現在、インターネット上のネットワークを利用した人工知能の開発が進行しているという。その現状のいくつかが先日テレビで紹介されていた。その技術はマーケティング予想などで既に用いられているそうだが、その他に、「ひとの意識」問題にせまる研究も行われている。そのひとつは、既に亡くなっている人を人工知能で「蘇らせる」というもの。生前の画像や動画や日記、手紙など故人と関係する情報を次々と与えていくことで、人工知能が自律的にキャラクターを作り上げていくそうだ。情報が増えることで、その人工知能が返してくる返事はより故人のそれに近づいていく。そうして作り上げられる人工知能としての故人と自分の間に、ふたりの間でしか成立しないような親密な会話が成り立ったとき、人工知能は亡くなる前のその人と同じなのか、別人なのか。しかし、そこにあるのは「声」だけである。
別の例では、全くの仮想的な人格を生成させる。最終的にはその人工知能に感情が生まれるのかどうか、というところも含めて研究している。これは、出力媒体として、人間に似せた首から上のロボットが作られ、それが質問者に対して語りかける。シリコーンの皮膚を持ったリアルな首だけの肉体が、ぎくしゃくと動いて「機械声」で語りかける光景は80年代のSF映画の様だ。
マーケティング予想でも有効な回答を出すように、人工知能は非常に的確(であるように思われる)回答をしてくる。仮想的な人格でも成り立つほどの“精度”を持っていると言える。そうでありつつ、我々が知り得るのはいつも回答だけで、それがどのようにして無数の情報ネットワークから引き出されたのかは、提示されないのだという。その意味においても、私たち自身の意識と似ているように思われる。私たちは意識や感情は”実感”しても、それがどのように自発的に生み出されているのかは分からない。
今この瞬間にも、人工知能は膨大なネットワークを組み込んで、自らの知を膨らませ続けている。そこにやがて自発的な感情が生まれるのだろうか。それとも、それは既にあるのかも知れない。
人工知能が「情報」というソフトウェアであるなら、人工的な「身体」つまりハードウェアの研究もまた日々伸び続けている印象を受ける。すなわち、ロボットだ。10年ほど前にホンダが発表した人型ロボットは世界中に驚きを与え、我々一般人も日本の隠された産業技術力に驚きまた期待したものだったが、どうもそれ以降は飛躍的進歩は控えているように感じられる。その一方で、ここ数年、主にインターネットでコンスタントに話題に上るのがアメリカのボストン・ダイナミクス社が開発する4つ脚のロボットだ。頭部を欠いた胴体と脚だけの構成で、けたたましい動作音と共に、力強く動き回る。どうやら軍事使用が念頭にあるらしく、悪路でも自律的にバランスをとって歩行できることが何よりの「売り」らしい。やはり、自分で立つということが、機械が我々動物の仲間入りが出来るかどうかの第一関門ということか。
同社が配信した最新動画が最近ニュースで取り上げられた。そこで登場する4つ脚ロボット「Spot」が姿勢を保持しながら歩く姿は素晴らしく、また動画の中では姿勢保持技術の紹介として”伝統の”足蹴りが行われる。立っているSpotの脇腹あたりを横から思い切り男性が蹴りつける。するとSpotは、横に振られるがすかさず脚を踏み込み素早くバランスを取り直すのである。さて、ニュースで話題となったのはこのシーンだが、そこで取り上げられたのはロボットの姿勢安定技術ではなく、「ロボットを蹴るのが残酷だ」という視聴者の感想のほうだった。ロボットとは言え、足蹴にされる姿を見るのは心が痛む、他に表現方法はなかったのか、といった感想が多く挙げられたそうだ。同社がこれまで発表した4つ脚ロボットはこれまで、「LS3」、「Bigdog」、「Wildcat」と言った呼称が付けられていたが、今回は「Spot」である。これはペットの犬を想起させる。Spotの体もいままでのロボットより細く小さく、動きもスムーズで、より動物らしく見える。動画を見るひとには、犬のSpot(日本人ならポチやハチ)が思い切り足蹴にされているように感じてしまったのだ。動画をみたひとはこれが命なき機械だと当然分かっているはずである。Spotは蹴られたところで痛みも感じないし、”飼い主に裏切られた”と思う心もない。内蔵された高度なセンサーが駆動系と連動して見事なバランス保持を成し遂げたに過ぎない。そんなことは分かっている。しかし、脇に立つ男性に渾身の力で蹴られ、ふらつきながらも姿勢を正し、静かに佇もうとするSpotを見ると、多くの人が(いや潜在的にはほとんど皆が)心のざわつきを感じてしまうのである。この時、私たちの心には、ロボット犬Spotが自分たちと同じ生き物として映っている。心なく命なき機械に生命を見ているのである。
