2010年6月17日木曜日

体腔という空間

体を考えるとき、通常はその皮膚の内側は肉やら骨やらで完全に満たされたものとして捉えている。だが、その構造を見直してみると、体内は以外と空間が多い。もっともそれらは普段は圧迫されてはいるが。
分かりやすい例としては、口から肛門までの間の腸だ。物が通るのだから空間があるのは当然である。他にも肺もそうだし、血管も流動性の血液を考えなければ管状の空間があると言える。
これら想像しやすいものの他に、大きな空間がある。体腔と言う。肺、心臓、内臓全体を包括している空間である。つまり、肺や心臓や内臓の多くは肉の中に直に埋もれているのではなく、それらを包む空間のなかに収まっている。厳密に言えば、腹膜の外にあるそれらの臓器が体腔の膜と共に押し入っているのである。

この体内にある空間は、かつては体の外の空間だった。胚子期にそれが体内に取り込まれる。この外の空間は、母体内で私たちの体が浸っていた羊水ではなく、それをさらに取り巻いていたもので、言うなれば羊水という海(地球)を取り巻く宇宙空間である。

生命体の構造の複雑さから、それを「小さな宇宙」、「内なる宇宙」などと形容するが、私たちの腹の中にはまさに、全体を包括した空間が取り込まれていた。
この空間は生体では完全に閉鎖されているが、女性の腹腔は卵管を通して体外と通じている。女性の卵は毎月、腹腔内という「外空間」に生み出されただちに卵管に吸い込まれる。この、一度出してまた取り入れるという2段方式には何か秘密が隠されている気配がある。

ともあれ、私たちの体内には空間がある。この事実は、概念として彫刻との関連性を考える意味がある。ソリッドであるか、ホロウであるか。存在することの意味を問うならば無視することは出来ないし、事実作品性に大きな影響を与える要素である。
穴とそこから続く空間。その感覚。芸術における空洞の重要性を自らの構造とも照らして考えたい。

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