、すべて批判無しに受け入れられるものばかりかというと決してそうではない。発言は基本的に自由であるから、そこには、ありとあらゆるタイプの文章が転がっている。そういう中に、厄介なものもある。例えば「それらしい文章」だ。発言する者の意思としては、当然ながらそれを信用して貰いたい欲求がある。そのために各人が様々な”工夫”を凝らしている。個人的な発言であることが明解な場合(このサイトのように)は、発言者個人が信用に値するかどうかの小さな問題なのだが、それが団体の体をしていると、閲覧者は個人よりもその内容を信用する向きがある(それが団体活動の利点の1つだ)。しかしながら、様々なレベルの団体が存在しているのが事実で、それは「1団体を1個人」として変換しても良いようなものだ。つまり、何が言いたいかというと、団体だろうが個人だろうが、そこに提示されている文章なりの内容からその質を判断しなければいけないだろうということである。多くの文章を目にするようになった私たちには、積極的に自らその質を判断できる必要性が求められているのである。そこに必要な態度が、「批判的」なのだ。
批判的を簡単に言えば「疑ってかかる」だが、上記したようにやみくもなそれではなく、文章全体の方向性や構築から、その質を客観的に判断しようとするのである。すると、流しで読むと一見客観的視点から書かれているようにも見える文章が、実は狭い視点からの思い込みを説得させようとしているものだったりすることに気付く。誰が書いたか、どこの団体が書いたか、だけで判断するのはあまり良くないようだ。
また、さらに興味深いのは、上記した文章の問題は、芸術作品という文章ではない対象にも大方あてはまるということである。一見、それらしい作品は数多いけれども、その質が適切に整っているのかどうかは、また別である。
批判的という視点は対象判断の役に立つ。
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