はじめに挙げた人工知能と、”ロボットを蹴らないで”というニュースは、『私たちにとって「生ある対象」という存在が、いったいどこに存在しているのか』という疑問に、ある示唆を与えてくれる。つまり、「命はどこにあるのか」という疑問だ。命は生物が持っているに決まっていると言われる。学校でもそう習った。では、学校で習った生物と非生物の違いで分けるならば、ここで出てきた人工知能の故人もロボット犬Spotも非生物ということで片付いて、取り立てて問題にも上がらないのではないだろうか。これらが私たちの興味関心を引くのは、まさにそのジレンマに感覚がくすぐられるのである。”物質なき人工知能”に生命が宿っているはずがない。そう断言できるはずなのに、そこには確かに”あの人”を感じ取ることも出来る。Spotも然り。そこには確かに生命を感じる。その感覚、感情をごまかすことはできない。では、機械たちの生命はどこにあるのだろうか。それは、私たちの内にあるとしか言いようがない。私たちの脳は、機械にせよコンピューターにせよ、その「振る舞い」のなかに生命を見るのである。そのように進化してきた。この「振る舞い」はとても広い範囲に及ぶ。それは突然の嵐に”怒り”を見たり、転がっている石ころに神という存在を見ることも含んでいる。人類が神の姿に人間や生き物の姿を見て、それを表現してきたように、「振る舞い」に見る生命感覚は、私たち自身に近づくほど強くなるようだ。だから、自然物そのままのカタチからやがて人の姿となり、それはポーズを付けるように変化していく。
だから、本来は生命感覚と生命現象とは分ける必要がある。生来的に私たちが持っているのは生命感覚である。これは物質である私たち自身が長い進化の間に動くようになり、そこから生命と非生命とを選別するために必須の感覚として獲得したものであろう。実際、敵を岩と勘違いするより、岩を敵と勘違いする方が、同じ間違いでも我が身を助ける。この生命感覚に対して、生命現象はあくまで科学の視点において見出されたひとつの概念に過ぎないと言える。私たちが生物の授業などで聞く、生物の定義うんぬんの話もここに属する。ちなみに現在の生物学においては生物の最小単位を細胞に置く。その見方ではだから、人間個人はおよそ60兆の命の集合体とも見なせる。そのように「個人」は「集合体」へ明確に分けられる存在となり、その概念は身体部位の取り替えも当然と言わせるのである。しかし、生命現象の定義のあいまいさを見れば、意識による後付けの強引さを感じもする。例えば身近なウィルスは生物か非生物か明確に言えない。
人工知能やロボット犬の例を待たなくとも、同様の感覚は日常的に味わっている。愛着のある物が捨てられなかったり、人形を壊すことに対する不快感などもそうだ。それらは私たちにとって、単なる命無き物質ではなく、確かに私たち同様に感覚ある存在として感じられるのである。この共感を持つがゆえに芸術という行為がうまれたといって良いだろう。
このことはまた、私やあなたといった個人の存在の所在にもスポットを当てる。誰でも確固たる自分の存在を感じることができる。この自意識があなたを規定し、それが他者や社会においても同様であると信じる。私たちは自意識をそのまま外部に対しても適応する癖があるから、自分の思う自分がそのまま他人にとってもそうであろうと思い込むのだ。しかし、これも実は違うという事実の断片を、例えば写真に映った自分や録音された自分の声への違和感からも知ることができるだろう。それに、他者に依る自分の印象を聞いて、「私の事を分かってないな」と感じたこともあるだろう。しかしそれは、こちら(つまり主観的な私)から見た一方的な視点に過ぎない。結局の所、自分の信じる自分とは、自意識の中にしかおらず、他者の中には他者が見たあなたがいることになる。他者が認識するあなたとは、あなたが人工知能に見る人格と、存在の重さにおいて差違がないのである。私たちはいつも表象をながめ、そこに自らの意識が自らに向ける生命感や自意識を投影することで理解しようとする。だからあなたが思うあなた自身と、世界が見るあなたの間にはかならず違いがある。「私」とは、各々が自意識で感じる隔絶的な存在なのかもしれない。あなたの信じるあなた自身とはあなたの中にしか存在していないかもしれない。つまり隣人が知っているあなたと、あなた自身の知っているあなたは別人であるとも言えるのだ。
人工知能やロボットに命ある存在や人格を投影するのは、私たちの本能だと言える。その指向は日常的に他者に向けられている。私たちは皆、他者の存在やその振る舞いから自己の中にその人を作り上げ、それと向き合っているのだ。同様に、私たち自身も、自意識が示す自分とは異なる自分が外世界に作り出され生きているのである。
私が小学生の頃に、仲良くしていた同級生がある日こんなことを言った。「知ってる。人形には命があって、生きているんだ。」私はそのことの意味を感覚において十分に同意できたにもかかわらず、”知識として間違っている”として、彼の意見を否定した。普通は感じていても言葉にしない曖昧な感覚を、彼は家族との会話か何かで聞いて始めて意識化し、その不思議さを仲間に開帳して見せたのだろう。当時の私は、言葉として「人形が生きている」と認めることはできなかったし、友人が違う価値観を示してきたことに対して否定的な感情を抱いたのだ。しかし、今ならこれが生命感覚と生命現象という、「いのち」を基点としつつも向いている方向が全く違うものをごちゃまぜに捉えてしまった私に非があることが分かる。「人形には命があって、生きている」ことを私たちは昔から知っていたし、それは人体をモチーフとした芸術を人類が作り続けていることが証明している。何より、それを否定すれば、この世界で生きているのは自意識で感じることができる私ひとりということになり、更に、その私は他者から見れば生きていないというおかしな矛盾に陥るのだから。
「いのち」の在る場所と「私」の居る場所を巡るさまざまな見方は、結局はいつも同じ場所にありながら、その見え方だけが時代ごとに変わっていく。人工知能は意識を持つのか? ロボットの犬ならば蹴り飛ばしても構わないのか? これらは現代的な形で、生命や意識の、そしてあなた自身の所在を私たちに問いかけている。