1秒、また1秒と時は流れていく。いま、この瞬間を意識したとたん、それは既に過去と成っている。つまり、認識している世界は全て過去である。過去とは何か。私たちが主観的に認識する過去とはつまりは記憶のことである。
ケータイにはカメラが付いている。いまではそれが当たり前だ。多くの人が今を記録したいと思っている。そこには過ぎ去ってしまった過去が記録されていると感じるからだ。このブログのように、考えたことを文字で記録することも人は好む。しかし実際は、それらは私たちの脳内に刻まれた記憶をよみがえらせるきっかけである。主観的な「思い出」は現実味があって、絵画を見るような空々しさはそこにはない。それは、その時に感じていた「今」が実はすでに少し前の「思い出」であったことの証しでもある。私たちはだれも本当の「今」を知ることはない。私たちが今この瞬間感じていることは既に脳内では「出来たての思い出」なのだ。現象は全て、流れ落ちる水に手をくべているようなもので、決してその瞬間を手の中に留めておくことはできない。
これからやってくるであろう未来について、私たちは予測する。例えば、週末に出掛ける予定があれば、その事を楽しみに待つだろう。ところが、週末がやってきて出掛けて楽しんでいるその経験の全ては「少し前の思い出」である。そして帰宅すればもうそれは「思い出」となっている。
楽しみに待っていたその瞬間はどこにあったのだろうか。まるで、新幹線の窓からそとを眺めているようだ。進行方向を見ると景色が自分に近づいてくる。それは自分の横を過ぎ去るときに最も早くなり、あっという間に後の景色として流れ去っていくのだ。景色として眺められるのは前景と後景だけである。
未来、今、過去といった時間概念も、私たちは進化のなかで身につけた概念である。私たち動物は、行動を起こすために、「その前」の予測が重要である。そして、予測を可能にするには記憶が前提となる。行動の記憶を元に予測することで、新しい行動は無駄が無く危険の回避にも繋がる。このように、周囲環境の予測と、予測通りであったか否かという確認の連続が個体運動を支えてきたのであろう。そこに「今」は必要ない。
しかし、時の流れには未来と過去の間に「今」がある。私たちの身体においてそれはどう感じ取られているのだろうか。それを担っているのが、身体各所にある感覚器官による刺激受容とそれに伴う反射行動ということになる。主に外世界の受容で見れば、皮膚には体性感覚にまとめられる各種感覚受容器が存在している。つまり、触覚、温冷覚、痛覚などの皮膚感覚である。また、頭部には目鼻口耳で捉えられる特殊感覚があり、世界を真っ直ぐに見て聞いて嗅いで味わっている。いま皮膚に何かが触れて、「何だろ」と思った時には、それは既に過去である。しかし、皮膚の感覚器は物が触れた瞬間にパルスを発し、それは直ぐ近くの脊髄内で運動ニューロンに伝達され筋の収縮命令が即座に出されている。この反射と呼ばれる過程は、運動様式のもっとも古い単純なもので、「触れている物がなんなのか」など全く考慮していない。「今その瞬間」にはそれが何なのかという判断がないのだ。私たちが知っている世界の記憶は、そういった感覚受容器から届けられた「今その瞬間」のパーツを組み合わせることで作られる。そうやって都合良く組み立てられた世界が「少し前の思い出」なのだ。
私たちが漠然と「今」と信じている「少し前の思い出」は、感覚器たちが捉えた”前後不覚”な情報を元に組み立てられた世界だ。その世界はだから、生の、そのままの外世界ではあり得ない。そこには、期待や失望、喜びや悲しみ、過去の記憶などから自在に脚色が加えられるのである。だからこそ、悲しみによって世界は本当に色を失うし、希望によって本当に色付くのである。
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