解剖学に興味を持ったのは、遠く大学生の頃。美術解剖学の講義の名前、その「解剖学」というフレーズに何か惹かれるものがあった。そう言う人は少なくないと思う。
決定的なのは、2年生の頃の解剖見学だった。その日の朝と夕方では世界が変わってしまった。もう、知る前に戻れないという事実を眼前にして、興味本位で見学した行為を後悔さえした。しかし、その時にそっと心に結わい付けられた解剖学と繋がる興味の糸は外れることがなかった。
解剖学の面白さは、じわじわとくる。しかも、面白さに段階があって、それぞれの興味範囲でも楽しめるようになっている!
自分の経験を元に考えると、初期段階は、骨だ。やはり、カラリと乾いているし、そのまま置いておける身近さも手伝って、その形状にまず惹かれるのはもっともである。
骨は、まもなく連結した「骨格」への興味へと移るだろう。一緒じゃないかと思われるかもしれないが、単独の骨と連結した骨格は、全くと言っていいほど興味所が違う。骨格では、関節の可動や、連結した骨同士によって意味をなす構造などが見所になる。
骨格に満足すると、そこに付着していた筋肉が気になる。それが次段階だ。なにせ、今まで見ていた骨の形状を規定しているのは、それにまとわりついていた筋によるのだから。すると、筋の付き方の精緻さとそれが生み出す運動の複合構造が見えてくる。骨格と筋で、体表を成す凹凸のほとんどが構成されている。こうなると、体表の凹凸を知るのに、体表筋だけを見ていたのでは物足りない事に気付く。
人体の形状を成す構造をメインとして見るなら、ここまでで一段落付く。ところが、本当の面白みはこの次から現れるのだ。
この先にあるのは、血管。体表のすぐ下を走行する静脈もある程度の規則性があるから、知っておくと造形にも役立つが、そこから脈管系に入り込み、また、筋の運動を制御している神経系に入り込む。そうしてなだれ込むように、内臓系へと入ってゆくと、全てが切り離すことが出来ない機能と構造の環を成していることが分かり、もはや、筋だ骨だと言っていられなくなる。言わば、系統的な見方に局所的な見方が加わる。
そして、それらがどうしてその形になったのかを知るヒントとして、発生学にも首を突っ込んでしまう。これが、これで凄まじく深くかつ面白いのだ。
こうしている内に、ふと自分の存在の見え方の基底が変化してゆくのに気がつく。個と全体、命の流れの一瞬としての今・・。
そんな生の哲学めいたことも、誰かに用意された言葉や思考機序によって発見されるものではなく、生命存在の事実から導き出されるから素直に染みこんでゆく。
そうしてここからは、形状(構造)とそれが織りなす生命(機能)が生み出す留まることを知らない好奇心の波にのまれてしまう・・。
解剖学は、生命を「生命」という看板が付いたつかみ所のない概念に落ち着かせない。それを、「生物」という確固として存在している物体から見いだされる現象であることに引き返させてくれる。
私は、ここに解剖学が持つダイナミクスを感じるし、情報という概念が一人歩きしがちな今にあっては、ひとの存在のあり方を見返す為のツールにさえなり得ると思っている。じゃあ、具体的にどうするの?かと言われると、まず中高基礎教育に解剖学を取り入れたらどうだろうか(もちろん人体解剖は無理だけど)。ただ、解剖学は進める順序が重要で(何でもそうだろうが)、いきなり内臓だ骨だと言っても伝わらないから、そこは考えなければならないだろう。
まあ、単なる思いつきにすぎないが。
とにかく、そんなことを柄にもなく考えてしまうくらい、解剖学は自分を含めた命ある物の存在について多くの示唆を与えてくれるのである。
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