2010年6月29日火曜日

美の調和

優れた芸術は、押し並べて調和を保持している。それは色彩であったり、音階であったり、陰影であったりと表現領域によって様々であるが、必ず調和をもって成り立っているものだ。これを、私たち鑑賞者は言葉に出来ない心地よさとして認知し、それを「すばらしい」と表現する。つまり、作家でなくとも調和の心地よさを知っている。それを良しとする能力をそもそも持っているのである。
それは、生命体として今まで生きながらえてこられた経験がそのような感情としてわき上がらせるのかも知れない。ある生命体はそれを取り囲んでいる環境との調和が保たれていなければ淘汰されてしまうからだ。生命誕生から35億年の長きにわたり続いてきた生命の流れ。これまで、無数の生命が調和を保てずに絶滅してきた。いま生存している生命体は、その意味で調和のバランスを保てている成功者であり、長く存在を許された「命のヒット作」とも言えるだろう。
調和を美とする私たちは、そうしながら、今まで生きながらえてこられた自分たちの潜在能力を讃えているのかもしれない。

2010年6月24日木曜日

物を見て触る

私たちは、感覚を持っている。生まれたときから当たり前のものとして機能している感覚。この感覚が無ければ私たちは自分の周りの事象を一切知ることができない。そのことを思うと、感覚の意味合いが変わる。
さて、解剖学では、感覚を幾つかに分けて考える。皮膚で感じる感覚は一般感覚。頭にある目、鼻、耳、舌で感じるものを特殊感覚と大きく分ける。また、それが意識下に上るのかどうかで、体性と臓性と区別もする。

頭部に集中する特殊感覚、目鼻耳を獲得したという進化上の事実は全く驚愕に値する。このうちどれか1つが欠けると、日常生活はとたんに困難さが増す。これらは、受容器として分かれているが、脳においてはそれらの情報は相互に補完し合い、統合された外部情報として扱われる。だから、音で見え方が変わったり、その逆もしかり。料理では、盛り合わせと香り付けは重要である。

目鼻耳のそれぞれの依存度は動物によって違う。人間は目の依存度が大きい。左右の目が仲良く並んで正面を向き、立体視を可能にしている。色盲が多いほ乳類において例外的に色覚を持っている。
この強力なツールと、自由に物をつかめる器用な手。この名コンビが人類を地球上で秀でた種に押し上げてくれた立役者だ。見て、触れる。見るだけでは足りない。触れるだけでも足りない。両者の情報の結合が要る。その蓄積が、物作りの経験となり、道具を作り操るという人類の特徴たる性質を構築した。

情報化が急速かつ高度に進んだ今、私たちは情報の利便性を日々”体感”している。情報を阻害するのは物質である。情報をより円滑に統合するには物質性を排除していかざるを得ない。iPhoneは物質的形状としてはもはやモノリスとなった。
情報至上主義的な流れは、芸術にも当然押し寄せている。もともとアート寄りの人間は新しい事象に敏感だから、そうなるのも分かる。とは言え、表現媒体としては以前からある素材(画布に油絵、木彫などなど)を用いていたりするから、どっちつかずの感があふれている。要するに、作家も物質と情報の間を揺れているのだろう。

情報を重視すると、物質を見なくなる。人を表現したいとき、情報としての人で十分ならば、モデルを立たせて観察し造形する必要などない。壁に「人」と書けばよい。
今の芸術、それもより物質と関連する彫刻でこの問題は静かにかつ深く問題になっていると感じる。人を作る作家が、人の形状や構造に興味を示さない。「雰囲気・気配」さえ出ればそれで良いということだろう。

美術解剖学というものがある。間口はとても広い。それは、人の見方を示している。人を見るには、人は物だという事にまず気付く必要があるだろう。そうして、目新しい物を観察するように見ていくと、広い間口の一歩奥に、別の扉があることに気付く。そうして奥へ奥へと進むにつれ人体と芸術のただならぬ面白さの連関に飲まれる。ここからが、人体、芸術、彫刻を追うことの快楽の真の入り口なのだと思っている。そしてそこが美術解剖学の本当の入り口でもあるのだろう。
そして、奥へ進む手段として外せないのが、見ることと触ることなのである。人間を「人体」として片付けない。構造を「解剖学」で終わらせない。彫刻を「象徴」にしない。そっちへ安易に流れないために、自らの目で見て手で触れる。

