2016年1月26日火曜日

メメント・モリ

 いま、生きている人は皆いずれ死ぬ。この死は、生きている人にとっては誰もまだ体験していないことだが必ず”そうなる”と既に決定している。つまり、私たちは決められた未来の下に生きているのである。

 さて、私たちは細胞の群体として存在している。意識を生み出している神経系も個々の細胞の集まりからできている。意識とはそういった無数の群体間の情報のやりとりに生まれた現象だとするなら、群体を構成している個々の細胞にまで分けてしまえばそこには意識はもはや見いだせないだろう。私たちの意識はあくまでも私たちのサイズでの事象である。私たちは死に意識的だが、それははじめからそうであったのではない。ただ、個体が死ぬという状態からは逃避するという行動様式は古くから身についていた。これは死を恐れていたからではない。個体の生命現象が停止しないような振る舞いを身につけたものだけが残ったのだ。死とそれに直結する身の危険からの忌避感覚はその後に後付けされたものだろう。それは自らが身につけた偶然的行為を肯定させる。だから、死が全ての生命体にとって忌避すべき現象では決してない。死すべき現象を取っている生命があればそのものは、私たちが明日も生きるのが当然と信じるかの如く至極当然に、自ら死んでいくのである。そのような生命は、私たちの体を構成している細胞達によく見られる。私という個体を維持するために自ら死んでいく細胞達が無数にいる。

 私たち個人の死というのは、個人を構成している細胞達によるシステムの不可逆的な崩壊であるとも言える。リカバリーの効く部分的な崩壊であれば、個人の死は免れる。それがある閾値を超えるともはや立ち戻れず、なし崩しに秩序が崩壊していくのだ。だから、個人の死と言ってしまうと1つの命がぷつんと消えるようだが、実際は無数の細胞の命がバタバタとドミノ倒しの様に消えていくようなものだ。つまり、1人の死には「死にはじめ」から「死に終わり」までタイムラグがある。ただ私たちは、自分や誰かを継続的な意識的反応に見ているので、それが消えるとその人が死んだと捉える。今は意識が消えても機械で身体の生命を維持できるので脳死という現象、言葉が生まれた。意識はシステムに生まれる現象であるから、脳死であっても、機械で栄養が送られていれば、身体を構成している細胞のひとつひとつは何の不満もなく生命現象を継続する。しかし、それでもいつかは個人の全細胞が死ぬときが来る。
 個体の死は、システムに組み込まれたものだという。つまり、私たちは個体が死ぬことを織り込み済みで進化してきたのだ。個体の死は生命体における失策ではない。むしろ死なないことは失敗だった。多様な生命の多くが個体死を組み込んで進化していることからもそれは分かる。外部環境の多様な変化と同調するには、適当なサイクルで個体が死んで行くことが重要なのである。もちろんそれは次世代を作ってからのことだが。つまり私たち個人の死は、人類という種の継続のために役立っているのである。種の継続と個体の死は表裏一体の現象なのだ。

 さて、先に私たちの体を構成している自ら死んでいく細胞たちは疑うことも抗うこともせずに死んでいくと書いた。私たち個人も巨視的に見れば、種存続のために組み込まれた死を受け入れ死んでいく。しかし、私たちは死を恐れ免れたいと欲求するのである。ここに身体と精神の二律背反が起こっている。なぜこのようなことが起こったのか。決して個体死から逃れられないのにも関わらず、なぜ抗い続けようとするのか。抗おうとしているのは意識である。では、その意識が生命システムにおいて立ち現れた理由、原因は何であろう。意識は自らの生命現象を確認し定義づける働きを見せる。いったいそれは何の必要があるのか。もし私たちが単独で生きていたらそれは必要だろうか。確認し、定義付けるメリットは、それを他者に伝えることが出来るということではないか。同種の他者と意思行動を共有するには他者の行動を「観察」し、自己と「比較」することが必要である。観察や比較といった客観的視点は、そのまま自分へと向く。そこには他者から自己へのフィードバックもあるだろう。やがて私たちは自分自身をも他者のように観察し比較することが可能になる。そうして自己客観視は意思として私たちの内側に居座るようになるのだ。よく考えてみれば「私」とはどこにいるのだろうか。自分存在を「私」として切り離せるのは、自己を他者として投影しているからであろう。これは「精神」や「魂」など様々なかたちを取るが、常に肉体的身体と別体であろうとするのも、それが故であろう。

 自分の死を体験した人はいないという事実を思い起こそう。私たちの知る死は全て他者のそれである。死とは客観的事象なのだ。観察される死はいつも悲しみや苦しみなどネガティブな感情を伴っている。それはもちろん、そう感じるように出来ているからで、同種他者の死は種の個体数減少と直結しているのであるから深刻な事態である。そして、他者を失う喪失感はそのまま自分の死として客観されるのである。他者の死が喪失を伴う哀しいものであるなら自己の死もそういうことになるのだ。こうして、客観的に観察された死は自己にも訪れる忌避すべきものとして植え付けられ、私たちは最後の瞬間までそれから逃れようとする。

 社会性動物ゆえに意識を持ち、意識的ゆえに死を恐れる。しかし、死を恐れるという意識も、人類の社会性のうえに返されることで人類に恩恵を与えることになった。それが医学である。意識的であるということは、本質的には自己も他者もないのであるから、私たちは他人の苦しみを自分のものとして捉えることができる。他人の苦しみを取り除き死から遠ざけることは自らの死を遠ざけることに等しいのである。
 しかし、医学がすることは病や怪我などのように”部分的な崩壊”のリカバリーに過ぎない。医学も個体死を消すことは出来ない。

 意識を持つことで死を知ってしまった。だが、それは同時に生を知ることでもあった。抗えども逃げられぬ死。しかしそれを恐れているということは、まだ生きているということの客観的証明でもある。身体的危機を免れると生きていることを実感する。なんとも皮肉だが仕方がない。

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