芸術家の仕事は、情報の整理ではなくて情報の翻訳ではないだろうか。

2010年6月17日木曜日

体腔という空間

体を考えるとき、通常はその皮膚の内側は肉やら骨やらで完全に満たされたものとして捉えている。だが、その構造を見直してみると、体内は以外と空間が多い。もっともそれらは普段は圧迫されてはいるが。
分かりやすい例としては、口から肛門までの間の腸だ。物が通るのだから空間があるのは当然である。他にも肺もそうだし、血管も流動性の血液を考えなければ管状の空間があると言える。
これら想像しやすいものの他に、大きな空間がある。体腔と言う。肺、心臓、内臓全体を包括している空間である。つまり、肺や心臓や内臓の多くは肉の中に直に埋もれているのではなく、それらを包む空間のなかに収まっている。厳密に言えば、腹膜の外にあるそれらの臓器が体腔の膜と共に押し入っているのである。

この体内にある空間は、かつては体の外の空間だった。胚子期にそれが体内に取り込まれる。この外の空間は、母体内で私たちの体が浸っていた羊水ではなく、それをさらに取り巻いていたもので、言うなれば羊水という海(地球)を取り巻く宇宙空間である。

生命体の構造の複雑さから、それを「小さな宇宙」、「内なる宇宙」などと形容するが、私たちの腹の中にはまさに、全体を包括した空間が取り込まれていた。
この空間は生体では完全に閉鎖されているが、女性の腹腔は卵管を通して体外と通じている。女性の卵は毎月、腹腔内という「外空間」に生み出されただちに卵管に吸い込まれる。この、一度出してまた取り入れるという2段方式には何か秘密が隠されている気配がある。

ともあれ、私たちの体内には空間がある。この事実は、概念として彫刻との関連性を考える意味がある。ソリッドであるか、ホロウであるか。存在することの意味を問うならば無視することは出来ないし、事実作品性に大きな影響を与える要素である。
穴とそこから続く空間。その感覚。芸術における空洞の重要性を自らの構造とも照らして考えたい。

2010年6月5日土曜日

構造美人

「美人」という単語がある。通常は、女性に対して用いられるが、最近は、「イケメン」という対男性の単語も市民権を得た感がある。
美人とは何かは誰でも分かるだろうが、それを一般化しようとすると定まらない、おおざっぱで概念的な言葉でもある。
とは言え、それは顔を指しているのは確かで、それも正面から見た顔を思い浮かべるだろう。それは、私たち人間の顔面が著しく平坦化し、正面性を強めたことと、コミュニケーションの多くを発声と顔面筋の運動だけでまかなうようになったことと関係している。
黒目の両側に白目が常時見えている動物は人間くらいだろう。これがなかったら「目配せ」は出来ない。目が口ほどに物を言えるのも白目が見えるからこそだ。「芸能人の命」たる白い歯。私たちは親しい間柄の対話において、互いに幾度となく歯を見せ合う。両頬を上に持ち上げて(白目や白い歯という全反射し目立つ色の体構造を効果的に用いているのも興味深い)。顔面を赤くするのは緊張状態を表し、それが女性の唇に見られれば性的アピールにさえなる。
このような、顔面(まさに面planeだ)の重要性ゆえに美人も正面性のみが強調される。これは、短頭で平坦な顔面を持つアジア人の私たちにはありがたいことかもしれない。
しかしながら、そうはいっても、私たちの顔面は紙に描かれた面ではなく、頭蓋の構造から出来た凹凸があるわけで、それは、彫りの深い西洋人と同じである。私たちは、彫りが浅いのに過ぎない。
テレビなどを見ていると、そこに登場する女性は当然美しい人が多いが、構造的には正面性が強いひとがやはり多い。アイドルポスターがたるむと変顔に見えてしまうように、平面性の強い美しさは側面からの視点に少々弱さがある。
それでも、側面からでも美しさを保つひともいる。そういう人は頭部の構造そのものが美しいのだ。顔面のみならず、それが乗っかる頭部そのものが整っている。そういう人は構造美人とでも言いたくなる。
構造美人は、あらゆる視点に耐える美しさがあるから、平面性の強い私たちには憧れとなる。彫りの深い欧米人はこの点でアドバンテージがある。

この「問題」は、具象肖像彫刻でも見られる。のっぺり顔の日本人を、単なる立体似顔絵を超えて彫刻作品として成り立たせるのは、欧米人のそれを作るよりもハードルが高いことだと思う。それでもそのハードルを越えてきた優れた日本人の肖像彫刻はあるわけで、そこには作家の彫刻足らせるための努力が刻み込まれているのだと思う。